【ショートストーリー】「過ぎたる日の祈り」
藍埜佑(あいのたすく)
【ショートストーリー】「過ぎたる日のための祈り」
一人の老修道士がいた。名は光輝。
彼が長年心を寄せていた画家がいた。名は颯真。
年老いた光輝は、港を見下ろす古びた教会の一角で瞑想にふけっていた。
彼の心は、かつての友である颯真に今も囚われている。
颯真は若い頃、宗教画で名を馳せていたが、時代の流れに埋もれ、今やその名も忘れ去られつつあった。
ある日、光輝は颯真からの手紙を受け取る。
その内容は、彼の最後の作品となる絵を見てほしい、というものだった。
久々の再会に心を躍らせながらも、光輝には過去、颯真との間に複雑な感情があった。
彼らの若き日には共に思索し、また鋭く対立した日々があったのだ。
光輝と颯真は青春期に宗教と芸術について熱心に討論した。
絵画を通じて神を表現しようとする颯真と、修道士として神の教えを深く追究する光輝は、時に激しく意見が衝突した。
颯真が絵画で神を表現することの困難さを訴える一方で、光輝はそうした創造物が神聖なるものと何が異なるのか、と常に問いかけた。
若き日の自らの行状と言葉を光輝は目を瞑って思い出した。
◆
颯真のアトリエは人知れぬ山奥にあった。
光輝が所作に余裕を持って工房のドアを叩くと、中からは颯真の懐かしい声が響いてきた。
「入れ。久しいな、光輝」
ドアを開けると、光輝は一枚の壮大な画布に目を奪われた。
颯真の工房に辿り着いた光輝を待っていたのは、一枚の大きな画布だった。
その上には、彼らの青春時代を描いた街の風景が描かれていた。
彼らの議論、笑い、そして時折見せた涙までが色彩になっていた。
「これが、私の遺作だ」
颯真の声は静かだったが、眼には若い頃と同様の力があった。
そして沈黙の後、二人の対話は静かに始まった。
「颯真、お前の絵は相変わらず人の心を打つ」
光輝は感慨深げに言った。 颯真は微笑みながら応じた。
「時間が色を変える。絵も人の心もな」
光輝がさらに問うた。
「この絵に込めた君の思いは何だ?」
「ああ、これは……」
颯真の表情が一瞬曇る。
「ようやく理解したんだ。人生というものは、信仰だけでなく、もっと多くの色で塗り分けられるものだとね」
光輝はゆっくりと頷いた。
「我々は長い間、神の意志を模索してきた。しかし、真実は常に一つではない」
颯真の目が輝き、言葉を引き受けた。
「正にそうだ。私は画を通して、その多面性を表現しようとした。光と影、喜びと悲しみ、全てが共存する」
「だが、私の見るところ、かなり悲しみの色が強いようだが?」
光輝が指摘すると、颯真はため息をついた。
「人はいつでも悲しみを隠そうとする。だがそれを認め、受け入れることこそが、真の解放への道ではないか。私はそう思う」
光輝がその言葉を反芻する。
「人は過去に縛られ易い。お前の絵はそんな我々に、変わり行く未来を受け入れろと教えているようだ」
颯真は立ち上がり、光輝の肩を抱くと言った。
「友よ、そうだ。我々が交わしてきた議論、笑い、涙……全てはこの画布の一部だ。そして最後には、終わりを受け入れなくてはなない。私の最期は、近い」
そのあと、二人の間にはただ沈黙が流れた。
沈黙は深い理解だった。
◆
かつて私たちが共有した時間、それは今や遠い昔の話となった。
あの日、颯真の工房を訪れた際、彼の最後の作品となる絵をわたしは目の前にした。
そしてそれは今、颯真から譲り受け、私の部屋にある。
颯真はもういない。
ただその魂である絵だけがここに、ある。
私は絵の前にひざまずき、静かに祈りを捧げた。
まるで彼がその街角に描いた一筆一筆が、颯真の言葉となって私の耳にささやいているようだった。
若かりし頃、あの古びた教会で共に過ごした日々、宗教という枠を超えて、人生という広大なキャンバスに私たちの色を乗せていた。
颯真は常に問いかけていた。
「光輝、お前は今、何を見ている? 何を感じている?」
そんな彼の疑問を、今なら全て受けとめられる気がする。
「主よ、彼の魂をお守りください」と私は低く唱えた。
港町の風が教会の窓を通り抜けるように、颯真の魂が天に昇っていく様を想像しながら、私の祈りは静かに、しかし力強く続いた。
彼の作品には彼の全てが込められていた。
彼の激しい情熱、容赦なく闘った痛み、そして、私たちの無数の笑顔と涙。
私は彼の絵を前にして、長い間にわたる友情と愛情、対立と理解、そして許しを祈った。
そして、最後にはこう祈った。
「颯真よ、お前の魂と作品は永遠に生き続ける。私たちが共に歩んだ道、議論し、学んだ事実、共有した感動、それら全てがこの絵には詰まっている。お前が描いたこの街の風景は、これからもずっと多くの人々の心に語りかけ続けるだろう。お前はまだ私たちの中で生きている、それを決して忘れることはない。心からの感謝を込めて、今はただ、安らかに眠れ」
私の悼みと祈りは、これからも続いていく。
(了)
【ショートストーリー】「過ぎたる日の祈り」 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi
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