RE:スタート
新井狛
RE:スタート
「安楽死のご案内」
そう書かれたペラペラのパンフレットを膝に乗せ、安っぽいパイプ椅子に座って俺は自分の名前が呼ばれるのを待っていた。
科学技術の発展は目覚ましく、現代、人間は労働からほぼ開放されていると言っていい。労働からの解放。長年の夢。なんて享楽的な響きだろう。
人類は余っている。自ら人生に幕を引く選択肢が許される程度には。
「
俺の名を呼ぶアナウンスが鳴る。安物のパイプ椅子から俺は立ち上がった。
「こちらが同意書になります。サインとIDの提示をお願いします」
涼やかな目元の女性はそう言った。その瞳孔は菱形をしている。アンドロイドだ。人生の間際でさえ、話し相手がアンドロイドであることに自嘲的な笑みが漏れた。
―― 私は安楽死処置を受ける事に同意します。
その一文だけが書かれた紙に名前を書き込む。差し出されたリーダーに手首をかざすと、生体チップから俺のIDが読み取られた。
「ご提示ありがとうございます。
鈴を転がすように耳に心地良い声が、無感情に言った。
■ □ ■ □ ■
「この点滴が落ち切った時点が、あなたの命の終わりです」
無表情な顔でそう語る医師の瞳は円形をしていて、人間が働いていることに驚いた。ここ数年で一番の驚きだったかもしれない。
まあ、まだ働いている人間がいるかどうかなんて関係のない話だ。もうあと数分でこの地獄から解放されるのだから。
俺は医師に黙って頷き返すと、目を閉じた。きゅっと栓の開く音がした。
――—— 暗転。
■ □ ■ □ ■
「……ますか? 聞こえますか?」
遠くから声がする。俺はゆっくりと目を開けた。
白い天井。
定期的に響く電子音。
覗き込んできた白衣の男はメディケイド・ドロイドだろうか。
「ああ、よかった。意識が戻りましたね。あなたは事故にあったんですよ。ご自分の名前がわかりますか?」
「ああ、俺は――――」
答えようとして俺は言葉に詰まった。階段を登ろうと出した足の下に階段がなく、空を切ってバランスを崩すのに似た感覚。白紙だ。何も、覚えていない。
「――わかりません」
しばらく記憶の鍋をかき回し、取り出すことを諦めて俺は言った。記憶喪失? そんなフィクションのようなことが本当に起こるなんて。
「大丈夫。少しずつ思い出していきましょう」
そう言って白衣の男は微笑んだ。その瞳孔の形が菱形でないことに驚く。働いている人間にお目に掛かるなんてことが、まだこの時代にあったのか。
■ □ ■ □ ■
「ありがとうございました」
退院の日にも、神木医師は顔を出してくれた。
俺が記憶をなくしても、生体チップのIDはすべてを覚えてくれていた。
さあ、家に帰ろう。帰ったら何をしようか。トロフィーをコンプリートしていないあのゲームをクリアするのもいいかもしれない。
■ □ ■ □ ■
笑顔で去っていく青年を見送って、神木真司は踵を返した。
今日の処理人数はまだまだ多い。
「安楽死」を選択した人間は記憶を消し、IDチップの中身を書き換え、偽の記憶を植え付けられて新しい場所で生きていく。
それは連続した個人なのか、それとも別人と言えるのか。この仕事をして随分になるが、未だ答えは出ない。
「俺もそろそろリセットしたいな……」
今日の残された仕事の量を思い出して、神木は青い空に独り言ちた。
RE:スタート 新井狛 @arai-coma
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