新生活

佐々木 凛

友だち三人、できるかな?

 目が覚めた。目の前には、まだ見慣れない白い天井がある。

 春から都内の大学へ通うことになった僕は、二週間前に上京してきたばかりだ。だからまだ、この独り暮らしのために借りた狭いワンルームの光景に慣れていない。寝ぼけている時には、時々自分が誘拐されたんじゃないかという錯覚を起こすことすらある。

 横に目をやると、山積みの洗濯物が我が物顔で鎮座している。これまで炊事洗濯等の家事を一切手伝ってこなかった僕にだって、洗濯物を洗濯機の中に放り込んで、スイッチを押すことくらいはできる。問題は、そこからだ。洗濯機の中から取り出した山盛りの洗濯物を自分一人で畳み、衣装ケースに入れなければいけない。これが面倒だ。少し前までこういったことをお母さんが全部やってくれていたのだと思うと、その有難みが心に染みる。

「お母さん、本当にありがとう。これまで、たくさん迷惑かけたよね」

 そんな感傷に浸っている僕を、部屋で一日中稼働している過労死寸前の空気清浄機が現実に引き戻した。甲高い音を鳴らし、僕の部屋の空気が汚れつつあることを教えてくれたのだ。僕は慌ててベッドの横にある窓を開け、換気を行った。数秒と経たないうちに、空気清浄機は静かになった。

「はあ。ほんと、毎朝大変だな……」

 そう言って、頭を掻きながら現状を憂う。これが、僕の毎朝の日課だ。

 しかし、今日はなんだかそんなことをしている場合じゃない気がした。そう、何か大切なことを忘れているような――そこで、ふと時計に目をやった。僕の時計は高校の卒業記念にもらったデジタル時計で、時間の他に日付や部屋の湿度、室温が同時に表示される優れものだ。本当はもっと高価なものが欲しかったのだが、今の社会情勢では仕方がない。

「四月一日……エイプリルフール? いや、何かもっと大事なことがあったような……」

 独り言も増えた。ここ最近は、めっきり人と話す回数が減ったからだ。人間というものは、誰かと話すことができないなら自分と話すようになるらしい。なんとも、不思議な生き物だ。

「あ、入学式!」

 そうだ、今日は大学の入学式だった。現在の時刻は、午前七時三十分。この家から大学までは、諸々の時間を含めて、電車で一時間ほど。入学式の開始時間は、午前九時。ここから導き出される答えは――。

「飯食ってる場合じゃねえ!」

 僕は大慌てで身支度を始めた。まずは風呂場の蛇口を捻り、浴槽にお湯を張る。その間に台所のシンクに立って電動歯ブラシで歯を磨き、口をゆすぐついでに顔も洗い、寝ぼけた頭を叩き起こした。視界の端には昨日買っておいた、バナナとパンが映っている。冷蔵庫のない我が家にこのまま放置すれば、帰ってくる頃には食べれなくなっているかもしれない。それでも今は、食べ物の生命力を信じるしかなかった。

 中学生の頃、兄から聞いたことがある。大学では、友達が三人以上いないと卒業することができないらしい。両親はそれを否定していたけど、兄は頑なに主張し続けていた。だから僕は、兄の話を信じることにした。そう、つまり何が言いたいのかと言うと、何としても遅刻せずに入学式に参加して、今日の内に友達を三人は作らなければいけないということだ。

 ただでさえ顔を突き合わせて話す機会が少なくなった現代だ。この入学式という絶好の機会を逃すと、もう友だちなんて作ることができないだろう。

 そんなことを考えながら、僕は浴槽に張った湯に体を沈めた。体の内側から、じんわりと温まった何かが込み上げてくる。最初は義務感から朝風呂を続けていたが、今となってはすっかりその虜になってしまっている。

「大学に行ったら、可愛い彼女ができたりするのかな。おいしいものを一緒に食べたり、ほっぺなんか突きあったりして……ぐふふ……でも、そんなことできるわけないか」

 自分でぼけて自分で突っ込みながら、浴槽から出た。そしてシャンプーとボディーソープで全身を洗い、仕上げに全身にアルコールを吹きかける。折角シャンプーやボディーソープで体についたいい香りが、アルコールの臭さで塗り替えられていく。こればかりは、毎日やるせない気持ちになる。

 次に体を拭き、ドライヤーで髪を乾かす。使ったタオルとドライヤーに関しても、勿論アルコール消毒が欠かせない。次に現代流の正装に身を包み、鏡で正しく着用できているかを確認する。背中もしっかりと確認するため、二枚の姿見を合わせ鏡に設置する。外に出る度にやっていたから、もう手慣れたものだ。

「じゃあね、お母さん。行ってきます」

 母の遺影に挨拶をしてから家を出発する。最後に、顔にガスマスクをつけて。

 ――今日も街は、防護服に身を包み、顔にガスマスクをつけた人々でごった返す。僕は、その有象無象の中の一人にすぎない。誰が見ても、誰を見ても、見分けなんてつかない。お互いの声が聞こえないから、まともなコミュニケーションも取れない。こんな状態で入学式に出席することに、何の意味があるのだろう?

 ……それでも僕は、歩みを止めない。誰とも話せなくても、友達ができなくても、彼女ができなくても、一人で失われた青春ものを数えるのはもううんざりだから。


『朝のニュースです。蘆田あしだ首相は昨夜十時に開かれた会見にて、国民全員に対し、再度新型ゼウスウイルスに関する警戒を強めるよう呼びかけました。ゼウスウイルス対策には体温を上げることとアルコール消毒、そして空気清浄機の有効性が認められていますが、それらを全て行っても感染を完全に防ぐことはできません。皆さん、不要不急の外出は避けてください。外出される際は、防護服とガスマスクを忘れないにしてください。ゼウスウイルスは、高齢者ほど致死率が高いです。今の皆さんの行動が、家族を守ることに繋がります』

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