でこぼこ

香久山 ゆみ

でこぼこ

「わたしも行く!」

 女の子が元気な声を上げる。

瑠那ルナ、探偵さんに無茶言っちゃダメよ」

 母親が困り顔で宥める。

 先日、母娘から依頼を受けたものの、特に俺の出る幕ではなかったので、依頼料を受け取らなかったところ、気を遣って菓子折りを持ってきてくれたのだ。たった数日ぶりなのに、張り詰めた雰囲気だった母親は穏やかな表情になっているし、幼女は溌溂としている。並んだ父親はそんな二人の様子ににこにこと目を細めている。

「わたし、病院より動物園行きたい!」

 女の子が大きな瞳で俺を見上げる。

「おばあちゃんのお見舞いに行くんだろ」

 俺は幼女に言って聞かせる。彼女たちはこのあとおばあさんが入院している病院にお見舞いに行くと聞いている。

「着替えを持っていくだけなので、お見舞いは私一人でも大丈夫なんですけど」

「……けど、会える時に会っとかなきゃ」

「あ、いえ。骨折で入院しているだけなので。予後も順調ですし。それに、私の仕事が忙しい時にはいつも母に預けているので、ほとんど毎週この子とおばあちゃんは会ってますから、別に今日顔を出さなくても」

「……」

 一応母親に加勢しているつもりだったが、どうやら風向きが違うらしい。大人しそうに見えて、なかなかしたたかな女性だ。

「動物園、行きたい!」

 とどめとばかりに女の子が声を上げる。隣に立つ父親も「一緒に連れて行ってくれ」とばかりに、うんうん頷いている。母親は、「仕方ないわねえ」と眉を寄せているが、最早押し付ける気満々にしか見えない。

「あのですね、俺は動物園に遊びに行くわけじゃなくて、一応依頼を受けて行くので、仕事だし、多少危ないことだってあるかもしれません」

 低い声を出してみる。

「ええ。でも、探偵さんは元刑事だし、安心して預けられます」

「わたしも探偵のおじさんと一緒で、幽霊視えるもん。お仕事手伝ってあげる!」

 屈託ない。父親は相変わらずにこにこしているが、鋭い眼光で俺を凝視している。断ることは許されそうもない。

 父親は、幽霊だ。女の子が物心つく前に亡くなったが、先の事件で母娘の前に姿を現した。女の子には視えているが、母親には視えていない。俺は視えるけれど、幽霊の声は聞こえない。視えるものから汲み取るしかない。が、汲み取るまでもない。父親もめちゃくちゃ動物園に行きたそうにしている。そりゃそうだ、幽霊なんていつまた消えてしまうかもしれない儚い身の上だ。愛娘と動物園に遊びに行くチャンスをみすみす逃すはずもない。とはいえ、父娘二人で行くわけにはいかない。なにせ幽霊だから、周りから見れば幼女が一人でふらふら歩いているようにしか見えない。

 はあ。溜息を吐く。

「わかったよ、一緒に動物園に行こう」

「やったー!」

 親子三人、揃ってガッツポーズした。


 動物園に幽霊が出る。中学生くらいの少年幽霊らしい。今のところ、何か実害があるわけではないが、目撃情報が増えて来園者数に影響する前に手を打ちたいという、動物園からの依頼だ。

 まあ、聞く限り危ないこともないだろう。

「あの、ところでそちらのお嬢さんは……?」

 同伴した瑠那を見て、職員が怪訝な顔を向ける。

「あ、ああ! 娘です。親子連れの方が周りのお客さんにも不信感を与えないでしょうし、こいつも視えるんで」

 わはは、と瑠那の頭に手を置く。利口な子のようで、黙ってにこにこしてくれている。隣で父親からはすごい目で睨まれているが。

 少年幽霊の目撃場所はバラバラで一定しないということで、とりあえず園内を探索することにした。

 迷子にならないよう、瑠那と手を繋ぐ。もちもちした温かい手が、ぎゅっと握り返してくる。正直、かわいい。まじで娘が欲しくなる。「パパも」と言って、反対側の手を本物の父親に伸ばす。父親は少し驚いた顔をして、そっと小さな手を握り返した。俺は、どうせ三人で手を繋ぐなら、母親と一緒がよかったなぁなどぼんやり思う。彼女のような大人しいが芯の通った女性がタイプだったりする。口に出すと、この夫に叱られるだろうが。

 幽霊はなかなか見つからず、ゆっくり園内を巡る。フラミンゴ見て、カバ見て、ペンギン見て、「あっちにレッサーパンダいる!」と瑠那にぐいぐい手を引かれると、目尻が下がる。

「あ」

 ピクッと顔を上げて、瑠那が立ち止まる。

「どうした?」

 尋ねると、じっと向こうを指差す。レッサーパンダ舎のところに、中学生くらいの少年が佇んでいる。幽霊だ。

 そっと近付こうとしたが、すんでのところで気付かれ、少年は逃げ出した。しまった! 慌てて追いかけようとして体勢を崩したおっさん(という程の齢でもない!)の俺と違って、瑠那は俊敏だった。父親譲りの俊足で少年に追いつき、彼の服の裾を掴んだ。バランスを崩した少年もろとも、小さな体がアスファルトの上に転がる。

「瑠那!」

 さいわい、上手く受身が取れたのか、膝小僧に小さな擦り傷ができているだけだ。近くのトイレの手洗い場で傷口を洗い流し、絆創膏を貼る。戻ると、少年幽霊は元のようにちゃんとレッサーパンダ舎の前に立っていた。瑠那の父親の霊が見張ってくれていたのかもしれない。

 俺も隣に並ぶ。一応瑠那を体の陰に隠す。

「ここで何してるんだ?」

 声を掛けてみる。反応はない。まあ、返事があったところで、聞こえはしないのだが。

 少年の視線を辿る。じっとレッサーパンダを見つめている。愛らしい小動物を眺めるには、ずいぶん思い詰めた険しい顔をしている。

 とはいえ、目撃情報はここに限らない。チンパンジーやクマの檻の前、爬虫類館など、さまざまな場所で少年幽霊は目撃されている。そこでも同じように険しい顔をしていたのだろうか。なぜ?

 ふいと、少年の隣に並んだ父親霊が、ぽんと少年の背に手を置いて、なにやら話し掛ける。そうか、幽霊同士だと話ができる。……しかし、肝心の父親霊と俺が話せないのなら意味はない。

 どうしたものかと頭を抱えていると、話し終えた父親が瑠那の脇にしゃがみ、彼女の頭に手を置き、なにやら耳打ちしている。幼女は真剣な面持ちで耳を傾け、最後に力強く頷いた。そして、俺を見上げた。

「ねえ、おじさん。あの幽霊のお兄ちゃん、動物がかわいそうだって」

「え?」

「動物を檻に閉じ込めるのは人間の……エコ? あ、エゴだから、出してあげたいんだって」

 瑠那の言葉を聞き、少年幽霊がうんうん頷いている。

 なるほど、彼の主張は分かった。が、どうしたものか。動物園の意義の是非については、俺はなんとも言えない。管理事務所に連れて行って職員から説明でもしてもらうか。

 少年をつれて、管理事務所まで行くことにした。

「ねーねー、動物さんかわいそうなの?」

 せっかくキリンやシマウマがいるのに、瑠那はなんでなんでと質問ばかりする。

「そうでもないんじゃないか。動物園の動物は野生よりも長生きするっていうし。ちゃんとごはん食べさせてもらって、病気になればお医者さんが診てくれるし」

 当たり障りのない返事をする。横では少年が不服そうな顔をしている。

「でも、檻に閉じ込められてるのかわいそう」

 目の前の小さな檻には何もいない。看板を見るとトラの檻らしい。貼り紙がしてあって、体調不良のため檻の裏のバックヤードで安静にしているらしい。

 空っぽだねぇと言う瑠那に、そう説明してやった。すると瑠那は悲しそうに言った。

「閉じ込められているのが嫌だから、病気になったのかなあ」

 少年が無責任にうんうん頷く。それを見て瑠那は「やっぱり!」と頷き返す。悪影響だ。

 と、

 ガシャン。

 どこかで鉄筋がぶつかる嫌な音がした。

 ギギィー……。鉄の扉が開くような音がする。ぐるるるぅ……、低い唸り声。

 ザッ。

 檻の陰から、一匹のトラが姿を現した。

「トラさんだあ!」

 瑠那が無邪気な声を上げる。嘘だろ。どうやって出てきたんだ。

「お兄ちゃん、トラさん檻から出られてよかったね」

 瑠那が屈託ない笑顔を向けるも、念願叶ったはずの少年幽霊は蒼白の顔をしている。

 この時間、イベント広場でヒーローショーをしているようで、さいわい周辺には他に客はいない。けど、俺たちにとっては何もさいわいではない。

 じりじりと視線を逸らさず後退りする。背後に瑠那の小さな体を隠すも、事態を把握できていない幼女はキャッキャと顔を出そうとする。体調不良であまり食欲がありません、貼り紙にそう書いてあったなと思い返す。手負いで空腹のトラとか、万事休すだ。

 ブルブル震えていた少年幽霊が、耐え切れずに駆け出した。

 ガオッ。

 低い咆哮とともにトラは動く獲物に飛び掛かり、大きな口で少年に噛み付いた。絶望の表情を浮かべて少年はパチンと消えた。幽霊の声が聞こえなくて良かったと、この時ばかりは本気で思った。断末魔など聞きたくもない。

 空腹の紛れなかったトラは、今度ははっきりと俺達に振り返った。

 なんとか時間を稼いで瑠那だけでも助けなければ。

 トラが少年に気を取られている隙に、瑠那は植え込みの陰に隠した。動物の鼻に対してどこまで意味があるかは分からないが、トラだって大きな獲物の方がいいだろう。

 トラの注意を引くために、刺激しない程度にゆっくりと動く。少しずつ瑠那の場所から離れていく。そうだ、こっちだ。

「トラさん、こっちだよー」

 植え込みからぴょこんと立ち上がった瑠那が、トラに向かって小さな手を振る。あのバカ!

「おい、こっちだ!!」

 声を上げるも、時すでに遅し。振り返ったトラは、小さくて旨そうな肉をロックオンした。

 トラが幼女に向かって飛び掛かる。あとを追うも、間に合わない。

「瑠那!」

 瑠那と一緒に隠れていた父親の幽霊が、ばっと瑠那の前に飛び出す。小さな体を庇うように、両手を広げる。そんなことをしたって、幽霊の体など擦り抜けてしまうのに。いや、僅かな時間稼ぎくらいには――。

 バチンッ。

 トラが父親に噛み付いた瞬間、大きく光が爆ぜた。

 しばらくして視界が戻った時には、父親の姿はなく、植え込みの手前で「クーン」と大人しく体を丸めるトラの姿があった。

 そっと瑠那の元まで駆け寄り、体を抱きしめる。トラは先ほどの閃光で気が削がれてしまったのか、もう起き上がる様子はない。

「パパ、食べられちゃったねえ」

 幼女は腕の中でのん気な声を出して、楽しそうに笑っている。

 携帯から管理事務所に連絡して、ヒーローショーが終わる前に、麻酔銃を打たれたトラは無事に檻へ戻されたが、念のため動物園は休園になった。

 檻は壊れるなど異常もなく、誰かが開けなければ、勝手に開くはずもないという。しかし、檻からは飼育員以外の指紋は検出されなかった。飼育員の施錠漏れが指摘されたが、防犯カメラにはしっかり施錠される様子が残っていた。鍵が開いたと思われる時間の映像は乱れていて、結局原因は不明のまま、檻にはもう一つ鍵が増やされることになった。

 管理事務所での事情聴取を終えて、ふれあい広場の前のベンチに腰掛ける。ウサギやモルモットが砂の上をぴょこぴょこ跳ねてる。平和だ。

「せっかくママに結んでもらったのに、緩んじゃったな」

 ツインテールに結んでいたリボンを解く。

「……お前、こんなに髪長かったか?」

 ついこないだ肩に掛からなかった髪が、もう胸元まで伸びている。今朝と同じようにツインテールにしてみたが、やはり来た時の姿とは違うような気がした。よくよく考えれば、違和感は他にもあったような気がしたが、とても疲れていたので、ちょうど母親から着信があったメールに、「今から帰ります」とだけ返信した。

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