シイナは毎日ベッドを抜け出して、どこかに行ってしまう。

 リンリィの眠りは浅くなった。それなのに、いつシイナが部屋を出て行ったのか分からない。目が覚めると隣のベッドは空っぽで、次に目覚めたときも、その次も空っぽで、起床時間が近づいた頃には、シイナは当たり前のように布団の中にいた。

 今も隣のベッドにシイナはいなかった。

 リンリィは手袋をしていない右手を、布団の中で広げて見る。指先からてのひらにかけて、炭化したように皮膚が黒くなっている。子どもの頃はてのひらの真ん中くらいまでだったのに、いまはもう手首の近くまで皮膚の色が変わっていた。黒いしみは少しずつ、着実に広がっている。

『その手、呪われてるってほんとう?』

 リンリィは歯を食いしばり、右手をぎゅっと握り締めて身体を小さく丸めた。

 シイナは『夜』に惹かれている。黒沼がシイナを連れて行ってしまう。

『あなたのルームメイト、死んじゃうの?』

 自殺したという生徒たちも、たどる道は同じだったのだろうか?


 授業が終わると、リンリィはまっすぐ自室に戻るようになった。

 ルルがリンリィを探しているという話を聞いた。会ってあげなよとクラスメイトたちが言う。

 

     ◇*◇


 幼いリンリィの三歩前を、母と、二つ年下のセスが手をつないで歩いていた。リンリィも同じように手をつないで欲しくて、こわごわと小さな手を伸ばす。

『おかあさん』

 リンリィの指が青い花柄のワンピースに届きそうになった時、振り返った母が悲鳴のような声をあげて飛び退いた。歩くたびにふわふわと広がっていたワンピースの裾を、できるだけリンリィから遠ざけようと前の方でぎゅっとまとめる。

『その手で触らないでって言ってるでしょ!』

 分かっている。だからリンリィは黒くない左手を伸ばした。でも母にとっては、右手も左手も同じだった。リンリィに触れられることが耐えられない。

 母に拒絶されるリンリィを、セスは母の腕にしがみつきながら、まん丸い瞳で無表情に見つめている。

『ほんっと、気持ち悪いっ』

 セスを連れて母は歩いていく。

 半年前までの母は、リンリィにも優しかった。名前を呼んで、当たり前のように手もつないでくれた。

 右手の半分が真っ黒に染まってしまった日から、リンリィはいらない子になった。

『リン。こっちにおいで』

 立ち尽くすリンリィを招く声がする。

『リン。こっちで一緒にあそぼ』


「リン」

 肩を揺すられてリンリィは眠りから覚めた。かたい場所で寝ていたらしく、下敷きになっていた肩や腕が痛い。自分がどこで目覚めたのか分からず混乱した。空気の質感があきらかに屋外のもので、そのことに気づいたとたん一気に記憶がよみがえる。

 授業が終わるなり、リンリィは敷物代わりのタオルケットを抱えてひとりで黒沼に来た。座って沼を見ながらシイナが来るのを待つつもりだったのに、いつの間にか眠り込んでいたらしい。

「探したわ」

 リンリィはタオルケットの上で仰向けになると、腰をかがめてこちらを見ているシイナを見上げた。シイナはいつもの部屋着姿だった。差し伸べられた腕を取ると、力強く引っ張り起こされる。

「寝跡がついてる」

 じんじんしているほっぺたを触ると、指先で分かるほどくっきりとしわの跡が刻まれていた。制服もくしゃくしゃだ。

「どうしてこんなところで寝ているの?」

「シイナを待ってたんだよ。寝るつもりはなかった」

「わざわざこんなところで待たなくても」

「ぼくを置いてひとりで来るでしょ。だから先回りした」

「今日はリンリィを誘うつもりだった。だからあちこち探したのよ」

 疑わし気なリンリィの視線に、シイナ本当だってばと苦笑する。

「ちょっと手伝って欲しいことがあって」

 こんなところで何を手伝わされるのかと、リンリィはあからさまに警戒の色を見せたが、シイナは気づかぬ様子で沼の対岸を指さした。

「あっちの茂みの中に、ボートがあるの」


 沼のふちに沿うように歩いていくと、生い茂るニセノイバラの木の中に無理やり押し込められたボートがあった。船底が上を向いていて、さすがに全部をつっこむことはできなかったのか、三分の一ほど外に出ている。誰かが意図的にここに隠したらしいが、ボートのまわりには枯れ葉が降り積もり、長いあいだ放置されているのは明らかだった。

 隠した人はどうしたのだろう。もうボートに興味がなくなったのか。

 それとも。

「これを使いたいの」

「使うって、……この沼で?」

 リンリィはぎょっとする。この得体のしれない黒沼にボートを浮かべるのか。水滴がかかるだけでも心配なのに、何かの拍子にボートから落ちてしまったらどうするのか。

 シイナはいつだって真面目で、こんな危険な冒険をするような性格ではなかった。この行動力はどこから湧き出てくるのだろう。

 『夜』が、シイナを狂わせているのか。その想像にリンリィの胃のあたりが重くなる。

 ためらうリンリィをよそに、シイナはボートのへりを持って、ニセノイバラから引きずり出す姿勢になった。仕方なくリンリィも反対側にまわりシイナを手伝う。だが、ボートを隠してから時間が経っているせいか、成長した枝が引っかかって簡単に引き出すことができなかった。踏ん張ろうとすると、枯れ葉が積もった足元がすべってしまう。

「本当にこのボートに乗るの?」

「うん」

 ボートの角度を変えたり揺らしたりしていると、伏せたボートの下からオールが出てきた。シイナはオールを引きずり出すと、それを灌木に突き刺し、ボートにつっかかっている枝をガシガシと叩き折りはじめた。

「ちょ、シイナっ。そんな手荒なことしてだいじょうぶ?」

「すぐに伸びて来るわ」

 そうかもしれない。けれどこんな無茶をするのはいつもリンリィで、シイナはたしなめる側だった。

 シイナの荒々しい作戦は功を奏し、ボートは無事イバラの檻から救出された。

「これって花白湖のボート、だよね」

 ペンキのはげた青い船体に見覚えがある気がしていたが、側面に大きく書かれた黄色い数字で確信した。花白湖は運動の時間でたまに使うし、授業でボートに乗ったこともある。

 黒沼から湖までは森の中を歩いて三十分ほどかかる。湖からボートを盗み、さらにここまで運んだ誰かがいるのだ。その執念を考えると、容赦なくニセノイバラの枝を叩き折るシイナの行動など可愛いものに思えた。

「そういえばシイナ、ボートに乗れたっけ?」

 リンリィの記憶では、シイナはボートの授業で悪戦苦闘していたはずだ。両腕の力を均等に入れることができないのか、くるくる旋回して行きたい場所にいつまでも向かうことができず、最後には、思い通りにならないボートの上で悲愴な顔をしていたのではないか。

「だから、手伝って欲しいの」

 ひっくり返したボートを沼の方へ引きずりながら、シイナはにっこりと笑った。つまり漕ぎ手として一緒に乗れと言うことだ。

 リンリィは得体の知れない黒沼が怖い。できることなら近づきたくない。しかしシイナをひとりボートに乗せる方が、よほど精神的負担が大きい。

 こうなったらとことんシイナに付き合おうとリンリィは腹をくくる。けれど大きなため息をつかずにはいられなかった。


     ◇*◇


 とはいえ問題は、黒沼には桟橋がないことだった。

 ボートを水に浮かべ、そこに乗るには、沼の中にある程度足を入れなければならない。この真っ黒な水に触れずにボートに乗ることは、どう考えても不可能だ。

「だいじょうぶ。手を入れても、なんともなかったから」

 リンリィの考えを読んだのか、シイナはしみひとつない手をリンリィの前で広げて見せた。

「なんともなかったって、……もし黒く染まってたら、どうしたんだよっ」

「リンリィとおそろいになるだけでしょ? それに、このへんの水は上澄みだから平気だと思ってた」

 頭痛がしそうだ。リンリィは、自分がずいぶん常識的な人間であったのだと思い知った。


 なんとかひっくり返って沼に落ちることもなく、ふたりでひとつのボートに乗ることができた。もちろんオールはリンリィが握っている。

 制服のまま来たのは失敗だったとリンリィは思った。ずぶ濡れになれば明日学校に着ていくものがない。靴と手袋はニセノイバラの茂みのそばに置いてきたが、いっそ制服も脱いでくるべきだっただろうか。もうすでに脚だけでなく腕もびしょびしょだし、尻も湿っている気がして気持ち悪い。

 リンリィがオールを動かすと、ボートはなめらかに動いた。頭上の空が広がっていく。ただ、今日は厚い雲が垂れこめているため視界は暗く、黒沼の水面も初めてここに来た時と違って黒く沈んでいた。

 沼の中心へ近づくほど、層を重ねるように黒さが増していく。ボートを進めるリンリィは、ぽっかりと空いた底のない穴へ向かっているような気がしていた。

 『夜』の話を思い出す。空が真っ黒になり、世界が闇に閉ざされる。もし、いま『夜』が来たら。

 何も見えない状態でこんな沼の真ん中に放り出されたら、どうすればいいのだろう。急に背中がぞわりとし、オールを握る手が震えそうになった。

「リン。オールを上げて」

 岸からじゅうぶん離れたところで、水面をじっと見つめていたシイナが言った。

「波を立たせたくないの」

 リンリィは言われたとおりオールを一本ずつ水面から抜いて、ふたりが座るボートの内側に入れた。反動で船体が大きく揺れたが、息を止めるようにじっと座りながら水面が鏡のように静まるまで根気強く待つ。

 真綿のようなやわらかな静寂が降りてきた。シイナにつられて、リンリィも黒沼に目を凝らす。自殺した生徒の死体が沈んでいる様子が頭をよぎり、全身が強張った。

「あ、」

 リンリィの口から小さな声が漏れる。シイナが息を飲んだのも同時だった。

 鏡のように平らになった水面の奥、黒猫の毛並みのようにしっとりと艶のある漆黒の中に、きらりと光る粒が浮かび上がった。

 ひとつ、ふたつ、みっつと、あちこちで小さな光が瞬き出す。そのうち目が慣れてきたのか、沼の中は光る粒でいっぱいになった。

「なにあれ。虫? それとも魚?」

 正体が分からない。光はかすかに震えているようだが、泳ぎ回ったりはしなかった。生物ではないのかもしれない。

「星」

 呆然とした様子でシイナがつぶやく。

 光の粒はとても数えきれる量ではなくなった。黒い布の上にばらまいた白砂のようだ。針の先ほどの光が無数に集まって、もやもやと発光している部分もあった。そうしてできた光の帯が、手前からボートの底に向かって大きく横たわっている。光の靄は周辺の闇を滲ませるのか、漆黒から分離した青や紫が、薄まった闇のまわりにじわじわと染み出していた。

 この沼の水深はどれほどあるのだろう。

 光の粒は手の届く場所で瞬いている気もするし、空ぐらい遠い場所できらめいているようにも見えた。目を凝らせば凝らすほど遠近感が分からなくなって、リンリィは身体ごと、無限に広がる空間に投げ出されたような浮遊感を感じていた。

「リン。こっちに月がある」

 反対側のへりからのぞき込んでいたシイナが、右斜め下を指さしていた。リンリィは波を立てないようにそっと身体をひねってシイナの指の先を追う。

 先ほどまで見ていた光の粒とは比べられないほど大きな光のかたまりが、そこに沈んでいた。不思議な形をしている。大きくえぐれた半円と言うのだろうか。光が強すぎて、いまのリンリィの目にはまぶしいくらいだ。

「空の船よ。夜空を端から端まで渡っていたの」

 言われてみれば船の形に見えなくもない。

 確かシイナはこっちに月があると言ったが、これはリンリィがおぼろげに知っている月のかたちとはずいぶん違っていた。月とは、太陽の代わりに空に出て来るもので、形も大きさも太陽とそっくりなのではなかったか。

 けれどシイナが間違っているとは思えない。だとしたら、リンリィの記憶違いか、もしくは月はひとつではないのだろう。

「シイナ。……これ、何が起きてるの?」

 見たことのない光景にリンリィはすっかり心を奪われていたが、没入感からさめて冷静になってくるとだんだん怖くなってきた。

「天が崩れ落ち、夜空は海の底に沈んだ。星々は溺れ、月は波間に囚われ、闇は海水にとけた」

 呪文を唱えるように、シイナは天蓋崩落神話の一節を唱える。

「これはぜんぶ、沼にとけだした『夜』の記憶、なんだと思う」

「記憶?」

「夜空よ。神様が、人間から奪ったもの」

「……これが」

 神様が奪ってくれてよかったとリンリィが思っていた、『夜』の本当の姿。

 ふいに右手に触れられ、リンリィは驚いてシイナを見た。手袋をはめていないむき出しの黒いてのひらを、シイナがうやうやしく持ち上げている。

 炭化したような真っ黒な皮膚の上に、金色の光の粒が瞬いていた。思わず左の指で触れてみたが痛みも熱も感じない。

 リンリィはそっと腕を船縁の外に伸ばして、右手を沼の水に近づけてみた。ボートの下に広がる黒沼とリンリィの右手の境界線が消え、ひと続きの夜空になる。

「きれいね」

 この右手に初めてそんな言葉をかけられた。リンリィは嬉しいのに同時に悲しくなって、なぜか森の中で迷子になった時の感情があふれだし、ぎゅっと胸が締め付けられた。

 宝石のようにつやつやと光る黒い石を拾ったのだ。不安で心細くてどうしていいか分からなかったリンリィは、お守りのようにその石を力いっぱい握り締めていた。ほんのり温かくて、触れているだけで怖い気持ちが少し落ち着いた。とても大切な石だった。そういえば、あれはどこに行ってしまったのだろう。


 いつまでも美しい星空を見つめていたかったけれど、シイナは身体をかたむけて水の中に手を入れると、ゆっくりと沼の水をかき混ぜた。そこから大きな波紋が生まれ、ガラス板のようだった水中の光景がゆがみ、光の粒が消えて行った。リンリィは急いで反対側の水面を見る。光は消え、とっぷりと墨色の液体が揺らいでいるだけだった。

 リンリィの手の上の光も消え、壮大な物語を読み終えた直後のような圧倒された感覚と余韻が、ふたりのあいだに残った。

「シイナは、この沼の秘密をどうやって知ったの?」

「不眠症の先輩に教えてもらったの。確証のない噂話、だったけど」

 シイナはその噂の真偽を確かめるため、毎日ここに通っていたのだろうか。

「黒沼で、何人もの生徒が自殺してるって噂も本当?」

「さあ? でも、一部の生徒を惹きつけてしまうのは、間違いないでしょうね」

 一部の生徒。……おそらくシイナのような不眠症の子どもたちを惹きつけてしまうもの。

 黒沼の周辺は目に見えないものの密度が濃く、『何か』の気配が充ちている。

 リンリィが本能的に怖いと感じてしまうこの気配を、シイナたちはどんなふうに感じているのだろう。

「あの子、今日もリンリィのこと探してたわ」

 さりげなさを装って、シイナがルルのことを口にした。

「会ってあげないの?」

 リンリィはうなずく。

「どうして?」

「だって……、やなことばかり言うし」

「それは、リンリィのことが好きだからよ」

 よりによってシイナにそんなことを言われ、リンリィはふてくされた顔でそっぽを向いた。

「ぼく、ルルに好かれるようなこと、何もしてない」

 だいたい話しかけられるまで、リンリィはルルの名前も顔も知らなかったのだ。

「運動の時間に高跳びをしたでしょう。たまたまリンリィの飛ぶ姿を見て、好きになったそうよ」

「……ルルと話したの?」

 リンリィの心臓が強く跳ねる。言葉の端々から、ルルがシイナのことをよく思っていないことは伝わってきていた。

「何か言われた?」

 シイナは答えず、灰色の雲が重く垂れこめた空を見上げる。

「そろそろ降り出しそうね」

 シイナは表情があまり変わらないので分かりづらいが、嘘をつくのが下手だ。だから本当のことを言えない時は、いつもあからさまに話題を変えようとする。

 そのことを知っているリンリィは、シイナの澄ました横顔が、心細さを必死に隠していた子どもの頃に戻ったように見えた。

 リンリィとシイナは同じだった。ふたりとも、愛されない子どもだった。

「……そっか」

 ふいに、ここに通うようになったシイナの真の目的が、分かった。

 黒沼に溶けだした『夜』の気配に惹かれていたわけじゃない。それはシイナにとって、代替物に過ぎなかった。

 いつから、シイナはリンリィの手に刻まれた黒いしみの正体に気づいていたのか。

「バカだな」

 シイナが本当に求めていたもの。

 リンリィはゆっくりと右手を伸ばし、黒いてのひらでシイナの頬を包み込んだ。

「なんでルルに負けると思うんだよ」

 シイナの身体が強張る。リンリィは手を離さず、シイナを見つめ続けた。

 シイナだけだった。母親すら気味悪がって遠ざけるリンリィの黒い手を、『こっちにおいで』と握ってくれたのは。

 あの日からリンリィの右手はシイナだけのものになった。なのに、いつの間にシイナをこんなに不安にさせてしまったのだろう。

 しばらくすると、シイナは観念したようにリンリィの手の上に自分の手を重ね、ゆっくりと目を閉じた。いつもかたく結ばれている唇が少しだけほころんでいる。その変化を見て、リンリィも小さく笑った。

 ボートのまわりに夜が立ち込めていた。なぜかリンリィはその気配に親しみをおぼえる。あれほど好きになれなかった黒沼の上で、今は毛布に包まれているようなやすらぎを感じていた。

 目を閉じるとまぶたの裏に『夜』が広がる。しっとりとした漆黒が、リンリィを内側からやわらかく包み込んだ。

 真っ暗闇の中できらめく星がひとつ。てのひらから伝わるシイナの体温とおなじぐらい、あたたかな光を宿している。

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夜の地層 春名トモコ @haruna-t

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