宇宙からの灰

 僕の言葉はだんだんと読むことから書くことへと移っていく。いや、僕は書くことでしかN君の新作を読むことができない。僕の文章を読んでくれる誰かへ、僕はあなたのことをこれっぽっちも知らないし、もちろん思ってなんかいない。でも、あなたがいるから書けるのだと知っている。N君は何かを僕に読ませようとしている。しかし僕はN君の思考を見透かすような鋭利な頭脳は持っていないし、きっと持っていないからこそN君は僕を選んだのだとも思う。だからこの記述もメモ書きの域を出ていないし、きっとみんなは退屈しているだろう。これは小説のふりをした支離滅裂なメモ帳で、勿論思考の過程なんかでもない。でもひとつだけ約束できることがある。僕は後ろから前には書かない。探偵小説みたいに全ての真相をさりげなく仄めかしたりはしない。僕はただN君の送ってくる小説の時間に沿って書くし、みんなが読む時間の配列に手を加えるようなことはしない。そして僕は誰かのように「N君は私だ」とも言わない。代わりにN君はあなただ、とだけ書く。だってこの文章を読んでいるのはあなたなのだから。

 寒空の下、階段を下りていく。ここで初めて明かすけれど、N君の小説は届く間隔が徐々に広くなっていた。これはN君がそうしているのかもしれないし、世の中が今もなお混乱状態から抜け出せていないことの証左かもしれない。そもそも順序なんてないんだし。何より、別れの季節がやってきていると僕は感じていた。それでも、いつもの癖でポストを確認しに行く。寒い寒い朝だ。寒いことしか考えられない。ふと気づくと、初雪だった。初雪というのはいつもあっけらかんと降るけれど、どこか不思議な感慨をもたらすのは何故だろう。ポストを開けると、数週間ぶりの新作が届いていた。

 いつもの茶封筒を開いて思わず、あ。と声が出た。紙面に雪が降っている。僕はストーブに火を入れたばかりの静止したリビングで(寒々しくも透き通った早朝の光とともに)屋根を透過して降り注ぐ雪――それはよくみると雪ではなくて灰――を見た。薄汚れた青空を見た。寂しさが凍てついていた。雪は雪ではなく、不遜な生き物のように部屋中を漂っていた。すべての電子機器が息絶えた。視界が瞬く間に白く濁っていく。僕は慌てて「物語」に目を落とした。


 空が割れる。物語の中に存在する僕たちは灰しか知らない。だからそれも灰と呼ぶことにした。「宇宙からの灰」――それは「僕」が名付けた――はチラチラと僕らを幻惑した。しかしここには〈蟹〉の気配も厄災の記憶もなかった。天窓に穴が空いてしまった世界は、これから亡ぶか、もしくはもう何度も亡んでいたのかもしれなかった。そこに順序はない。生と死の配列を定められないように。ともに死にゆく友よ、と誰かが呟いた。親友であったのかもしれない。


 物語の中で降る雪は、いったいどこに積もるのだろう。僕は身体の芯が冷たくなってきた。芯というよりは、どこかの内臓か五臓六腑が、自分の知らないどこかの器官が、悲しみを溜めかねて、白々しくキリキリと唸りをあげているのを感じた。降り積もった寂しさ。死んでしまったN君の世界に僕はいた。いま僕が書いているこの言葉にもすぐに灰が積もる。僕は間に合わなかった。何か言い残すことはないか? と聞かれて初めて自分の中に言葉を見つける。N君の物語はたしかに何かを言い残していた。それを言おうとするとそれはその人の物語にかわってしまう。自分の言葉で物語をつづること。おそれないこと。おそろしいこと。いま僕は幾つかの疑問を手に入れたばかりだ。

 僕は自分の言葉を読む。別れの季節なんてものはない! そこには別れがあるだけだ。いや、別れは「ある」ことすら拒むだろう。僕は別れが既にそこに「あった」ことにただ気づくだけだ。僕は後悔しかできない。その後悔をなんとか言葉にしようとする。言葉は常に未知のものであるし、侵略であり融合であり発見であるはずだ。後悔だけが僕をつくる。N君はそこにいる。僕はこれからずっとN君と出会い続けるだろう。これが幸福な結末かどうかはわからないが、この不安とわからないことを大事に抱え込んでいようと思う。外の世界が未知であふれているように、僕の中もまた真っ暗な海に満たされている。波の音が聞こえる。僕はそこへ飛び込んだ。

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宇宙からの灰 石川ライカ @hal_inu_

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