夜の地層

春名トモコ


 天が崩れ落ち、夜空は海の底に沈んだ。

 星々は溺れ、月は波間に囚われ、闇は海水にとけた。


 そうして世界から、夜が消えた。


     ◇*◇


 旧校舎にあるカフェテリアは、北側の壁一面と天井の一部がガラス張りになっている。透明なガラスの向こうに広がるのは、『最果ての森』と青空だけ。寄宿舎ごと生徒を閉じ込めている森は、光が当たる部分だけ緑の葉をみずみずしく輝かせていた。

 正午まえの強い陽射しがたっぷりと降り注ぐ温室のようなカフェテリアで、授業を終えたばかりの朝組の生徒たちが、カードゲームやおしゃべりをしたりしながら自由時間をのんびり過ごしていた。

 リンリィは大テーブルでノートを二冊広げ、休むことなくペンを走らせていた。一冊はクラスメイトのトッカのノートだ。五分間という条件で宿題を丸写しさせてもらっている。限られた時間でどこまで写せるかが重要で、数式の意味など端から理解する気もない。

「はい、終わりー」

 トッカは高らかに言うと、リンリィの手がまだ動いているのに容赦なくノートをバタンと閉じて回収してしまった。

「あと三十秒!」

「ドリンク券三枚追加」

「高っ!」

 諦めたリンリィはペンを投げ出し、無理に動かしたせいでつりそうになっている右手をぶんぶんと振った。手袋をはずして指を伸ばしたいけれど我慢する。

「学年トップと同室なんだから、そっちに見せてもらえばいいのに」

 ノートを鞄にしまいながらトッカは言う。

「シイナは見せてくれないよ。それにそんなこと頼んだら、ぼくが分かるまで教えようとするからめんどくさい」

「めっちゃ親切じゃん。ちゃんと教えてもらいなよ」

「勉強はシイナができるんだから、ぼくには必要なくない? その代わり、シイナができないことをぼくがやるから、いーの」

「リンリィができるのは運動だけだろ。っていうかさ、なんでリンリィがシイナと合うのか不思議だよ。幼なじみなんだっけ? シイナとさ、いつも何話してんの?」

「別にふつうだけど」

 リンリィは水滴が浮かび上がったソーダ水のグラスを引き寄せ、ストローを噛んだ。

「シイナっていつも無表情だし、ぼくらのこと見下してそうだし、勉強以外のこと興味なさそうじゃん。シイナのお母さんって女優のあの人だろ? お母さんはめっちゃ陽気そうなのに、ぜんぜん似てないよな」

「親は関係なくない?」

「あ、来た」

 リンリィの後ろを見たトッカの眉根がきゅっと寄る。視線の先を追うように振り返ると、カフェテリアの入り口に部屋着姿のルルが立っていた。紺色の制服を着た朝組の生徒ばかりの中で、ルルのフリルまみれのピンクの服は毒々しく見える。

「じゃあね、リンリィ」

 逃げるようにトッカはソファに集まっているクラスメイトたちのところへ行く。ルルは入り口に立ったままカフェテリア内を見渡していたが、リンリィを見つけるとなんの迷いもなく中に入って来た。

 ルルが現われるといつも周りにかすかな緊張が走る。ルルが個人的に嫌われているからではなく(それも多少はあるかもしれないが)、夕組の生徒だからだ。

 リンリィたち朝組と、ルルたち夕組は、一日を半分に分けて活動している。

 リンリィの朝組が早朝から昼前まで授業を受けているあいだに夕組は就寝し、ルルの夕組が昼すぎから動き始める頃、リンリィたちはベッドに入る。だから基本的にふたつの組がまともに交流することはなく、滅多に顔も合わせない。けれど学校や寄宿舎の設備や備品はふたつの組で共有しているので、使い方が汚いとか傷をつけたとか細かな不満が堆積し、朝組と夕組は、お互いが名前もよく知らない相手に不愉快な感情を抱きあっていた。

 夕組のルルにとって、いまは就寝時間の真っただ中のはずだ。不眠症だとしても、ふつうは朝組の生徒たちしかいない校舎にわざわざ部屋着姿で乗りこんで来ない。

 最近ルルは毎日のように現れる。

 いつものようにまっすぐリンリィのところに来ると、ルルはさきほどまでトッカがいた席に座った。

「その手、呪われてるってほんとう?」

 ルルの発言はいつも唐突だ。たいていの生徒が気になっていてもなかなか言い出せないことを、なんのためらいもなく聞いて来る。背が低くてお人形のように可愛いルルは、自分なら何をしても世界中の人に許されると思っているのだろう。

 リンリィは答える代わりに、白い手袋をはめた右手をテーブルの上でグー、パー、グー、パーと動かしてみせた。

「真っ黒だから、手袋で隠してるの?」

「見てみる?」

 手袋をはずそうとすると、ルルはのけぞりながらぶるぶると頭を揺らす。

「別に見たってなんともないよ。お風呂に入る時ははずすから、朝組の子はみんな見てるし」

「どうして黒くなったの?」

「ウワサ通りだよ。小さい頃に森で迷子になって、発見された時には黒くなってた」

「その時に呪われたの?」

「……別に呪われてないと思うけど。ぼくは元気だし、まわりの人で変な死に方をした人とかいないよ」

「そっか」

 ルルはにっこりと笑いながらも、どこかつまらなさそうだった。

「ねえ、リンって呼んでもいい?」

「だめ」

「どうして?」

「リンリィって名前、気に入ってるから」

 ふうん。

 ルルはどうでもよさそうに可愛いあくびをすると、カフェテリアを出て行った。


     ◇*◇


 森の上に茫漠と広がる乳白色の空が、少しずつ色づきはじめていた。

 薄いピンクからオレンジが混ざり、見つめているあいだに次々と色を変えながら空が濃くなっていく。

 やがて満を持したように森の果てから太陽が登場した。出てきたばかりの赤くとろける太陽は、時間がたてば白くなる。どうして白い太陽が、真珠色の空を青く染めるのだろう。何回説明を聞いてもリンリィにはよく分からない。

「手、止まってる」

 正面に座るシイナの声に、リンリィは窓から机の上に視線を戻した。ぼんやりと明るかった白い時間が終わり、まぶしい朝日が教室いっぱいに差し込んでいた。机の上のガラス粘土が、太陽の光を取り込んでとろりとした光の膜を帯びている。

 芸術の時間。完成した作品にしか興味のない工芸担当の教師は、ガラス粘土を生徒たちに配ると、なんでもいいから好きに作れとだけ言って教室を出て行った。

 先生が教室から消えた途端、生徒たちの机は地殻大変動期のように動き、さまざまな大きさの島ができた。

 リンリィは窓際の席でシイナと机をくっつけた。真面目なシイナはもくもくと手を動かしている。水のように透明なかたまりは、もうすでに何かの形になりはじめていた。

「太陽がのぼる時と、沈む時、シイナはどっちがきれいだと思う?」

 何を作ればいいのか分からないリンリィは、手袋をしていない左手で透明な粘土をてきとうに引っ張り続けていた。冷たくて気持ちがいいのでずっと触っていたいが、ガラス粘土はこねくりまわすと濁っていくので本当はあまりよくない。

「なぞなぞ?」

「ちがうよ。ふつうはどっちかしか見れないじゃん」

「ああ。リンリィは寝つきがいいから」

「シイナは夕日見るの?」

「たまにね」

 どこで? という言葉をリンリィは飲み込んだ。ふたりの部屋の窓は東向きだ。不眠症のシイナが、リンリィが寝ているあいだどこで何をしているのか気になるけれど、いつもなんとなく踏み込めない。

「夕組に移りたいって話?」

「ちがう。……そういえば、夕組の歴史の先生知ってる?」

「知らない。その人がどうかしたの?」

「胸がこんなに大きいんだって」

 リンリィが両手で表現した大きさに、めずらしくシイナが教室で笑った。

「シイナ、おっぱい欲しい?」

「そんな大きいのはいらない」

「小さいのは?」

「リンリィは? どっちになりたいの?」

 リンリィは未分化の自分の薄い身体をぺたぺたと触る。

「分かんない。今のままでいい」

「うん。リンリィはそのままでいいよ」

 シイナは背が高くて細いけれど、最近急に身体つきがやわらかくなってきた。リンリィはシイナがそっちになるとは思っていなかったので、変化に気づくたびに戸惑ってしまう。

 分化の最中は心が不安定になる生徒も多いと聞くが、シイナはどうなのだろう?

「夕組の子に気に入られたんだってね」

 シイナの作品はもうほとんど完成していた。シイナらしく整えられた粘土は、きっちりしていて少しつまらない。

「気に入られたって言うのかな……。あの子はぼくのこと嫌いだとおもう」

「どうして?」

「だって、」

 廊下側のグループから大きな笑い声があがり、リンリィの意識はそちらに向いてしまった。

「っひどい、なにこれ! ねえ、リンリィこっち来て! ササラの作ったの見てよっ」

「えー、なに?」

 呼ばれたリンリィは、なんの形にもならない粘土をほうり出し、まだ笑い続けている友だちのところへ顔を出しに行った。


     ◇*◇


 寄宿舎の談話室で友だちとお菓子を広げていたところにルルが来た。リンリィはトッカたちから離れ、今の時期は使われていない暖炉の前に移動した。

 ルルがひとり掛けのソファに座ったので、リンリィは足元の絨毯の上に腰を下ろす。今日のルルはパジャマ姿だ。

「眠れないなら医務室に行けば? 薬、みんなもらってるよ」

 不眠症の生徒は多い。当たり前の助言に興味はないのか、ルルはパジャマの裾のフリルを熱心に正している。

「森の中に真っ黒な沼があるの。知ってる?」

「黒沼のこと? それがなに?」

「あなたのルームメイト。毎日そこに通ってるよ」

 思いもよらないことを言われたリンリィは固まってしまった。

「……どうしてルルが知ってるの?」

「だって、教室の窓から見えるもの。森の奥に入っていく、背の高い後ろ姿が。……ねえリンリィ、黒沼の噂、知ってる?」

 ルルが発する言葉の切れ端が届いたのか、トッカが心配そうにこちらに視線を投げかけてくる。

 フリルから顔を上げたルルは、リンリィの目を真っすぐ見て嬉しそうに笑うと、いつもと変わらない無邪気さで言った。

「あなたのルームメイト、死んじゃうの?」


     ◇*◇


 リンリィは何度も黒沼の噂を耳したことがあったが、実際に訪れるのははじめてだった。

 話で聞く黒沼はいつもおどろおどろしい。本当か嘘か、何人もの生徒がここで自殺している。

 そんな噂から想像していた沼と、目の前にある現実の沼の姿があまりにも違ったので、リンリィは安心したような、がっかりしたような気持ちになった。

 沼の大きさの分だけ森が丸く切り取られ、頭上に太陽が沈んだあとの真珠色の空がぽっかりと広がっている。そのおかげで樹冠に覆われている森の中よりずっと、黒沼のまわりは明るくまっさらな光に満ちていた。

 沼の中心の水面は空を映して白く反射していた。だがふちのほうは黒曜石のように黒々としていて、まわりの木々を逆さまに映しこんでいる。

 リンリィが来ることを分かっていたかのように、沼のほとりに立っていたシイナはゆっくりと振り返った。

 生命力あふれる夏草を踏みながら、リンリィはシイナのとなりまで行く。リンリィはパジャマのままだったが、数時間前に同じようにパジャマを着てベッドに入ったはずのシイナは、部屋着に着替えていた。

「本当に、真っ黒なんだ」

 リンリィは沼の水に顔を近づけた。沼のふちには枯れ葉や木の枝が吹き寄せられている。黒々とした水面に、不思議そうにこちらを見つめている自分の顔が浮かび上がった。どれだけ目を凝らしても見えるのは水面に反射する景色だけで、水の中がどうなっているのか分からない。

「どうしてこんなに黒いの?」

 聞くと、シイナはリンリィと同じように前かがみになって黒沼をのぞきこんだ。

「沼の底が、夜の地層に触れているの」

「ヨルノチソウ?」

 リンリィは呪文のような言葉を繰り返した。

「遠いむかしの、天蓋崩落の話に出て来る『夜』のことよ」

「それって、神様が、槍で夜空を壊した話?」

 常春の世に暮らしていた人間は満ち足りた毎日を送り、みんなとても幸せに暮らしていた。

 あまりにも幸福だったので、誰かがうっかり「神様の住む世界より人間界のほうがずっとすばらしい」と口にしてしまう。その言葉に怒った神は夜空を粉々に砕き、人間界から『夜』を奪ってしまった。

 子どもの頃に聞いたそんな話を、リンリィもおぼろげながら思い出した。

「夜の地層って、砕け落ちてきた夜空が積もってできたもの?」

「そう。夜の地層に触れている部分から、『夜』が沼に溶けだしているの。だからこんなに黒いのよ」

 リンリィはさらに水面に顔を近づけて見た。波紋ひとつないせいか、よく磨き上げられた黒曜石の板にしか見えない。本当に水なのか触れて確かめたくなる左手を、リンリィはぎゅっと握りしめた。こっちの手まで黒く染まってしまったら大変だ。

「『夜』って、太陽が沈んだあとに来てたってやつだよね? だとしたら本当は、いまは『夜』の時間?」

 リンリィはぽっかりと丸く空いた白い空を見上げる。

 もし空全体が沼と同じ漆黒だったら。

 地上を照らす光がなくなり、いまリンリィが立っているこの周りの木々や、となりにいるシイナも見えなくなるのではないか。

 想像すると怖くなった。この周りだけじゃない。世界中が真っ暗闇になるなんて。しかも一日の半分もそんな時間が続くなんて。

 シイナがその場に座り込んだので、リンリィも同じように草の上に腰を下ろした。パジャマ越しにひんやりとした地面の感触が伝わってくる。むきだしの足首に草の先がチクチクと当たって痒くなった。

「なんにも見えない時間を、当時の人たちはどうやって過ごしてたの?」

「『夜』はみんなが寝る時間だった。そして太陽が出ているあいだに、一斉に活動したの」

「……それって、朝組と夕組の生徒が一緒の時間に寝て、ごはん食べて、同じ時間に授業を受けるってこと?」

「そうね」

 リンリィはおおげさに顔をゆがめた。

「えー、絶対無理。だいたい、教室の机と椅子も足りないし、食堂とかお風呂もぎゅうぎゅうになるじゃん。それにみんなで同時に寝たら、そのあいだ世界は止まっちゃうんでしょ? その時間もったいなくない?」

 神様は怒って夜空を壊したというけれど、そのおかげで人間の世界から不自由な時間帯がなくなり、さらによくなったのではないだろうか。

「シイナは、『夜』があったほうがよかった?」

 否定も同意もしてくれないシイナに、リンリィは少し不安になってたずねる。

 シイナは黒沼を見つめながら、「わからない」と言った。

 ふたりとも黙ってしまうと、黒沼のまわりは何の音もしなくなった。見えない空気の手で耳をふさがれているような感じがする。ここは鳥が鳴くことも、風が枝葉を揺らすことも、幹が軋むこともない。あらゆる音が、黒い水に吸い込まれている。

 リンリィはこの沼が好きではなかった。明るいはずなのに、背後や足元に何か形にならない気配を感じてしまう。

 それに黒は不安になる。落ち着かなくて、ここから逃げ出したくてたまらない。

 けれどシイナがずっと黒沼から目をはなさず座っているから、リンリィは立ち上がることができなかった。

「わからないけど、……この世界は明るすぎて、少し疲れるわ」

 長い沈黙のあと、静かな声でシイナがそっと言った。

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