【ショートストーリー】「過ぎたる日の祈り」

藍埜佑(あいのたすく)

【ショートストーリー】「過ぎたる日のための祈り」

 一人の老修道士がいた。名は光輝。

 彼が長年心を寄せていた画家がいた。名は颯真。

 年老いた光輝は、港を見下ろす古びた教会の一角で瞑想にふけっていた。

 彼の心は、かつての友である颯真に今も囚われている。

 颯真は若い頃、宗教画で名を馳せていたが、時代の流れに埋もれ、今やその名も忘れ去られつつあった。

 ある日、光輝は颯真からの手紙を受け取る。

 その内容は、彼の最後の作品となる絵を見てほしい、というものだった。

 久々の再会に心を躍らせながらも、光輝には過去、颯真との間に複雑な感情があった。

 彼らの若き日には共に思索し、また鋭く対立した日々があったのだ。

 光輝と颯真は青春期に宗教と芸術について熱心に討論した。

 絵画を通じて神を表現しようとする颯真と、修道士として神の教えを深く追究する光輝は、時に激しく意見が衝突した。

 颯真が絵画で神を表現することの困難さを訴える一方で、光輝はそうした創造物が神聖なるものと何が異なるのか、と常に問いかけた。

 若き日の自らの行状と言葉を光輝は目を瞑って思い出した。



 颯真のアトリエは人知れぬ山奥にあった。

 光輝が所作に余裕を持って工房のドアを叩くと、中からは颯真の懐かしい声が響いてきた。

「入れ。久しいな、光輝」

 ドアを開けると、光輝は一枚の壮大な画布に目を奪われた。

 颯真の工房に辿り着いた光輝を待っていたのは、一枚の大きな画布だった。

 その上には、彼らの青春時代を描いた街の風景が描かれていた。

 彼らの議論、笑い、そして時折見せた涙までが色彩になっていた。

「これが、私の遺作だ」

 颯真の声は静かだったが、眼には若い頃と同様の力があった。

 そして沈黙の後、二人の対話は静かに始まった。

「颯真、お前の絵は相変わらず人の心を打つ」

 光輝は感慨深げに言った。 颯真は微笑みながら応じた。

「時間が色を変える。絵も人の心もな」

 光輝がさらに問うた。

「この絵に込めた君の思いは何だ?」

「ああ、これは……」

 颯真の表情が一瞬曇る。

「ようやく理解したんだ。人生というものは、信仰だけでなく、もっと多くの色で塗り分けられるものだとね」

 光輝はゆっくりと頷いた。

「我々は長い間、神の意志を模索してきた。しかし、真実は常に一つではない」

 颯真の目が輝き、言葉を引き受けた。

「正にそうだ。私は画を通して、その多面性を表現しようとした。光と影、喜びと悲しみ、全てが共存する」

「だが、私の見るところ、かなり悲しみの色が強いようだが?」

 光輝が指摘すると、颯真はため息をついた。

「人はいつでも悲しみを隠そうとする。だがそれを認め、受け入れることこそが、真の解放への道ではないか。私はそう思う」

 光輝がその言葉を反芻する。

「人は過去に縛られ易い。お前の絵はそんな我々に、変わり行く未来を受け入れろと教えているようだ」

 颯真は立ち上がり、光輝の肩を抱くと言った。

「友よ、そうだ。我々が交わしてきた議論、笑い、涙……全てはこの画布の一部だ。そして最後には、終わりを受け入れなくてはなない。私の最期は、近い」

 そのあと、二人の間にはただ沈黙が流れた。

 沈黙は深い理解だった。



 かつて私たちが共有した時間、それは今や遠い昔の話となった。

 あの日、颯真の工房を訪れた際、彼の最後の作品となる絵をわたしは目の前にした。

 そしてそれは今、颯真から譲り受け、私の部屋にある。

 颯真はもういない。

 ただその魂である絵だけがここに、ある。

 私は絵の前にひざまずき、静かに祈りを捧げた。

 まるで彼がその街角に描いた一筆一筆が、颯真の言葉となって私の耳にささやいているようだった。

 若かりし頃、あの古びた教会で共に過ごした日々、宗教という枠を超えて、人生という広大なキャンバスに私たちの色を乗せていた。

 颯真は常に問いかけていた。

「光輝、お前は今、何を見ている? 何を感じている?」

 そんな彼の疑問を、今なら全て受けとめられる気がする。

「主よ、彼の魂をお守りください」と私は低く唱えた。

 港町の風が教会の窓を通り抜けるように、颯真の魂が天に昇っていく様を想像しながら、私の祈りは静かに、しかし力強く続いた。

 彼の作品には彼の全てが込められていた。

 彼の激しい情熱、容赦なく闘った痛み、そして、私たちの無数の笑顔と涙。

 私は彼の絵を前にして、長い間にわたる友情と愛情、対立と理解、そして許しを祈った。

 そして、最後にはこう祈った。

「颯真よ、お前の魂と作品は永遠に生き続ける。私たちが共に歩んだ道、議論し、学んだ事実、共有した感動、それら全てがこの絵には詰まっている。お前が描いたこの街の風景は、これからもずっと多くの人々の心に語りかけ続けるだろう。お前はまだ私たちの中で生きている、それを決して忘れることはない。心からの感謝を込めて、今はただ、安らかに眠れ」

 私の悼みと祈りは、これからも続いていく。


(了)

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【ショートストーリー】「過ぎたる日の祈り」 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi

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