(五)

「もしもし、先輩、聞こえますか?」

「うん、聞こえるよ」

「こんな遅い時間に、私のためにお時間を割いて頂き、ありがとうございます」

「いえいえ。いつも寝るまで暇してるから、全然気にしないで。むしろありがたいよ」

「先輩は優しいですね。そうやって、私が負い目を感じないないように気を遣ってくれる。はあ、これだから先輩は……もう素敵」

「いや、本当のことなんだけどな…………」

 何が原因なのかは全くわからないのだが、私は慢性的に寝つきが悪く、眠りに落ちるまで時間がかかる人間なのだ。だから、いつも夜は暇をしているというのは本当のことで、こうして、その暇をつぶす相手をしてくれるのは、とてもありがたいことなのだが、どうやら彼女は、よくわからない方向に拡大解釈してしまったようである。

 まったくもって平和な誤解で、誰も傷つくことがなくて結構だが、私は少し居心地が悪い。

 さて――、

 今日は、以前、約束した、寝る前に電話をする時間を作るという施策の、最初の実施日である。お互い、入浴や歯磨きといった、寝る前のルーティンを全て終わらせ、あとは眠るだけという状況にして、電話を繋げている。私の方は、既に部屋の照明も落とし、枕元にスマホを置いて、ベッドに横になった状態で彼女の声を聴いている。

 彼女と恋人同士の関係になってから、ひと月と少し。これまで、彼女と会えないときのコミュニケーションの取り方は、チャットがほとんどであった。だから、なんだかんだで、彼女と落ち着いて電話をするのはこれが初めてのことなのだが――

「うふふ、なんだかどきどきしちゃいますね」

「そうだね…………」

 スマホのスピーカーから聞こえるのは、もう随分と聞き慣れているはずの声なのだが、なんというか、耳がこそばゆい。

 耳元から聞こえるからだろうか。

 それとも、音声だけで聴いた彼女の声は、意外と大人な雰囲気があって、艶っぽいからだろうか。

 わからない。

 わからないが、とりあえず、心が落ち着かない。

「あっ、マロン」

 と、突然、彼女が嬌声を上げる。

「マロン?」

「はい。うちで飼っている、猫のマロンです。いつもはリビングにいるのですが、私の部屋に来ちゃいました」

 ほら、マロン、先輩に挨拶して。

 と、彼女が言う。

 挨拶は聞こえないが、代わりに、ちりちりと、軽やかな鈴の音が聞こえる。

「まったく……」

 そう言った彼女は、それきり、猫のことは諦めたようで、さっぱりと話を切り替える。

「先輩とお付き合いを始めてから、もう一か月と一週間が経ちましたね。早すぎて、びっくりしちゃいました」

「本当にね。あっという間だよ」

「楽しい時間ほど早く過ぎ去ると言いますが、私は、かなり浮かれてしまっているのかもしれません」

「そっかあ。それはよかったよ」

「先輩は、この一か月、楽しかったですか?」

「まあ、楽しかったかなあ」

「それなら、よかったです」

「だけど……」

「はい?」

「ななちゃんから、ほぼ一方的に愛してもらっている今の状態は、平等な関係じゃないよね。それに関しては、本当に申し訳なく思ってる……」

「先輩、それは考えすぎですよ」

「そうかなあ……」

「はい、考えすぎです」

「でも……」

「でも?」

「……私は、ななちゃんのこと、ちゃんと好きになりたいと思ってる」

「そうですか……」

「ああ、いや、ごめん。これじゃあまるで、好きじゃないって言ってるみたいだ……」

「いいのです。私なら大丈夫ですから、無理はしないでください」

「で、でも……」

「言い方が悪くなってしまいますが、誤解を恐れずに言うと、私は先輩に期待はしていないのです」

「えっ」

「あ、決して、先輩を責めているわけでも、見限ったわけでもありませんよ。ただ、このまま、先輩が私のことを好きにならなくても、それでも構わないと、そう思えるという話です」

「それでも構わない、って……」

「それは好きになってもらえたら、それがいちばんですし、とても嬉しいことですが、無理をして欲しくはないのです。どうであろうと、私は、ありのままの先輩を受け入れるつもりです。だから、もし先輩が、私のことを嫌になって、この関係を無かったことにしたいと言い出したとしても、私は、甘んじて受け入れます」

「そんな、悲しいこと言わないでよ……」

「すみません。ですが、これが私の気持ちです」

「……そっか」

「はい。――逆に言えば、私から先輩の元を離れることはありませんよ。先輩の許す限り、先輩の隣で、好きという気持ちを伝え続けるつもりです。先輩の許す限り、ずっと」

「ずっと……」

「はい。ずっとです」

「…………」

 なんて、

 なんて大きな愛なのだろう。

 これは、曖昧な気持ちのまま彼女との交際を始めてしまった、私への罰だろうか。

 この大きすぎる愛を一身に背負いきる器量は、覚悟は、私にはまだない。

「もう少し――」

「はい?」

「……もう少しだけ、待っていて欲しい」

「ええ、わかりました」

「うん……」

「私はいくらでも待ちますから、先輩は、先輩らしくいてください」

「わかった……」

 と、先輩であるはずの私は、後輩である彼女から諭されてしまう。早速、先輩らしくないと言えば先輩らしくないが、彼女の言うそれは、そういう意味ではないことはわかっている。

 私らしくいて欲しい、か……。

「話は変わりまして、お誘いなのですが、――今度の土曜日、私の家に来ませんか?」

「え、いいの?」

「はい。その日、両親が用事で出かけるので、家が空いているのです」

「そっか……、うーん。一度、挨拶をしてからの方が良いような感もあるけど……、まあ、折角のお誘いだし、お邪魔させて頂こうかな」

「はい、ぜひぜひ」

 そうして――、

 ご両親は不在とのことだけど、菓子折りは持って行った方がいいかしら。

 などと上面のことを考えていると、ふふふ、と。彼女が息を漏らすのが聞こえる。

「どうしたの?」

「うふふ……、これは、あれですね……」

「あれ?」

 私が、そう訊き返すと、彼女は、囁くように、言う。

「四日後、うち親いないの……」

「…………」

 何故だろう。

 前もって言われるだけで、一気に事務的な響きになるのは何故だろう……

 とりあえず、彼女が思い描いているであろう、ロマンチックな感じは一切ない。

「ふふっ、まあ、おばあちゃんはいるんですけどね」

「ロマンはどこへ!」

「いえ、飼い猫の名前はマロンです」

「違う! 猫の行方を訊いたわけじゃない!」

「ほら、マロン、先輩がどこにいるのーだって。ここにいるよーって言ってあげて」

 と、彼女が意地悪く、猫に喋りかける。

 しかし、返事はない。

「うーん。今日は機嫌がよろしくないのかもしれません」

「別にいいよ。そこにいることはわかったから」

 というか――、

「猫がいるなら、この前に買ってたちゅ~るの処分には困らなそうだけど……、もしかして、マロンさんは、ちゅ~るが好きじゃないとか?」

「いえ、ちゅ~るは大好きで、狂ったようにちゅ~るしてくれるのですが、最近ちょっと肥満気味でして……」

「ああ、なるほど」

「ねー、マロンは今、ダイエット中なんだよねー?」

「…………」

 返事はない。

 本当に、今日は機嫌がよろしくないようだ。

「そう言えば、先輩は、ビーメロさんがお好きでしたっけ?」

「ビーメロさん? 好きだけど、どうして?」

 と。

 彼女の回答の前に、知らない人の為にビーメロさんの説明をしておこう。

 ビーメロさんとはヨンリオの人気キャラクターで、正式名称は「Be My Melody」――ロックなウサギの女の子だ。

 それから、これは蛇足かもしれないが、ビーメロさんの口癖は『琴線に触れた』である。

「――それが、私の母が、パートで働いているコンビニでビーメロさんのクリアファイルをたくさん貰ってきまして、私も分けてもらったのですが、それでも、かなり余っているので、先輩にも差し上げようかなと思いまして」

「えっ、欲しい。喜んで貰い受けます」

「じゃあ、今度、うちに来たときにお渡ししますね。ちなみにですが、四種類あって、それぞれ三枚ずつ在庫があります」

「それは、御母さん、随分もらってきたなあ」

「お恥ずかしいのですが、母は、少し貧乏性なところがありまして……、勿体ないと言って、よくものを持ち帰ってくるのです……」

「まあ、ものを大事にする姿勢は良いと思うけどなあ。エコだし、いいじゃん」

「そうですかねえ」

「うん。大事にしないよりはいいんじゃない?」

「まあ、たしかに……」

「うん」

「はい」

「ん」

「ん」

「…………」

「…………」

「…………」

「…………」

「先輩、眠くなってきました?」

「うん、ちょっと眠い」

「じゃあ、そろそろ寝ましょうか」

「そうだね、もう夜も遅いし」

「では、先輩がいい夢をみれるように、おまじないをかけようと思います」

「おまじない?」

「はい。先輩、眠る準備はできましたか?」

「うん、できてるけど……」

「じゃあ、いきますよ。――先輩がいい夢をみれますように。素敵な夢がみれますように。もふもふのモルモットに囲まれて幸せになれますように……」

「ふふっ、なにそれ」

「笑ってはいけませんよ。ほら、よい子の先輩はおねんねです。――先輩の大好きなデラックスチーズバーガーが食べられますように。ビーメロさんの格好いい演奏が聴けますように。水族館のイルカショーが観れますように。拾った落とし物の財布が持ち主に届きますように。ふと見た時計の数字が二十二時二十二分でありますように。先輩の言ったギャグが盛大に受けますように。割り箸が綺麗に割れますように…………」

 そのおまじないには、なにやらよくわからないものも混じっているし、その全部が叶ったら、かなり混沌とした夢になりそうな気がするが、彼女の囁くような優しい声が心地よく、すぐに眠たくなった。

 そして――、

 気が付くと、朝になっていた。

 驚いた。

 これが、おまじないの効果なのだろうか。ぷつりと意識が途切れてしまった。夢の内容こそ覚えていないが、凄まじい効果だ。

 ふと、枕元のスマホに目を向けると、電話が繋がったままになっていた。どうやら、寝落ち通話とやらをしてしまったらしく、よく耳をすますと、彼女の寝息が聞こえる。

 なんだか、気分がいい。

 これも、おまじないの効果だろうか。

 今日は、大学の授業が午後にしか入っていない曜日だから、まだまだゆっくりできる。私は、布団を被り直して、二度寝の構えを取った。

 そして、ふと思い立ち、スマホに向かって、おはようと言ってみた。


「なおん」


 今度は返事があった。

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吾輩はネコである 接木なじむ @komotishishamo

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