第26話 妖精の末裔

 ブロドはとにかく走っていた。

 チャスを、メズを目指して。

 焦る気持ち抱えたまま、ただひたすらにその場所へ走る。

 走る。走る。

 

 後ろでは、クーが、テイトが、キャンティが。みんな、ブロドが進めるようにカイとトーキを抑え込んで、道を作ってくれた。

 それに感謝しながらも、今はとにかく少しでも早く、大切な人の無事な姿を確認したいと思った。


 ブロドが足を進めるのは、獣道と呼ぶのがせいぜいの小道だった。

 後方で続いているだろう戦いの音が、もう聞こえない。

 

 周りの木々は、どんどん深くなっていく。背の高い木と、生い茂る葉が太陽を遮る。

 まだ夕暮れ前にも関わらず、雲に覆われた空のせいで薄暗い。昏い森と相まって、視界を悪くしていた。


 と、走り続けていると、目の前が急にぱっと開けた。

 小道は終わりを告げ、先には湖が広がっていた。大きくはないものの、淀みの無い透明な水と、取り囲む木々によって神聖さすら感じさせる、不思議な空間。

 屋敷に住んでいた頃は、ここに来るのは特別な時だけだった。

 例えば、そう。


 ブロドは足を止めた。

 

 たった今抜けたばかりの小道と湖の間には、1つの東屋が建てられていた。その唯一の建築物の中には、木でできた長椅子だけがぽつんと置かれている。とても簡素な東屋だ。

 そこを安らぎの場としている、メズに会う特別な時だけ、ここへは来ていた。


「――チャス!」

 

 やっと見つけた姉の名前を呼んだ。

 長椅子に横たわり目を瞑っているのは、見間違えるはずがない、チャスだった。


「……メズ」そして、チャスの傍らに腰掛けているこの世の者とは思えぬ美しい女。「チャスに、何をした……?」

 

 相変わらず色素の無い灰色の髪は乱れていても、ひどく神秘的な雰囲気を持つ。

 ブロドに背を向け湖の方に体を向けながら、メズは横たわるチャスを見つめ、頬に触れていた。

 遠目からでも、壊れ物を扱うかのようにそっと触れているのがわかった。

 初めて出会ったあの日と変わらない、大切なものを扱う手だ。

 

 それは少しだけブロドを安堵させたが、それでもメズの元にチャスがいる状況に、手を上げて喜べるわけがない。

 チャスを凝視しても、目を覚ます様子は無かった。


「チャス!」

 

 ブロドにもう一度名を呼ばれても、ぴくりとも動かない。

 そして、一向に反応を示さないメズにも、業を煮やす。

 

「メズ、聞いてんのか!」


 メズがやっと、目線をチャスからブロドへと移した。

 怠慢なその動きが、どうにもこの非現実感を煽る。そして、恐ろしく形の整った小ぶりな唇が動く。

 

「――まだ何もしていないぞ」

 

 哀し気に微笑んでそう告げる中世的な女の声には、どこか哀愁が漂っていた。


「まだ……?」


 不穏なその響きの先には、一体何があるというのか。

 ブロドは、カイの言葉を思い出して、拳を握る。


――力をメズが抜いたとして、命の有無はやってみないとわからない。


「久しいな、ブロド。元気だったか」

「まあ、それなりに……」


 メズはブロドを見て問うも、その答えは大して聞いていないような素振りだった。「そうか」と少しだけ頷き、もう一度チャスへと視線を落とした。


「二人が立派になっているようで、私は安心した」

「そうかよ」


 そりゃあ、拾って育ててくれたのはメズなわけだが、この状況で言うことだろうか?

 奇妙なやり取りに、ブロドは内心首を傾げつつ、少しずつ東屋へと近寄っていく。


「カイが、何か言ったか?」

「……ああ」

「何と?」

「メズが、衰弱してるって。力が無いから衰弱するなら、力を戻すしかない、って」

「……そうか」


 自分で訊いておきながら、やっぱりメズの応答は明らかにブロドの返事をまともに求めていなかった。ただ、目の前に横たわるまだあどけない少女を、囚われたように見つめているだけ。


「なぁ、ブロド」メズの声が一段と低くなる。「チャスが一番大切であることに、変わりないか?」

「当たり前、だろ」


 何故だろう。

 この質問には、何かが潜んでいる。そんな気がした。


「なら、――お前にとって、最も幸せな記憶は何だ?」


 どくん、と心臓の音がした。


 記憶を売る双子の妖精。

 そのあだ名の根源は、人間から最も幸せな記憶を奪えるこの力だ。

 その力を分け与えてくれた、目の前の美しい女。妖精の末裔。


 本物の力を持つ者のその問いに、嘘は無意味だ。

 メズがその気になれば、ブロドの中にある最も幸せな記憶は、一瞬にして彼女の手の中に小瓶に詰められた液体となる。

 そして、ブロドは次の瞬間にはその記憶を失くす。


「――わからない」


 だから、嘘はつかなかった。

 自分の最も幸せな記憶を答えられる人間なんて、この世に一体どれほどいるというのだろう?

 小さな幸せがそこら中にあって、それら一つ一つが、つらくても夜を耐え抜く原動力になる。だから、人間は日々を乗り越えていける。生きていける。

 それに、やっと気がついた。


「オレはメズが教えてくれた、幸せが足りない人に、幸せを分けるためにメモリアがあるということを疑わなかった。今だって、それを否定なんてしねぇ」


 事実、それはそうだと思う。

 人の幸福の基準はバラバラで、貧しくても幸せな人も、病気があっても幸せな人も、死に間際でも幸せな人も、きっとたくさんいる。

 幸せの定義は無い。だからその分だけ、自ら「幸せ」という目に見えないそれを掴める人間は、強くなれる。

 でも、今まで見てきた、クーに読まされてきたメモリアには、どれも誰かとの記憶だった。


「けどな、メズ」


 人間は、きっと一人では生きていけないのだ。だから誰かとの記憶が、明日を生きる糧になる。


 ブロドの手を、チャスが離さなかったように。

 ブロドとチャスを、メズが抱きしめてくれたように。


 ブロドが意を決してメズを見れば、彼女の灰色の瞳が、今はしっかりとブロドを捉えていた。


「オレは、チャスとの記憶の中で、メズとみんなとの記憶の中で、ただの一つだって失っていい記憶なんて無い」


 ブロドからメモリアを作ってみれば、きっとそこには、ただ一つの最も幸せな瞬間が詰められる。

 でも、それ以外の全ても、間違いなく大切な記憶だ。


 メズは微笑みを湛えてブロドを見ていた。

 眩しそうで、誇らしそうで、そして寂しい感情を宿した笑みだ。


「メ――」

「ブロド」


 メズが呼ぶその名前には、愛おしさが滲んでいる。

 

 ブロドがあともう数歩の距離に来たところで、メズの体から光が放たれた。

 あの日、あの煙の中、力を分けてくれた時のように。

 目を開けていられないくらいの急激な輝きに、ブロドは耐えきれずに目を瞑った。

 光と共に発せられる熱で、方向感覚がわからなくなる。見えない視界では、正確にメズの場所を把握することができない。


「ちゃんとこれからも、たくさんの記憶を作れ。お前たちの、幸せのために――」


 確かに近くでメズの声がする。

 だけど、これ以上近づけない。

 

「チャス!」どんどん強くなる光に、燃えるような輝きに、一歩も動くことができない。「メズ! やめろ――っ!」


 叫んでも、メズの光は収まらず――。

 暗い森一帯が、昼と見紛うほどの光に包まれた。




   ***




 肩を刺されたせいで、出血がひどい。

 キャンティは、燃えるようなその傷をなるべく意識の外に追いやって、抱きしめたままのトーキの存在へと思考を向けた。


 キャンティがメズに拾われたのと、トーキが拾われたのは、ほぼ同じ時期だった。

 トーキの方が先に拾われていたが、年齢はずっと下でまだ幼かった彼を育てたのはキャンティだった。

 無論メズはトーキのことをよく気にかけていたし、テイトはキャンティと共にトーキの面倒を見ることが多く、一人で育てたなんて言うつもりはないが、それでもこの子の姉の気持ちに変わりはない。


 ナイフが刺さったままの、大きくなったその背中を、左手で撫でる。

 互いに刺し合って、それでも抱きしめているのはあまりにもおかしな話だった。

  

 でも、トーキが何の考えも無しにチャスをメズと二人にさせるわけがないのだ。

 ずっと見ていた子たち。

 トーキがチャスに対して特別な感情を持っているのは前から気づいていた。妹分へ向ける以上の、焦がれるような視線。


「……トーキ」

「何……」

「ごめん。痛かったよね」


 それに、トーキはふと息を吐き出して笑った。

 優しい、いつもの彼の、呆れたような微笑みだ。


「先に刺したのは僕だよ。まったく……、いつまで経っても僕たちに甘いんだから」

「私、甘いかしら。ちゃんと叱ってたでしょ?」

「そうだね……、怒られるようなこと、三人でたくさんした、から……」

「……トーキ? ねぇ大丈夫?」


 キャンティの肩の傷よりも、おそらくトーキの背中の傷の方が出血量が多い。

 額に汗を浮かべたトーキの視線が彷徨う。

 咄嗟に刺したから、もちろん大怪我させたくはなかったのだが、力加減はできていなかった。


「意識失っちゃダメよ、トーキ。とにかく何でもいいから話して」

「わかって、る。それよりキャンティ、これ、抜いてくれない?」

 

 これ、というのは当然ナイフのことだ。でもキャンティは首を縦に振れない。


「抜いた方が出血が酷くなる。手当するまでそのままにしておいて」

「でもそれじゃあ間に合わない……。ブロドを、止めないと……」

「この期に及んで何言ってんのよ? 言ったでしょ、チャスのためには、ブロドがメズを止――」

「違う」


 痛みに顔を歪めながらも、トーキは強い口調でキャンティの言葉を遮った。

 先ほどから積み重なる違和感たち。キャンティの中で、それがどんどん大きくなる。


「違うって……何が? だってカイが言うには――」

「メズは、カイに嘘を……言ったん、だ」

「え?」

「チャスから、力を抜き取って、自分の体内に戻すから、一人にしてって……。でもその後、メズは僕を呼んで、教えてくれた……」


 その先の答えを、きっとキャンティは薄々気づいていた。

 だってメズが、チャスを傷つけるはずがないって。チャスが大人しくこの数日間メズといたのは、力を返していいって思ってるからじゃないって。

 長年一緒にいた、母とも姉とも言えるその人のことを、心の底から信じているから。


 トーキが深く息を吸って、ゆっくりと言葉と共に吐き出す。


「――力を戻すのは、メズじゃなくて、チャスにだ」

 

 違和感のピースが、繋がっていく。

 キャンティはその意味を考える前に、震える声で尋ねた。


「でも待って……、メズは、これ以上力を失えば本当に――」


 哀しくて、愛に満ちたその答えに、胸が痛くなる。


「それでも、メズは自分よりもチャスの願いを選んだ……。……、メズ自身はどうなってもいいって言って」 

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美味なる記憶 ふなぶし あやめ @funabushiayame

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