屠殺博士の弟

 夜更けに目を覚ますと、消し忘れたTVがぼそぼそと話し込んでいた。断片的に聞き取った会話の内容からは、新型ウイルスの正体は人工的に作られたバクテリオファージなのではないか、云々。いや違う、某研究所が解析した結果によれば、それは宇宙から飛来した準生物と言えるのではないか、云々。僕はバクテリオファージのあの自然が作ったにしては随分自棄っぱちなデザインを思い浮かべた。悪い夢のようだ。大きくなってスピルバーグの映画にでも出てきそう。僕はニュースを消すと、うすぼんやり光るスマートフォンによってN君の失踪を知らされた。こういうことは一息に書いた方がいい。僕とN君の共通の友人から、連絡がつかずしばらく前から家にもいないらしい、何か知っているかとメッセージが来ていた。僕の予感は的中した。というよりも、何かN君の失踪は当然なことで、それは僕が読んでいる小説と関係しているんじゃないかと感じたのだ。もうどうしようもない、僕はただ読むしかない、と思い詰めてしまった。もうこの夜は明けないのではないかとすら思った。そして途端に思い詰めてしまう自分の浅薄さを呪った。

 僕は言いようのない虚しさに囚われてレコードをかけた。イタリアの〝ポップ・マエストロ〟フランコ・バッティアートの「ククルクク」が――悲しげな鳩の鳴き真似だ――ひとりきりの夜を満たす。元の曲はメキシコの民謡だという。リズムに導かれて思わず踊りだす。僕は誰もが寝静まった深夜にしか踊ることができない。バッティアートはイタリア人だし、その歌声はどこまでもポップで、つまりはこれっぽっちも悲哀に暮れることなく、もしかしたらメキシコの鳩の孤独なんてさっぱり知らないなんて平然と言ってのけそうだった。そんな彼も五月に亡くなった。でも、僕は彼の死によって彼を知った。人は死によって繋がることもできる――死は社会の創作物だ――それでも、バッティアートは声を聴くほどに生きている。僕は彼の生きた声しか知らない。むきになって死とか生とかにこだわってしまうのは、僕がセンチメンタルになっているからだろうか。だから、N君はメキシコにいるのかもしれないし、もしかしたらイタリアかも。N君には外出規制なんて関係ないから。僕もN君を追って旅に出ようかと思う。


 屠殺博士の弟は天文学者だった。世間の人々の尊敬を集めていたのは当然ながら生命や人生の秘密を解き明かそうとした博士の方だった。それに対して弟は人々を絶望へと導いた。それは何より彼自身の絶望でもあった。彼はある発見によって、自分自身が天文学者ではなかったことを知った。彼が発見したのは、「灰の天球化」であった。彼は灰に覆われた世界から目を背けて天を仰いだのに、そこに広がる「青」もまた灰に他ならなかった。僕たちは灰の大地で暮らし、灰の天井を「空」と呼んでいたのだ。あの青を見ると、神様(もしくはN君)はなんて意地の悪い陶芸家だろうと思う。彼は人々を無慈悲な灰のミルフィーユに閉じ込めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る