対手の取り調べ

羽暮/はぐれ

対手の取り調べ

 スヌーズした目覚まし時計を叩き、11時42分でアラームを止めた。

 あくびを一つ、かみ殺す。


「ふわあ……そろそろ、話す気にはなったかい?」


 の布団から這い出して、枕元に半分ほどの残量で転がっている2Lペットを拾い上げた。

 ジャバジャバと水を振りながら、ここ一ヶ月で定位置になりつつある座布団に向かう。


 そういえばこの座布団は、引っ越した日に家電屋のアウトレットで買ってきた掘り出し物だ。

 ほら、あの『笑点』で見かけるような、上品な紫の生地のもので、表面には微笑を浮かべる金色のお釈迦様が縫い付けてある。


(釈迦を尻に敷いて良いのだろうか……?)と思わなくもないが、結局俺はその上にドカッと胡坐をかいた。

 俺の目の前に、その真っ白いドアとドアノブが来る形になる。


「よお、聞いてるのか?」


 俺はその向こうに居るはずの『ヤツ』に声を掛けながら、キャップを開けて水を飲んだ。

 寝起きゆえか、うまく呑み込めず口の端から水が垂れ落ちるのを、左手首で受け止める。

 

 ドアの向こうから応答はない。

 そりゃ、そうだ。

 今さらこんな適当な挨拶に返事があるとは思ってない。


 俺はもう、ここで一ヶ月も『ヤツ』に語り掛けているのだ。

 そしてこれまで、まともに返事が来たことは一度もない。

 ただ時折、「ふむ」だか「うむ」だか、やる気のない納得するような呻きが聞こえるだけだ。


 ちなみに『ヤツ』は女らしい。声のトーンもそうだが、たまに紙にペンを走らせる音が聞こえてきて、その筆音が直線的じゃない。

 丸みを帯びた文字を書く時の音だ。

 男で丸文字を書くやつというのは極めて稀で、男で女のトーンを出せるやつというのも稀だ。


 この合理的な帰結として、『ヤツ』はほとんどの場合、女という事になる。


 まあ……得意顔で推察してみたが、『ヤツ』について分かる事はもうない。

 あるとすれば、残りはただ一つ。


 『ヤツ』は俺の話を、いつも注意深く聞いているということだけだ。


「夢の中で考えてみたんだ。お前の正体がいったい誰なのか……俺は女の友達が少なくてな。分かるだろ? 俺はデリカシーがない割にシャイなんだ……モテるはずもない。俺に関係する女ってのは、かなり容易に絞り込める」


「……」


「まず、母だ。これはないな。俺の部屋にいきなり母が押し入って、ドアを閉めて引き籠るってのは、まったく道理に合ってない。

 仮にそうでも、なにか話をしてくれるだろうし、母はそんな丸い字は書かない。そして何より、母からはたまに手紙が届くんだ。実家と愛犬の写真付きでな」


「……」


「次に妹。これもない。お前が朝メシを二度食うタイプなら、また理由を話してみてもいいぜ」


「……」


「幼稚園と小学校のやつらは、割愛だ。憶えてないからな。中学は……そうだ。中二で好きな子に告白したんだ。名前は、『西田 めぐみ』だったかな」


「ふむ」


「いい返事だ。応援団長でもやってたか? ただまあ、『当たり』って感じじゃあないな」


「……」


「疲れた。ちょっと用を足してくる」


 座布団を離れ、冷蔵庫の前を横切ってトイレのドアを開けた。

 便座に座って用を足しながら、壁に貼ってある元素記号表とカレンダーを眺める。


 さて――

 セルフチェックの時間だ。


 一ヶ月も同じ行動を取り続けて、しかもそれにほとんど報酬がないのだ。

 常人なら気が狂って当然だろう。


 俺も超人という訳ではないが、ときおりこうして一人の時間を作り、自身のメタ認知を再確認することで精神の平衡を保つ。


 セルフチェック、終了。


 自動排水のトイレが流れていくのを確認して、洗面所で手を洗ってから定位置に戻る。


「待たせたな」


「――また顔を殴ったのですか?」


「顔を? どうして急にそんな事を言うんだ……それで。ええと、何の話だったかな? ん、いや待て。その声には聞き憶えがないぞ」


「――声を憶えておいでで?」


「そりゃ、そうだろう。俺は目が見えないんだ」


「――目が見えないのですか?」


「ん、いや、目が見えないって訳では、ないな。だってトイレのカレンダーを。ん、ええと、いや見えづらい時が、ある? のか?」


「――ドアは見えていますか?」


「当たり前だろ。ドアノブが一つ。鍵が一つ。ロックされている」


「――色は何色ですか?」


「白……白のはずだが。俺の記憶では」


「――見えていないという事ですか?」


「見え、見えてはいる。見えてはいるが色が分からないだけだ。よくあるだろう、そんな事。それより君の……君は西田さん?」


「――私はお世話係の天野です」


「お世話? 天野? 誰だ?」


「――先月からこちらに配属された者です。佐藤様のお食事や、お困りごとの相談を受けつけております」


「困った事はないからなあ。この部屋は快適だよ。それより、ドアを開けてもらえないか? たまには散歩がしたくてね」


「――このドアは内鍵なので、佐藤様が開けることが出来るのですよ」


「冗談はよしてくれ。そろそろ、食料もなくなってきたんだよ。水を飲み続けるのも限界でね」


「――ドアを開けて頂ければ、私が配膳いたしますよ」


「ドアを開けるのは、アンタだ」


「――いいえ」


「アンタだよ」


「――違います」


「いいからドアを」

「――開けろ!!!」


 ダアンッ!

 と破裂したような音を立てて、ドアが俺に向けて軋んだ。


「――あけろ!!!あけろ!!!あけろ!!!あけろ!!!あけろ!!!」


「一体どうした? 悪いがトイレならコンビニを借りてくれよ」


「――クソ! クソ! クソっ!!」


 豹変した『ヤツ』がドアの向こうをドスドスと歩き回る音が聞こえる。ここ一ヶ月で初めての事態だ。

 仮に俺がドアを開くことが出来ても、今開ければどうなるか分からない。


「おい、落ち着けって。何か嫌なことがあったんだろ。俺ばかり話して悪かったよ」


「――ああああああああ!!!!」


 大変だ、これまでとは違うベクトルでお話にならない。

 これには俺も参ってしまった。


「なあ、おい」

 

ピンポーン……


 その時ドアの向こうの、更に向こうの玄関でチャイムが鳴った。

 青天の霹靂、いや霹靂中の晴天だろうか。


『どなたかいらっしゃいますよね』


 ドア二枚分を挟んでの声はくぐもっているが、どうやら年季の入った男の声である。

 私は彼に今後の動向を託すことにした。


「はい、居ますよ!」


『ううん、よく聞こえないな』


 しまった。

 年配ということもあって、男は恐らく難聴気味なのだろう。俺の声が届かないようだ。

 俺と同じ境遇である『ヤツ』が、何か気の利いたことを言ってくれればそれでよいのだが、『ヤツ』は再度豹変して静まり返っている。


『ま、いいや。気のせいかもしれないし、一旦』

 

「わあっ、助けてください! 誰かーっ!」


――ドゴォンッ!!!!!!!!!


『ヤツ』の殴打とは比べ物にならない威力の破裂音が鳴り響いて、直後に玄関ドアが吹き飛んで転がった重い音がした。


「え」


『ああ、いたいた。君だろ、SNSで流行りの【密室降霊術ガチャ】で出てくるSSR悪霊ってのは。ドアを巧みに開けさせて、その人間に成り代わるってヤツ』


「――はあっ、はあっ、はあっ!」


 ドアの下から、爽やかな風が吹き込んできた。


 絶望したような『ヤツ』の喘鳴――先ほどより僅かに近づいた男の声は、暴れ狂っていた『ヤツ』を遥かに見下ろすほどに、強者の威厳を秘め湛えていた。


『ほら、どうした? ドアを開けてやったぞ』


「――う、ううう、ううっ!」


『来ないか。ならまあ、悪霊退散てことで』


 次の瞬間、意を決した獣が飛びかかる寸前に放つような、強烈な叫び声が上がったかと思うと、ドアの外が静かになった。


『終わったよ。まだ生きてるんだろ?』


「え、ああ、はい。よく分かんないんですけど。どなたですか」


『最強除霊師のウミズです』


 そんな肩書きが許されるほど強いのだ……と俺は思った。


「すいません、ドア、こっちから開けられなくて」


『え、内鍵でしょこれ……まあいいや、あいつにドアを開けなくて正解だよ』


 ドゴォンッ!

 と例の音がして、私はドアと座布団ごと部屋の中央に吹き飛ばされた。


「ぐえっ」


「あ、ごめんごめん――うわ、ひどい臭いだな。それにその見た目! 何日ここに籠城してたんだ?」


 ドアの向こうから現れたのは、声のイメージとは遠い若造で、胸元がざっくりと裂けた黒革鋲打ちのジャケットを肌の上からそのまま着ていた。


「一ヶ月ほど」


 パンクな若造は部屋を見渡し、あちこちで転がった缶詰やペットボトルを見て得心したように頷いた。


「最初の一週間は非常食を食べていたみたいだ。残りの日数は水道の水で耐えていたけど、いよいよ栄養失調に陥って脳の機能に異常を来たした……それがうまくかみ合って、ドアを開けずに済んだみたいだね」


「何をおっしゃられているのかが全く分かりません」


「ああ。いい、いい。救急車に運ばれときな」


 ウミズがどこかに電話しているのを見ながら私は、放心したような心地になって、気絶した。


(完)

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