第3話 初めての買い物 2
日差しが、眩しい。
太陽光は瞼など我関せずと通り過ぎ、目の裏どころか脳の裏までその存在感を遺憾無く示す。
だが、そんな程よく心地よいとさえ感じる痛みも一歩進むごとに消えていった。
あちらこちらに冬将軍が往来を闊歩する季節にも関わらず、スウェットにパーカーというのは無謀すぎたか。
しばらく後悔しながらも体を小さく丸めるようにしてせせこましく歩きつづけたが、次第に姿勢はピンと伸び、指先の冷たさだけが残った。
それもポケットに手を詰め込んで、意味もなく二、三回握りこむ。
暖かくはならないが、じんわりと馴染んでいった。
いつもなら深夜にコンビニを往復する程度の距離しか歩く事のなかった俺にとって、体が日差しに暖められることも、歩き続ける事で体温が上がる事も、いつぶりだろうか。
いつもより少し目線が高い景色は不思議と心地よく、空や木々を眺めながら白い息を吐き出す。
「朧月旅館…ついてしまったな」
散歩する人々、帰宅途中の学生。
知らない通りを抜け、知らない川の横を歩き、坂を登る。
思っていたよりも大きい建物だ。
当たり前なのだが、あまりに旅館然とした趣に思わず圧倒される。
今からここに飛び込みで入り、宿泊受付をこなすことが果たして俺にできるのか…?
しばらく立ちつくし、うろうろと意味もなく彷徨く。
やはりコンビニとかで一度試しておくべきだったろうか…?
いきなり旅館はハードルが高いような…。
ふと、目についた。
いかにも旅館らしい、風流なししおどしがかこんかこんと音を立てるのだが、そこにちょこんと可愛らしい雨蛙がいる。
俺は、本来なら人に対して振るべきパーセンテージをどうやら人以外の生き物全般に振り当ててしまっているらしく、つまり興味を惹かれてつい近寄ってしまった。
あまりに無警戒に、軽率に、写真の一枚でも撮ってやろうと。
無論、歩み入ったそこは旅館の敷地内であり、荘厳な見た目に反して近代化された扉が掟通りに開かれた事を、目の前に鎮座している蛙と呑気に目を合わせていた俺は数コンマ遅れて気づく事になる。
「あ…」
まだ、扉が開いただけだ。
俺は状況を整理する。
思ったよりも大分踏み込んでいたらしい。
さっきまで俺が立ちすくんでいた路地とここでは、ただの通行人と宿泊客を明確に区分するに十分な距離だった。
だが、諦めるのはまだ早い。
ただ扉が開いただけならば、焦る必要はない。
問題なのはその先、人の有無。
人さえいなければ、またもう一度路地にリスポーンする事も可能だ。
そんな微かな希望に願いを託し、恐る恐る、ゆっくりと顔を右に向ける。
「…あ、どうも」
そこには、俺が想像する旅館の女将よりも随分と若い女性がにこやかに微笑み、ゆっくりとお辞儀をする姿があった。
「いや、あは、えへへ…」
もう仕方ないな、これは。
心臓がものすごい速さで鼓動していることが分かる。
いかにも客である風に装っているが、本当は無職が歩いているのだ。
受付に向かい、無一文で謎のアプリだけを携え。
もし、スカンピンだと見抜かれてしまった場合、いったい俺はどうなってしまうのだろう?
「いらっしゃいませ」
受付にたどり着いてしまった。
受付のお姉さんはいらっしゃいませ、と言うなり、また静かに丁寧なお辞儀をする。
俺はその隙に電子マネー支払いが可能か確認する。
よし、大丈夫そうだ。
ここまできたらやるしかない。
「あ、すみません。 予約とかしてないんですけど、宿泊とかって大丈夫ですかね? ちょっと初めてなんで分からなくて」
あらかじめ用意していた言葉をつらつらと並べ立てる。
思ったよりもスムーズに言葉が出てきた。
知らず知らずのうちに久々の散歩に心もほぐされていたのかもしれない…な。
どうなることかと思ったが、とりあえず第一関門はクリア。
「はい、本日はお部屋の空きもありますので、ご案内できます。 」
「あ、そうですか。 ありがとうございます」
そこからはとんとん拍子だった。
お姉さんの丁寧な説明のおかげもあり、しっかりと貸切風呂のある部屋にチェックインすることができた。
ご飯もつけてもらった。
部屋までエスコートされると、明らかに俺が素人だと見抜かれていたらしく、お風呂の使い方やアメニティの位置など、いろいろと説明を受けた。
食事は18時に部屋に運んでもらえるらしい。
お姉さん、といっても明らかに俺より年下だが、無事、お姉さんの導きにより旅館童貞を卒業することができた。
いや、まだ始まったばかりか。
「ごゆっくりおくつろぎください」
「あ、あっす…」
ドアが静かに閉まるのを確認すると、そのまま床に倒れ込むようにしてへたる。
「はぁぁーーーーーーー…」
流石に、疲れた。
最後の方は体力が切れてしまい、お姉さんの説明もほとんど頭に入ってこなかった。
ずっと空返事を繰り返していたが、確かなことが一つ。
「俺は、自由だ!」
綺麗な畳に、なんだか高級そうな木の机。
背もたれがついた座布団に、そこそこ大きめのテレビ。
そして、襖の向こう側には謎の小部屋。
そこに腰掛け、一息つく。
思ったよりも中庭は広く、苔むした岩と青々とした木々が真っ白い光に照らされ、まるでここだけのどかな森の奥のようだ。
中庭にもあった小さなししおどしには、残念ながら蛙はいなかった。
だが、かこん、かこんと鳴るその音がまた風流であり、気づけば服を脱ぎ、生まれたままの姿になっていた。
そう、約束を果たす時が来たのだ。
俺は、風呂に入る。
なんでも手に入るアプリを手に入れた @nijihoryu
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