でこぴん

香久山 ゆみ

でこぴん

「うちの子おかしいんです」

 夕方、事務所に母娘連れが訪ねてきた。母親はスーツをビシッと着こなしており、キャリアウーマンといった風情だ。仕事終りに保育園まで娘を迎えに行った、その足でここ――霊能探偵事務所へ来たのだろう。女の子は保育園の制服を着ていて、母親に似た利発そうな顔立ちをしているが、キョロキョロと落ち着きがない。

「この子、何もないところをじっと見つめていたり、突然走り出したりするんです。まるで猫でも取り憑いたみたいに……」

 母親が真面目な顔で言う。

 プルル。その時、電話が鳴った。母親がポケットから携帯電話を取り出す。

「あ、ごめんなさい。会社から電話だわ」

 液晶画面を確認した母親が早口に言う。女の子が母親を見上げる。

「ママ、今日はもうお仕事やめて帰ろうよう」

「ちょっと! 大事な電話だから!」

 母親の剣幕に、怯む。ピリピリ張り詰めた様子で、電話に応答しながら廊下に出て行った。女の子はしょぼんと俯いていて、いたって普通の幼児にしか見えない。どこもおかしいところなどないようだが。

 しばらくして電話を終えて戻ってきた母親は眉間に皺を寄せている。ちょっとしたトラブルで、いったん会社に戻らねばならないという。

「用事自体はすぐに済むんですけど、この子を連れて行けないし……」

「俺が面倒を見ていましょうか」

「え……」

 困惑の表情を浮かべる。そりゃそうだ、得体の知れぬ男に幼い娘を預けるはずもない。

「安心してください。俺、前職は刑事だったんで」

 そう告げると、「それなら」と母親は俺に娘を託した。こんな時ばかり「元刑事」の肩書きを使うのは我ながらズルいと思うが、世間で生きるには便利なのだから仕方ない。冷静に考えれば、元刑事が何だってんだ。何の安心材料にもならない。けれど、それをすんなり受入れるあたり、彼女もいっぱいいっぱいなのだろう。

 母親がいなくなって、女の子はそわそわ不安そうにしている。けど、きゅっと唇を結んで、泣いたりはしない。よくあることなのかもしれない。事務所に二人きりでいるのも気が引けて、ひと目のある外に出ることにした。

 女の子を連れて公園へ行く。

 よく来る場所らしく、近付くにつれ女の子は早足になる。夏の終わりは、この時間でもまだ明るい。公園に入ると、遊具には目もくれず、端っこのなにもないようなスペースに進む。「いた」、女の子はそう言うと、繋いだ手を解きぱっと駆け出した。

 外灯の下に、同い年くらいの男の子がぽつんと立っている。まるで待ち合わせでもしていたみたいに、女の子の姿を認めると、男の子は小さく頷いた。二人は合流すると、かけっこを始めた。

 俺は公園のベンチから、その様子を眺める。五十メートルほどの距離にラインを引いて、ずっと走っている。

 これか。

 母親が言っていた、「娘が何もないところを見たり、急に駆け出す」ってやつ。競争相手の男の子は、幽霊である。

「よーいどん」は聞こえない。幽霊の声は生きている者には聞こえないから。けど、二人はゴールラインまで走っては、また戻ってきて、また走って。何度も何度も張り合う。負ければ、デコピンらしい。幽霊は女の子のおでこに小さな手でデコピンをする。痛くはないはずだが、幽霊の指が女の子のおでこを弾くたび、女の子はビクッと肩をすぼめて「ひゃん!」と声を上げる。確かに視えていなければ、動物に取り憑かれたと見えるかもしれない。延々とかけっこが繰り広げられるが、一度だって女の子が勝ったためしはない。だから、公園にはかわいらしい鳴き声が「ひゃん」「きゃん」「にゃっ」と響く。

 もうどれくらい経っただろう、子ども達は疲れた素振りもなく走り続けているが、ふと女の子の足がもつれた。

「ぴゃっ!」

 女の子が転んだ。

 駆け寄って、砂を払うと、膝小僧に血が滲んでいる。慌てて公衆トイレの手洗い場に連れて行き、傷口を洗い流す。しばらくして血は固まったが、絆創膏がないので痛々しい。

「もう帰るか?」と訊くと、女の子は首を横に振った。強い意志。勝つまでやる気だ。

 どうしてそうまでして頑張るのかと訊きたいが、言葉を覚えたばかりの彼女は上手く説明できないだろう。

 スタート位置で待つ幽霊の元まで戻ると、また走り始めた。夕陽に照らされ、女の子の影はどんどん長くなるが、男の子には影がない。

 じっと観察していると、彼女の敗因はすぐに分かった。

 スタートが遅れるのだ。「よーいどん」の合図がないから、幽霊がスタートしたのを見て、彼女も走り出す。その分出遅れる。

「お待たせして、すみません」

 用事を済ませた母親が公園に到着した。走ってきたのか、かけっこ中の二人に負けず劣らず息を切らしている。ベンチの隣に座らせると、バッグから出した水筒をゴクゴク飲み干した。

 落着いたところで、事情を説明する。娘は幽霊とかけっこをしています、と。彼女は表情を歪ませた。そりゃそうだ、視えない人からすれば、幽霊という言葉さえ奇異に聞こえるかもしれない。母親はきゅっと唇を噛んで、複雑な表情でじっと娘の走る姿を見つめている。

 夕陽が地平線に沈もうとしている。次が最後の一戦になるだろう。

 俺はベンチから腰を上げ、スタートラインに並ぶ小さな二人の脇に立つ。小さな瞳が俺を見上げる。二人とも、俺がここに立った意味を理解している。

「位置について、よーい……」

 と、右手を下げる。そして、

「どん!」

 一気にその腕を振り上げる。

 女の子と男の子幽霊は、同時にスタートを切った。

 ほとんど同じ速さ。

 だが、わずかに女の子の脚が伸びた。幽霊の走る速さは変わらない。けれど、生きている女の子はこのわずかな時間にも成長しているのだ。

 タッチの差で、ついに女の子が勝利した。

 満を持して、女の子は幽霊の男の子のおでこに、中指を矯めた小さな手を向ける。特大のデコピンをお見舞いする気らしい。その様子を見て、「あ!」と母親が声を上げた。「あなた……」と。

 ピンッ。女の子がデコピンすると、小さな男の子の幽霊は、弾かれたように一瞬光に包まれて、次の瞬間には大きくなっていた。成人男性の幽霊が、女の子の前に立つ。

「パパ!」

 女の子が抱きつこうとし、幽霊も両手を広げたが、するりと二人の体は擦り抜けてしまった。

 俺には幽霊の言葉は聞こえないから、視えるものから汲み取るしかない。

 けれど、今日は俺が口を開く必要もない。母親が独り言ちるように呟く。

「亡くなった夫とは、幼馴染だったんです。小さい頃はよくかけっこして、負けたらデコピンされるんです。……ちょうど今、娘がしていたような格好で」

 夫は昔から足の速い子で、子どもが生まれたら走り方を教えてやると楽しみにしていたそうだ。けれど、赤ん坊だった女の子が歩けるようになる前に亡くなってしまった。

 父親に抱き留めてもらえなかった女の子は、母親の元まで駆けてきた。

「ママ。わたし、かけっこでパパに勝ったよ。これからはわたしがパパの代わりにママを守るから、一人でいっぱい頑張らなくていいよ」

 そう言って、しゃがみ込む母親の頭を小さな手で撫でた。その上から、父親が大きな手を重ねる。いつまでも見守っていると伝えるみたいに。彼女には視えないはずなのに、重なる手の下で「あなた」と息を漏らした。

 力強く微笑む女の子と、父親の笑顔はとてもよく似ている。

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