三月の留守番電話

青空野光

ありがとう

 今年の桜は人々の期待を大きく裏切ることなく、凡そ例年通りに固い蕾を膨らませていた。

 この分ならば春の嵐にでも遭わない限り、ちょうど卒業シーズンにその見頃を迎えるのではないだろうか。


 駅にほど近いワンルームマンションの一室。

 まるで桜の開花に先んじたかのように桃色で統一された部屋の、その片隅に置かれた小さなリビングボードの上。

 今の時代では珍しくなりつつあるFAX機能付きの電話機が、ただ着信を報せるためだけに用意された無機質な呼び出し音を鳴らす。

 ほどなくしてモノカラーの小さな画面に『メッセージ応答中』の文字が表示されると、やや遅れてスピーカーから少しだけ上ずったような男性の声が聞こえてくる。


『もしもし』

 男の声が消え入りそうなほどに弱々しかったのは、留守番電話にメッセージを残すという行為に慣れていないからかもしれない。

 今の時代よほど大事か、もしくは逆にどうでもいい用向き以外で伝言メッセージを使用する人は多くない。

 特に若い世代ではそれが顕著であり、声を聞いた限りでは男もまたその一人だろう。

 男は二度ほど咳払いをしてから『えっと』とひとこと置き、そうしてようやく第二声を発した。

『高校の卒業式の日振りだね』



 九年前のその日。

 卒業を寿ぐ多くの仲間たちのいる校舎の前庭。

 そこから少しだけ離れた体育館の前で、僕は彼女から別れを切り出された。

「本当にごめんなさい」

 そう言ってから去りゆく背中を追い掛けることが出来なかったのは、彼女にそう言わしめた原因が自身にあったことを知っていたからだった。

 足元のアスファルトの色を次第に濃く変えてゆく雨粒の発生源が自分の瞳であることに気づき、慌てて顔を上げた時にはもう愛しい彼女ひとの姿は失われてしまっていた。



『あの頃の僕は自分の夢のことしか考えていなかった。だから君が下した決断は当然のことだったって、そう思ってる』

 思いのほかに男の声色が明るいのは、九年という月日が青春時代の甘く苦い思い出をセピア色へと染め上げた結果なのか。

『だけど……ごめん。僕はやっぱり今日まで君のことがずっと好きだった』

 相手が不在である以上は独白に他ならないはずだったが、それでも男は目の前にいる人物に話し掛けるかのようにさらに続けた。

『あの日から九年。たったの……たったの一日たりとも君のことを考えない日なんてなかった』

 ここにきてなお男の声は深く沈むことはなく、むしろその口調はより先ほどよりも力強くなっているようにすら思えた。

 ただ淡々と思いの丈をデジタルに変換し、電話機のメモリの中に残そうとしているかのように。

『出会ってくれてありがとう。もし生まれ変わってまた君と巡り合うことが出来たら、その時はきっと……あ。そろそろ時間みたいだから行かなくちゃ』

 その直後、電話口から長い長いクラクションの音が聞こえてくる。

『さようなら』

 たった五文字だけの別れの言葉を最後に、電話機は通話の終了を知らせるピーという短い音を発し、録音件数0件と表示された液晶のバックライもやがて消えた。


 ソメイヨシノがまもなく満開を迎えるであろう三月の、悲しいほどによく晴れた日の午後のことであった。

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