患者はふたり、医者はひとり

縁代まと

患者はふたり、医者はひとり

 母国が戦争を始めて久しい。


 鉱脈や油田などには乏しいが海が近く、それなりに豊かな国だった。

 そんな母国は初めこそ優勢だったものの、年を重ねるにつれ劣勢に傾いている。

 俺は国の考えなんて難しいことはわからないが、お互い過剰に削り合っても丁度いい落としどころを見つけて止めないのは宗教だか何だかが関わっているかららしい。

 戦争なんてどこかで儲けるためにやってると思ってたから結構な衝撃だった。


 そんなある日、俺は衛生兵として最前線へ赴くことになった。

 さほど優秀な医者じゃない……どころか闇医者に片足を突っ込んだ人間だったが、清廉潔白で腕の良い医者はもうほとんど残っていないようだ。俺の他に搔き集められた医者も似たような奴らばかりで、まだ医学を齧っただけの学生もいた。

 とりあえず生きていたいなら「やれ」と言われたことをやるしかない。


 二週間ほど最前線で過ごしただけでもよくわかったが、あそこは地獄だ。

 民間人の暮らす住宅地でも平気で戦地に変え、兵士が鬼のように練り歩く。まあその中には味方の兵士も混ざってたが、俺にはどちらも同じに見えた。


 そして、俺はそこで二人の患者を相手にすることになった。


 一人は碌でもない男。

 酒に逃げていたのは明白で、仕事も生きるためにこなしていただけ。故郷では様々な悪事に手を染めていた。縁者もいねぇし、薄汚れていて鏡を見たのも何週間も前だろう。

 もう一人は痩せこけた少女。

 恐らく民間人の生き残りで、今隠れているボロ屋の住民だった。息が浅く血色も悪く、わかりやすく死にかけている。家族らしき人間は見当たらない。


 そして二人は放っておけば二時間以内に死ぬ怪我を負っている。

 時間もないのに薬や輸血パックや道具も足りていない。まったく医者泣かせのシチュエーションだ。

 つまり俺はこの二人のうち、片方しか救えないってことだ。


「ったく、危機一髪ここまで逃げおおせたっていうのに……」


 味方の拠点まであと少しだった。

 民間人だって保護してくれただろうに、そこまで引きずっていく余裕はない。

 俺がしばらく考えを巡らせていると気を失っていた少女が目を覚ました。パニックになられても困るため状況を説明する。

 ただ俺は嘘までついて最後に天国を見せるような善人にゃ良い思い出がない。だからありのまま話し、最後に結論を伝えた。

 薬も何もかも足りないが、それはお前に使うことを。


 すると涙を流して喜ぶ――かと思いきや、少女は涙を流して大層嫌がった。何だこいつは。


「血が流れすぎて目が見えないの。もう一人いるんでしょ、そっちを生かしてあげて」

「もう一人は碌でもない男だ。救う価値なんてねぇぞ」


 少女はまた首を横に振る。

 血の玉が辺りに飛んだが本人には見えてないようだった。


「それでもあなたが私を救おうとしても文句ひとつ言わなかった。なら私にとっては優しい人よ。……私は弟のパンを奪ったことがあるの。優しくはない。この世には優しくあれる人が残るべきだわ」

「そうか、まあ優しくあれる奴が残るべきっていうのは同意だな」


 何も生まない偽善者は嫌いだが――何かを生む偽善者なら根っからの悪い奴よりはマシだ、っていうのが俺の持論だ。

 こんな満足に育つかわからないほど飢えた子供の意見としては至極まともだった。

 少女は頑として譲る気はないらしく、俺はシリンジに薬品を入れながらため息をつく。


「危機一髪、九死に一生、万死一生……せっかく掴めそうだったそんなチャンスを手放すなんて、お前ばかだな」

「ばかなのにここまで生き残っちゃっただけよ」

「とりあえずわかった。ただ……せめてお前には苦しくない道をやりたい」

「おじさんも優しい人ね」


 そういう褒め方はするなとたしなめてから薬を打つ。

 痛みを麻痺させる麻酔だ。そう説明すると少女は笑みを浮かべて意識を失った。

 それはただの日常の中で眠りに落ちるガキそのものの表情だった。しかし俺にはまだ大仕事が残っている。眠るには早い。


 遠くから響く地響きのような爆発音を聞きながら、俺は劣化した仕事道具を広げる。

 最後の子守歌にしては厳ついが、まあこれもこの場にはお似合いだろう。


     ***


 ――私には弟がいた。

 彼が飢えていると自分の分のパンを分け与えるほど可愛かったけれど、何日も何日も飲まず食わずで苦しかった時、思わず弟の分から一口分くすねてしまったことがある。

 弟が落ちてきた瓦礫で死んだのはそれからすぐのことだった。


 今あるパンをすべて弟にあげてもいい。

 だから帰ってきてほしい。

 また夜空を見上げて話をしよう。また犬に芸を教えよう。また喧嘩をしよう。

 そう何度思っても弟は帰ってこなかった。パパとママの時もそうだったからわかってはいたけれど、私はすぐには祈ることをやめられなかった。


 そんな時、隠れていたのに流れ弾が当たって怪我をした。

 気がつけば周りの大人は全員いなくなっていたから、どこに逃げたらいいかわからず前に隠れていたシェルターに向かってみたけれど、そこも壊されていたので仕方なく自宅に戻った。

 ここにはもう何もないから飢えるだけだけれど、怖い場所からは少し遠のくので安心できる。


 すると誰かが入ってきた。

 私たちの国のお医者さんだという。

 この時にはもう私の目は使い物にならなくなっていて、明暗はわかるものの何がどこにあるのか視覚から判断することはできなくなっていた。ただ血の臭いが濃くなったので私以外にも怪我人がいるのかもしれない、と思っていたところでお医者さんが説明をしてくれる。


 私を助けてくれるそうだけれど、私にそんな資格はない。

 それより大人の男の人を助けてほしい。私より救える人が沢山いそうだ。

 それに優しい人こそこの世に残るべきだと思った。


 お医者さんはそんな私の言葉を聞き入れ、痛みを無くす薬を打ってくれた。打たれた瞬間は痛かったけれど、血管を伝うように温かさが広がって瞼が下がる。

 とても安らぐ気持ちだ。

 まるで暖かなベッドの中みたい。


 やっぱりお医者さんは良い人だ、と思っていると――不意に目が開いた。

 ぼやけているけれど何がどこにあるか目で見てわかったので、最初は夢の中の出来事だと思った。でも触れたものすべてに感触があり、匂いもわかり、空気を吸わないと苦しくなる。

 もしかして奇跡的に薬が足りたんだろうか。

 そう思って辺りを見回すと、ひとりの男の人が床に倒れていた。


 傷だらけで私みたいに薄汚れた人だ。

 応急処置だけしたお腹の傷からは血が流れていたけれど、もうその血も乾いていた。目は半開きで水分の失われた目が窪んでいる。血と土で汚れた服には弾痕があった。

 何人も見てきたからわかるけれど、彼はもう死んでいる。


 慌てて確認してみると、私の傷は綺麗に縫合されていた。血液型などが書かれたお守りを見て輸血もしてくれたのか体中が痛いけど動ける。

 ――考えたくないけれど、それでも考えなきゃいけないことに何回も出くわしてきた。

 これもそのひとつなんだろう。


「もしかして私の方を助けちゃったの……?」


 あれだけ言ったのにお医者さんは願いを聞いてくれるふりをして男の人を見捨て、代わりに私を助けてしまったんだろうか。私は下唇を噛んで視線を落とす。

 すると手元にメモが残されているのが見えた。

 メモには震える文字で『仲間の拠点の位置だ。体の小さいお前なら隠れて辿り着けるかもしれないな』と書かれ、脇に簡単な地図が添えられている。私はもう一度男の人を見た。彼の手にはペンが握られている。

 埃だらけの部屋に足跡は二人分。

 私は口を開いたけれど、すぐには言葉が出てこず、喉から絞り出すようにして倒れた男の人に言った。


「……ッ本当に、何……っしてるの!? 優しくあれる人が残るべきだったのに!」


 お医者さんは患者は二人って言っていたけれど、その患者は私とお医者さん本人だったんだ。

 そしてお医者さんは私を選んだ。

 優しい人だった。

 なら、私なんかを救うべきじゃなかったのに。

 そう憤った後、私はまだ煮立った頭で思い至る。


 この人は自分が優しいとは思えなかったんだ。――私みたいに。


 パパとママはよく私を優しくていい子だと褒めてくれた。

 弟を失ってからはその言葉を疑って生きてきた。そんな私でもパパとママなら同じことを言ってくれた気がする。私にとっては悪い子でも、二人にとってはいい子だからだ。

 私はふらつく足取りでお医者さんに近寄った。


「あなたは優しい人よ。――あなたがどう思っていても、私にとっては」


 恩人にかける言葉にしては物足りなかったけれど、私が一番伝えたいことを口にする。

 そうして彼の半開きになっていた瞼を下すと、その顔はまるでベッドの中で眠っているかのようだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

患者はふたり、医者はひとり 縁代まと @enishiromato

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画