「待って、待ってよ委員長。委員長! ……清水さん!」

 叫ぶように名字を呼ぶと、彼女はやっと足を止めてくれた。ひとけのない廊下はしんと静まりかえっている。

 必死になって追いかけてきたものの、私はかけるべき言葉を考えあぐねていた。それでも、背を向けたまま沈黙している委員長に何か言わないと。痣に言及することも気が引けて、曖昧な物言いになる。

「ああ、えっと……、何か困ってることない?」

「ない」

「助けてほしいこととかさ、何かあるんじゃない?」

「しつこいわね。どうして、そう思うの」

 振り向いた委員長は、少し赤い、でも他人を拒絶するような鋭い目で私を睨みつける。その視線にたじろいだ私は、焦って不躾なことを口走ってしまう。

「ほら、委員長って一人でいること多いし、孤立してSOS信号を出してるんじゃないかなとか」

「……」

「大丈夫? 誰か相談できる人いる? 私じゃなくても、司書の先生とか保健室の先生とか、お父さんお母さんとか――」

「勝手なこと言わないで! 何も知らないくせに……!」

「じゃあ教えてよ! 私、清水さんのことまだ何も知らないよ!」

 思いのほか大きくなってしまった私の声が、つめたい廊下に響きわたる。「あっ、ごめ……」という中途半端な謝罪の言葉が、彼女の耳に届いたかはわからない。

 やってしまった。思いこんだら一直線の私が触れてしまったのは、たぶん、委員長が守ろうとしていた心のやわらかい部分だったんだろう。後悔しても、もう遅い。

 張りつめていた糸がぷつりと切れたかのように、委員長は泣きだしてしまった。声をあげて泣きじゃくる彼女を前に、動揺した私は、子どもをあやすように抱きしめて背中をさする。怒られるかと思ったけど、清水さんはおとなしく私の腕の中に納まっている。そうして、嗚咽混じりの声でぽつりぽつりと彼女の身に起きたことを語ってくれた。

 清水さんの父親は海洋生物の研究者で、母親はその右腕……左腕? とにかく優秀な助手で、学者としても夫婦としても信頼し合うパートナーだったらしい。でも、四年前に母親が病気で亡くなり、全てが変わってしまった。父親は娘である彼女にいる。研究者としても人としても完璧だった母親のようになれ、と。

 家族を守り、優しく頭を撫でてくれた父親の暖かく大きな手。それが今では厳しく指図し、時には暴力を振るう手になってしまった。右頬の痣は、小テストの些細なミスが原因で殴られたという。

 清水さんは家庭でも学校でも模範的であろうと心掛けたけど、つらさが心に蓄積していく。早朝に花壇の手入れをするのも、放課後に海岸の清掃活動をしていたのも、模範的な行動というよりも家に居たくない気持ちでやっていたらしい。

 私は彼女のことを完全無欠の優等生だと思っていた。でも本当のところはちょっとだけ意地っ張りで、つらいことがあったら涙が出てくる、普通の高校生だ。私と同じ、普通の女の子。

 今までよく頑張ったねという気持ちをこめて、清水さんの背をぽんぽんと軽く叩く。

「とりあえずさ、保健室行こうよ。痛いでしょ頬っぺた」


 ◇


 高校生になると自分で何でもできるような気がするし、何とかしないといけないと思いこむ。実際には頼れる人が周囲にいても、その存在を忘れてしまったり、気づかなかったり、意固地になったり。大人なようで子どもの私たちは、時には周囲の手を借りることも考えなければならない。これは私のお母さんの受け売りだ。


 保健室の先生が清水さんの治療をするところを、私は木製のベンチに腰掛けて眺める。スマホには凛から、私と清水さんを心配するメッセージが届いていた。「あとで話すね。たぶん清水さんも一緒に」と返信すると、すぐに「了解!」と可愛いウサギのスタンプが押される。

 治療が終わると先生は私たちのために暖かいお茶を煎れて、一旦部屋を後にした。先生方で話し合うこともあるだろうし、警察とか児相とかいう言葉も聞こえてきたから方々へ連絡もするんだろう。難しいことは私にはわからないけど。

 暖かみのある木の机に置かれた二つのマグカップ。立ちのぼる湯気を見ながら、目の前の彼女に何と声を掛けようか考える。

 先に口を開いたのは清水さんだった。

「……届くなんて、思ってもみなかった。ほんの少しの気晴らしのつもりだったの」

 彼女は穏やかな声色で話し始めた。外からは練習するサッカー部の声が幽かに聞こえてくる。あとは、壁に掛けられた時計の針が時を刻む音。

「わたしのSOSを見つけたのが、あなたで良かった。ありがとう」

 彼女は目尻を下げ、やわらかに微笑んだ。

 正直、最初は謎解きゲームのような気分だった。でも今は、救難信号を受けとめて、彼女にたどり着いて、こうして笑顔を見ることができて本当に良かったと心の底から思っている。

 難しいことは大人任せだけど、私にもまだできることがあるかもしれない。お茶を一気に飲み干して、音を立ててマグカップを机に置いた。その勢いのまま清水さんに迫る。

「ねえ、無理して模範的にふるまう委員長はもう終わり! これからは普通の女子高生、清水さんになろうよ」

 マグカップを持ったままの彼女は、少し驚いて目を見開く。

「私や凛と一緒に放課後遊んだり、授業や試験だって頑張りすぎなくていいの」

「……でも、課題はちゃんと提出しないとね」

 彼女が口角を上げる。さっきの穏やかな笑みとは違う、茶目っけのある笑い方だ。本物の、心からの笑顔を見れたような気がして嬉しくなる。

 これからは私と凜に、清水さんも加わって、一層楽しい高校生活になるんだろう。三人で歩む、楽しい青春のスタートだ!

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青春救難信号 十余一 @0hm1t0y01

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