神様の落とし物

和立 初月

第1話

「あ」

 始まりはそんな一言から。

「あ。じゃないですよ、神様! 何やってるんですか!?」

 雲の上の遥か上の世界。天界にて祀られる神様は人類の未来について書かれた大事な本を落としてしまった。付き人達が慌ただしく目の前を右往左往しながら、「これは大変なことになったぞ……」と繰り返し呟いている。

「お前たち。少し落ち着きなさい」

「これが落ち着いていられる状況ですか?もしあれを人間に見られでもしたら……」

 付き人は皆口を揃えて、警告する。越権行為なのは重々承知の上だが、それを些事と思えるほどの重大事件だ。しかし、当の神様はそんな付き人達の警告などどこ吹く風。澄ました顔で。

「大丈夫。あれは、人間には決して読むことができない字で書いてあるからの。人間界に落ちたところで、誰かが拾ったところで、ただの文字のような物の羅列にしか見えんよ」

 ほっほっほ。と神様は微笑みながら、自慢の髭をなでつける。しかし、その様子を見ていた付き人の一人がおずおずと手を挙げて、進言する。「あの……神様?少しお聞きしたいのですが……先ほどまでしたためられていた書に使われていたペンはどちらに……?」

 他の付き人達は、神様の返答を待たずして皆、一様に顔を反らす。まるでこの先の展開から目を背けるように。

「それはさっき机の端に置いておいたじゃろ。お気に入りのペンじゃからな。知り合いの職人に名前の刻印サービスまでしてもらった特注品じゃ。本はうっかり落としてしまったが、ペンまで落とすわけが……あれ?」

 神様は机の端から端までを舐めるように見渡す。シルクのような滑らかな質感のまっ平らな机の上には、書きかけの書物とそれを抑える文鎮。本は、すでに机上からログアウトしているのでないとして。

 改めて、左端から見ていくものの……ない。……というか、目の前に正座している付き人達が誰一人として自分と目を合わせようとしないのだが……。

「お前達………わしに何か隠しておらんか?」優しく語り語りかけるように問うと。

「いえいえいえいえ! 何も!」目線はそらしたままで器用に首を横に振る付き人達。

 その様子に、神様は一人考えを巡らせる……もう一度頭から整理して考えてみよう。

 まず、私は机に向かって書をしたためていた。付き人の一人に茶を用意させて、一服入れようと一旦ペンを置いて、湯飲みに手を伸ばそうとしたところで、机の端に置いていた本が長い袖のせいでスライドして、そのまま下界へと落ちていった。

 ここまでは良い。問題はその後だ。あわてふためく付き人達を落ち着かせて、自慢の髭を……ん?

「そなたよ」果敢にも神様に進言してきた付き人を見据えて神様は言った。

「もしかしなくても……本と一緒にペンも落ちて行くのを見たのか?」



「おーい、帰ろうぜー!」親友達が声を掛けてくる。「よっしゃ、今日は負けないぜ!」と威勢の良い返事で、カバンをひったくるようにつかむと、猛ダッシュで学校の廊下を駆け抜ける。教師の「廊下は走るな!」という声を聞き流して。道幅いっぱいに広がって歩く女子生徒や、廊下の窓際にたむろして、だべっている男子生徒達をいかにして躱すかが勝負の分かれ目だ。階段は1段飛ばし……だと差をつけられないので2~3段飛ばしは基本である。勿論、これに関しても教師に捕まろうものなら、放課後で職員室に缶詰の上、不戦敗という汚名を着せられることになる。

 下駄箱で外履きに履き替えて校舎から出るまでが勝負。その最後の一瞬まで気を抜くことは許されない。

 そして……。

「負けた……」

 久しぶりの敗北を喫してしまった……。途中まではこれ以上ないほどの順調なペースで走っていた。更にショートカットをするために階段の踊り場の窓から、自転車置き場の屋根へと続くコースを選択しようとしたら、自転車置き場の方で進路指導でもある担任と目が合った。担任は一言も発さず笑顔だけで「お前、後で職員室な」と言っていたが、「ごめんなさい、先生!」とショートカットを諦め、光の速さで謝りに行ったことが敗因となったのだった。



「ったく……なんで今日に限ってこんな重いんだよ」

 両肩に下げたボストンバッグを、ドスンと落とす。二つとも部活の道具やら、ユニフォームやらが詰まっているため、かなりの重量があった。

「仕方ないだろ。今日、金曜なんだし。帰ってからメンテしたり、洗濯したりしなきゃいけないんだからな」

 帰宅部のお前にはわからないだろうさ。と、へとへとの体に更に追い打ちをかけて来る親友を見上げながら僕は。

「そりゃそうか。今度大事な試合だもんな。試合、絶対見に行くからな。頑張れよ」

 最後の力を振り絞って、地面に落としたバッグを二人に押し付ける。それをエールと受け取ったのか。二人とも「あぁ、任せとけ! 狙うは優勝ただ一つだぜ!」と威勢よく返すのだった。

 二人と別れ、家路を急ぐ。少しずつ夏の気配が近づいてきて日が長くなってきたものの、近隣では不審者の目撃情報が後を絶たない。公園や市民会館の掲示板には、黒いシルエットに黄色く目が光る、いかにもな人物が小学生や中学生の背後から忍び寄るポスターが張られている。自治会も対策を強化しており、登下校時の見回りや、夜間のパトロールも頻繁に行っている。今歩いている堤防沿いに建てられた看板にも漏れなく貼ってある……ん?

「なんだこれ……」

 看板の下に一冊の本とペンが落ちていた。本はハードカバー仕様になっており、目立った傷はないようだった。表紙は金で縁取りされ、豪華な装飾が施されているもののイラストはなく、裏表紙・背表紙にもタイトルすら書かれていない。………いや、厳密にはあった。

 ただそれを「文字」とみなしていいものかどうかは混迷を極めた。

 学校の授業で「文字の成り立ち」を習った時に似たようなものを見たことがあるが、それのどれとも合致しない。

 中を開いてみると……途中のページまで同じような字体がずらりと並んでいた。挿絵の類もなく、純粋に「本」として描かれたものには違いないらしい。最後のページには1行だけ中央揃えで書いてあり、締めくくられたその本を……僕は持ち帰ることにした。交番に届けるとか、警察署に持っていくとか。そんな当たり前の倫理観より先に、好奇心の方が勝ってしまったのだ。おじいちゃんなら、もしかすると解読できるかもしれないと思って。



 一段飛ばしで境内へと続く階段を登りきると、古来より伝わる装束に身を包んだおじいちゃんが箒で掃除をしているところだった。

「おかえり。学校はどうだった?」

 掃除の手を止めて、おじいちゃんと定例のやり取りをする。いつもより弾んだ返答をする僕に、何か良いことがあったのではと察したおじいちゃんは、手招きしながら僕を呼んだ。

「何か良いことでもあったのかい?」

「これなんだけど……」

 僕は後ろ手に持っていた、例の本とペンを渡す。するとおじいちゃんはしばらく、その本を眺めたあと何かに気づいたのか、みるみる表情が険しくなっていく。怪訝そうに様子をうかがうと、おじいちゃんは何も言わずに、箒を掃除用具入れに直すと、僕の両肩にそっと手を置いた。

「これをどこで見つけたのじゃ……?」

「堤防の看板の下だけど……何て書いてあるか分かったの……?」

「悪いことは言わん。今すぐ元あった場所に戻してきなさい」

 おじいちゃんは真剣な表情でぴしゃりとそう言い放つ。それは、神事を執り行う時にしか見せないようなとても真剣な眼差しで。意見も反論も許さない絶対的なその態度に、境内まで一段飛ばしで上がってきた僕の好奇心は、一気に右肩下がりになる。

「ごめんなさい……」

「分かってくれれば良い。そうじゃな……代わりと言ってはなんじゃが……帰ってきたら、昔話でもしてやるとするかの」

 おじいちゃんは、よく昔話をしてくれる。この国の成り立ちとか祀られている神様の話……。僕はそれを聞くのがとても好きだった。友達と雑談する話題としてはあまり妥当ではないのが悩みの種ではあるけど……。

「じゃあ、行ってきます」

 僕は、元来た道を歩いて行く。階段を降りきって通りに出て、いつもの通学路を歩いて、堤防を目指す。すると、看板の周辺の茂みがごそごそと揺れている。野良犬か野良猫だろうか…?

おそるおそる近づいてみると、僕のおじいちゃんと同い年位のおじいちゃんが腰を曲げて必死に何かを探していた。

「あのー……何か探し物ですか?」

 驚かせないように、音量は抑え目で。それでもはっきりと聞こえるように、なるべくゆっくりとおじいちゃンに問いかけると、

「ん……誰じゃ……?って、うわぁぁ?」おじいちゃんは、振り返りざまに僕の姿を見るなり坂を転げ落ちて、ウォーキングコースとして整備されているアスファルトの上でようやく止まったのだった。

 僕は慌てて、堤防の坂を駆け降りる。あの年齢なら、この坂を転げ落ちるだけでも大怪我につながりかねない。

「大丈夫ですか、おじいちゃん!?」

「あぁ、何とか……大丈夫そうじゃわい。ありがとうね」

 おじいちゃんは背中をさすりながら、にこにことした笑顔をこちらに向けてくる。それが余計に心配になって、「とりあえず、病院で診てもらいましょう!」という僕の提案はしかし、断固として拒否された。

「本当に大丈夫じゃから、用が済んだらすぐに帰るでの」

「じゃあ、僕も手伝いますよ。何か探し物ですよね。何を探しているんです?」

「実は……あの看板の下辺りに本とペンを落としてしまっての……友人から貰った大事な物なんじゃよ」

 背中に冷や汗が一筋流れていく。……まさかとは思うが……念のため、一応、それとなく、確認しなければ。

「あのー……おじいちゃん……もしかして、おじいちゃんが探してるのってこれ……だったり……しますか?」

 僕はおずおずと、本とペンをおじいちゃんに差し出す。

 すると、おじいちゃんはそれを見るなり目を輝かせながら、

「おぉ! これじゃ! まさしくこれじゃ!」と食い気味に僕の手から本とペンを受け取った。そのまま頬ずりしてしまうあたり、よほど大事にしていた物だったのだろう。

「坊やよ。ありがとう。本当にありがとう。なんとお礼を言ったらいいか」

「いえ。お礼なんて。むしろ、おじいちゃんの大事な物を勝手に持っていったりしてごめんなさい」

 おじいちゃんは、僕の謝罪がとても意外な行為だというように目を丸くして驚いた。

「いいからいいから。気にしないでおくれ。無事に手元に戻ってきてくれただけで良いのじゃよ」

 今度はおじいちゃんがひたすら頭を下げるターンだった。頭を下げるべきは僕の方なのに、僕はなぜか

「どうか頭を上げてください」という側に回っていた。



「一つだけ聞いても良いですか?」

「なんじゃ?」

「その本……全く読めないんですけど……なんて書いてあるんですか?」

「これか……?これはだな……実はわしが書いた本なんじゃ」

 そう言っておじいちゃんは、地平線に沈んでいく夕陽を眺める。

「わしはよく、いろんな地へ旅をすることが好きなんじゃが、訪れた土地毎で見聞きしたものを書いておるんじゃよ。世界にはいろんな国がある。暑い国、寒い国。小さい国、大きい国。そうした物事を備忘録代わりに本にしているんじゃ」

 おじいちゃんは、「ちなみに、字体は誰にも解読できないようにわし独自の文字で書いておる」

 と補足を入れた後、いろんな国の話をしてくれた。

「旅行が趣味なんですね………僕も大きくなったらいろんな国に行ってみたいなぁ」

「それはとても良いことじゃな。何でも自分の目で見なければ現実にはならんからの。誰かがこう言った。ニュースの報道は、ネットではこう書かれている。その中には嘘も多い。この世で最も大事なのはそういう物をきちんと見分けられる審美眼を磨くことだ、とね」

 さて、と。そう言って、おじいちゃんは重い腰を上げる。

「長話をしてすまなかった。家の近くまでタクシーで送っていこう」

 おじいちゃんはタクシーに僕を乗せて、運転手にお金を渡す。

「お釣りはいいから。あぁ、できれば残りはその子に渡してやってくれ」

「こんなに……いいんですか?」

「構わん。その子はわしの恩人じゃからな」

 運転席の窓越しににっこりと微笑むおじいちゃんに、僕は最後にもう一つだけ問いかけた。

「おじいちゃん。次はどこへ行くんですか?」

「次はそうじゃな……雲の上にでも行ってみるかの。あっはっは」



「ありがとうございましたー」

 タクシーを降りて、目の前の神社に続く階段を上っていく。

 なんだか、不思議な体験をした気分だ。結局あのおじいちゃんは何者だったのか。

 どこか、普通ではない感じだったが。ポケットの中に握りしめたお金も決して少ない金額ではない。親やおじいちゃんになんて説明しよう……。

 そんなことをぼんやりと考えていたら、いつの間にか境内に着いていた。

 裏手に回ると社務所がある。明かりがついているから、おじいちゃんもまだいるはず。

 そういえば、昔話を聞かせてくれるって言ってたっけ。

「ただいまー」

「お帰り。本とペンはちゃんと返してきたか」

 おじいちゃんは、帰ってきた僕を見るなりいの一番にそれを口にした。

「うん。ちょうどおじいちゃんがこの本とペンを探してたみたいで、そのまま返してあげたよ」

「そうか……それは良かった……今、なんと言った?」

「ん?だから、持ち主らしいおじいちゃんが看板の下を必死に探してたから、渡してきた」

 おじいちゃん、とっても喜んでたよ。と付け加えると、こちらのおじいちゃんは何かが腑に落ちた様子だった。

「そうか……それはよかった。おいで、約束通り昔話をしよう」



「昔昔、その国には神様がいました。神様はいつも天界から人々の暮らしを見守っていました。人々はその神様に日々感謝をして、神社を作りました。今年も稲がたくさん取れますように。今年もたくさん魚が獲れますように。家族が病気をせずに健康に暮らせますように。

 人々はたくさん神様に祈りました。

 でも、人々の生活が時代とともに豊かになるにつれ、人々は神様に対する感謝の気持ちを忘れていきました。自分達に必要な分以上の稲を作って、食べきれない位の魚をたくさん獲って。病気をしてもお医者さんがすぐに治してくれます。

 神様はそんな人々を見て悲しみにくれました。自分に感謝してくれなくなったからではありません。人々の傲慢さに不快感を示したのです。慎ましやかに暮らしていた人々が今ではやりたい放題。

 そして。その結果。

 稲はあまりとれなくなりました。それどころか、稲が病気にかかったり台風で倒れてしまったり……。

 海の温度が上がって魚が快適に住めなくなって、魚が思うように獲れなくなりました。

 お医者さんも知らない未知の病気が出てきて、病院はてんてこまい。

 そこでようやく人々は、自分たちの過ちに気付くのです。そして、思い出すのです。

 自分たちがどれだけ恵まれた環境で育ったのかを」

「それで、その神様は結局どうしたの?」

「神様は神様だよ。今まで通り、人々を見守るだけさ。神様だからと言って、指を弾いただけで金塊を生み出せるわけではないからね。きっと今でも私たちの生活を見守って……いや、ちょっと意地悪な言い方をすると、監視しているかもしれないよ?」

「そっか……神社って大事な場所なんだね」

「そうだね。人は一人では生きていけない。だからこそ、人と人がつながって、助け合って生きている。ただそれでも、限界は来てしまう。極端な話、今から5分後に大きな地震が来ます! って言われてもどうしようもないからね。だから、人は神様に祈りを捧げるんじゃよ」

 空には満天の星々が輝いている。この空の向こう側、そこには神様の世界があって人々の暮らしを日々眺めていて。

「いつか、神様の住んでいる世界も見てみたいな」

 ふと、そんなことを思った。

 どんな姿をして、どんな服を着てどんなものを食べて、どんな家に住んでいるんだろう。

「さぁ、どうだろうね。何せ、神様だから。人間には想像の及ばないことばかりなんじゃないかのう。わしも、もし神様に会えることがあったら聞いてみたいものじゃ」



 神主である少年の祖父は、少年を休憩室で眠らせた後、とある一室へと向かう。”来客”の対応をするためだ。

「おう、待っておったぞ」

 長い髭を撫でつけながら、頬をほんのりと赤く染めたおじいちゃん……もとい、神様は神主を招き入れた。

「もう、飲んでおるのかい」

「あぁ、ひっく。まだ序の口よ。ほれ、お前もさっさと飲め」

 一升瓶を片手に、乾杯でもするかのように突き出してくる神様。神主は手慣れた様子で軽くいなすと姿勢を正し、

「この度は、孫がお世話になりました。聞けば、タクシーで下まで送ってもらったとのことで……。ありがとうございました」

 両膝をついて、深々と頭を下げると、神様は「お礼を言われるのはこちらの方じゃ」と言って、酒瓶を神主の頭にそっと置き、「見つけてくれたのが、お前の孫で本当によかったわい」酒瓶を持つ手はそのままに頭を下げる。

「もう、かしこまるのは良いじゃろう。頭を上げて、お前も飲め」

 神主はおそるおそる顔を上げる。そこには、先ほどまでと変わらないまるで子供のような笑顔があった。棚から、伝統的な装飾が施された切子のグラスを2つ取り出して、一つを神様の前へ。

「お前……わしにこんなグラスでちまちま飲めというのか……」

「一升瓶じゃ、乾杯もできないでしょうから。それに、とっておきのお神酒があるんですよ」

「何!?」

 神主は部屋の上部にしつらえた神棚に備えてある徳利を「頂戴します」と頭を下げてから、神様の前に差し出した。その香りだけで、美酒と分かったのか、神様は早く注げとグラスを持つ手に力を込める。

 神主も自分のグラスに酒を注ぎ、

「乾杯」

 切子のグラスを静かに打ち鳴らし、この度の再会を喜ぶのだった。



「しかし、今度は一体何を落とされたんですか?」

「……待て。乾杯の後じゃぞ。乾杯したら、無礼講だと前に言ったじゃろう」

「これは失礼……。では、改めて。今回は一体何を落とした?」

 実はな……神様は一瞬深刻そうな顔を見せてから神主の方へと体を寄せ、耳打ちをする。

「人類の未来が書かれた本を落としてしまったんじゃ」

「あんたはまた……」

 それを聞いた神主はさして驚いた様子もなく、やれやれといった様子で額に手を当てて首を振った。

「ちなみに、前回は何を落としたんだったかな……いや、それは今は置いておくとして。前回も今回も本当に運がよかった。前回はたまたまこの神社の境内に落ちて、それをわしが拾って……」

「今回はお前の孫ときた。これも何かの縁じゃろう。それに、前回わしが“落とし物”をせんかったらお前と会うことも、こうして酒を酌み交わすこともなかったことを思えば、僥倖とは思わぬか?」

「いい話に持っていこうとしているのが見え見えですな、神様。まぁ、確かに。神職でありながら、神様と酒を酌み交わした者など、世界広しといえどわしくらいのものだろう」

 二人は豪快に笑い合う。本来交わることのない世界の二人が、身分の垣根をも越えて同じ場所で同じ酒を呑む。グラスが空になる度、どちらからともなく酒を注ぎ、身も心も満たしていく。

「なぁ、神様。わしはもうすぐ死んじまうと思うんだ」

「何を馬鹿な。まだまだお前には頑張ってもらわねぇと。こうやって酒を酌み交わす相手がいなくなるじゃろう」

「いやいや、自分の体は自分が一番よく分かってるよ。多分、『次』はもうないだろう……」

「もう一回何か、落としてみるか?」

 神主はいたずらっぽく笑う神様を「よしてくれよ」と一蹴して、

「もし、わしが天国に行ったら……会いに来てくれるか?」

「もちろんじゃとも。……ただし、その時はそれ相応の美酒を用意しておけよ。そうでないと、すぐ天界に帰るからな」

「あぁ、任せとけ。……なぁ、頼みがあるんだが良いか」

「……孫のことか」

「うむ。今日、お前と孫が会ったのも偶然ではないだろう。わしが亡くなった後も、孫のことをよろしく頼む」

 グラスを掲げて、神様に献上するようにして頭を下げると、神様はそれに応じるようにグラスを打ち鳴らす。

「他ならないお前からの頼みだ。しかと頼まれよう」



「つい長居してしまったな。そろそろお暇せねば」

 神様は壁や柱を頼りにふらふらと立ち上がり、出口へと向かう。と、そこで何かを思い出したように振り返り。

「そうじゃ、此方からも一つ頼まれ事をしてくれんか」

「わしにできることならなんでも」

 神様は懐から今回落とした本とペンを取り出し、神主へと差し出した。

「そのページの最後に、人の世の文字で書き入れてほしい一文があるんじゃ」

「なんと書き入れれば?」

「それはじゃな………」

 そして、神様はその言葉を口にする。

「お前との約束を忘れないために、お前と飲んだ今日という日のことを忘れないために」

「わしも忘れない。あ、そうじゃ。最後にあれをやろう」

 神主は自分の小指を立てて、神様にも同様に小指を立てさせて、お互いの指を交差させる。

「ゆびきりげんまん、嘘ついたら針千本飲ーます! 指切った!」

 最後の一言とともに、勢いよく指を離すと神様はとても驚いた様子で、

「なんじゃこれは?」と問いかける。

「古来より人間達に伝わる契約の一つだよ。約束を忘れないようにとな」

 親指を立てて、グッ! として見せる神主に、神様は思うところがあったのか。

「ふふ。まったく。人間界に落ちてくるとろくなことがないわい」

「天界から落とし物をした神様が言うセリフかね」

 二人は思い切り笑いあって、最後に別れの挨拶をかわすのだった。



「おーい、今帰ったぞ!」

「神様、お帰りなさい!」

 天界に帰るなり、付き人達が駆け寄ってくる。

「落とし物は見つかりましたか!? 大丈夫でしたか!? お怪我はありませんか!?」

 矢継ぎ早の質問攻めに、まだ赤みが抜けきらない笑顔で神様は、はっきりとこう答えた。

「あぁ、無事じゃ。何事もなかった。怪我もない」

 本もこの通り。自慢げに見せびらかすと、ほっとする者、また落とすのではないかと心配する者。反応は様々だった。

「さて、と。では、続きに取り掛かるとするかの」

 お気に入りの椅子にどっかりと腰かけて、友との約束の書を机の脇において、先ほど一文を加えてもらったペンを持って執筆活動を再開する。

 その時、かすかな風が吹いて、瞬く間に約束の書のページが捲られていった。

 その最後のページには、先ほど友が書いてもらった人の世の文字が。

 それこそ、人類の未来について書かれた書を締めくくる大事な一文だった。その一文とは。

 そうして人類は永遠の眠りについた。

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神様の落とし物 和立 初月 @dolce2411

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