なぜか頭に入ってこない怖い話

λμ

匂い立つ湯気

 あれは、午後九時頃でした。次が燃えないゴミの日だったので、水曜日ですね。

 北から流れ込んだ寒気の影響で、冷気が肺に突き刺さってくるような夜でした。

 僕はいつものようにマスクとコートを身に付けて、コンビニの袋に燃えないゴミを入れて家を出ました。


 そのころ僕は引っ越したばかりで、五階の角部屋に住んでいました。マンション自体は少し古いファミリータイプで独身者には広すぎるのですが、駅が近く賃料も破格に安かったので即決したんです。他の住民の方もみなさん優しくて、正直、空き部屋があるのが不思議なくらいでした。


 不満があるとすれば、管理人のおじいさんが敷地内をうろちょろしていることと、表のエントランスやエレベーター、それから裏の駐輪場や駐車場の周りに監視カメラがあることくらいでしょうか。これが繁華街なら嬉しいのですが、周りは静かな住宅街ですし、なんだかいつも見られているような気がして苦手なんです。

 

 家を出た僕は、エレベーターは使わずに、マンション裏手の廊下に出ました。マンションは上から見るとL字型になっていて、外階段が二つついていました。僕はいつもその階段を使って移動します。おまじないくらいの意味しかないでしょうけど健康のためにと、やっぱり監視カメラが気になりますから。


 週の真ん中、水曜日の夜九時ですから、大半の住民はもう帰宅しています。僕はひとまず西側の階段――A階段とでもしましょうか、そこから四階に降り、エレベーターホールのほうへ廊下を進みました。階段はL字の両端ちかくについているので、他の家の玄関前を通る形ですね。


 柔らかな暖気とともに、ふわりとシャンプーの香りがしました。四〇七号室に住んでいる豊本とよもとさんの家の換気扇です。ちょうど髪を洗っているところなのでしょう。マンションではよくあることなのですが、換気ダクトの排気口が廊下のほうを向いているんですね。


 お子さんが学校から帰ってきたり、会社から戻ってきたり、一家が揃う五時から六時頃だと夕食の匂いがしたりするじゃないですか。あれと同じです。浴室から漏れてくる暖気は、夏場ならあまり気になりませんが、やはり寒い冬の日などは違うんですね。少し湿った温かな空気と甘い香りを浴びると、冷えきった体も奥深くから温まってくるんです。


 ほんの数秒のことですが、僕は豊本さんの家の湯気を堪能して、そのまま北側のB階段へ移動しました。次は四◯三号室の秋端あきばしさんの家です。マンションというのは不思議なもので、住み着く人の生活リズムが被りやすいんですね。やはり入浴されているようで、豊本さんの家より少しぬるい暖気とボディソープの香りが漂っていました。


 僕は体が温まってきたところで六階に上がりました。家を出てから五分ほど経っていましたから、階段そばの六◯三号室の前を歩けば爽やかな湯気を浴びられると思ったのです。毎日のように時間を変えながら廊下を歩いてきたので、どの家もだいたい把握しています。思った通り、薄っすらと湯気が立ち籠めていました。


 しかし、ヘアカラーなのでしょうか、鼻を刺すような匂いが混じっていたんです。


 少しがっかりした僕は、口直しならぬ鼻直しに七階まで上がろうかと考えながらA階段へと廊下を進んでいきます。六階の他の家は九時ともなると入浴を終えているので仕方ありません。足早にエレベーターホールへ繋がる廊下の前を曲がったときでした。


 酷く重たい気配を背中に感じたんです。霜が下りるほど冷やされた鉛の塊とでもいいましょうか、せっかく温まった体が一息で凍えてしまうような気配です。僕は思わず肩越しに目をやりました。


 エレベーターホールのライトに照らされて、細い影が伸びていました。つぅっと冷たい汗が背中を流れ落ちました。ほとんど悲鳴がでそうなところでしたが、僕は手に持ったコンビニの袋――燃えないゴミの袋を握りしめて耐えました。ゴミ捨てに行く途中なのですから、なにもやましいところはありません。


 A階段へ戻った僕は、ひとまず足を緩め、六階と五階の踊り場で耳を澄ましてみました。こんな時間に帰ってくるなんてどこの家だろうと思ったんです。確認して記録しておかないといけませんから。


 ――けど、不思議なんです。


 何の音もしないんです。


 扉が開く音も、閉まる音も、廊下を歩く音すら聞こえません。マンションの裏手に幽かに響いているのは、各部屋のごく静かな生活音と、遠くの幹線道路を走る車の排気音くらいです。平日ですから、駅近くの居酒屋やスナック周辺から出る楽しげな声もありません。


 ゴクリ、と僕の喉が鳴りました。詰まりかけの排水口が泡とともに鳴らすような不快な音に聞こえました。僕は、ともすれば早まりそうな呼吸を押さえ込みながら階段を降りました。スマホで時刻を確認すると、夜九時半を回っていました。十五分以上も踊り場にいたことになります。


 僕は各部屋の記憶を手繰たぐりました。AB両階段の先の部屋は住人以外、宅配便の配達員や管理人くらいしか立ち寄る理由がないのでわかりませんが、ほかは一月かけて調べてあります。水曜日の九時半を回ったところなら一気に二階まで降りて斉藤さいとうさんの部屋に行けば落ち着く匂いがするはずでした。


 一段、一段、平静を装いながら、しかし急いで、僕は二階に降りました。斉藤さんの部屋はB階段の手前です。またエレベータホール前の廊下を曲がらなくてはいけません。落ち着け、落ち着け、大丈夫だ――僕は心のなかで唱えながら進みました。


 エレベータホールの明かりが廊下に伸びていました。すぐそばで消火栓の位置を示す赤い常夜灯が光っています。


 そして、細い影が伸びていました。


 僕は内心、パニックになりました。エレベーターに乗れば、なぜか二階からエレベーターに乗り込む五階の住人の姿が監視カメラに記録されしまいます。それだけは避けたい。でも、ゴミの袋をもってB階段に向かうのは変なんです。だって、マンションのゴミ置き場はA階段のほうにあるんですから。


 焦っていたというしかないでしょう。ゴミの袋を手にしているのだから、そのまま引き返せばいいということすらわからなかったんです。


 影は動いていません。引き返すチャンスはありました。けれど、私は吸い寄せられるようにエレベーターホール前の廊下に進みます。影は動いていません。


 なんで突っ立ってるんだ!


 僕はいまにも叫びそうな気分でエレベーターホール前の廊下を曲がりました。

 

 そのときでした。


「おい」


 肌があわ立ち、体が縮こまりました。女の声です。それはわかりました。けれど、この世のものとは思えないほど重く、粘っこく、耳の穴から脳へとこじってくるような声だったのです。


「おい」

 

 声が背中に投げかけられます。僕は足早に廊下を進みました。もう恐怖で膝の上げ方も忘れそうでした。斉藤さんの家の前を通りましたが匂いはしません。信じがたいことでした。部屋の明かりはついていて、換気扇の回る音もするのに、暖気も匂いも感じられないんです。


 恐怖と混乱のなか階段にたどり着いた僕はできるかぎりエレベーターホールのほうを見ないように降りました。踊り場を回るとき顔を背けたほどです。一階に降りてA階段のほうへ回れば、夜職の吉高よしたかさんの家から出勤前の香水の匂いがするかもしれません。よくいうじゃないですか、良い香りは魔を払うって。


 またエレベータホールに近づきます。今度も影だけが見えました。けれど、僕は歩みを緩めませんでした。角を曲がればそこが吉高さんの家です。バカに思われるかもしれませんが、香水の匂いが守ってくれるはずだと思っていたんです。

 

「おい」


 同じ声です。僕は顔を伏せて廊下を曲がりました。決して見てはいけない。そんな予感がありました。


 ふわり、と湯気が顔に触れました。

 

 香水の香りです。

 

 ――でも。


 吉高さんの香りじゃない!?


 僕は思わず顔を上げました。顔を上げてしまいました。頬に触れるほど近くに女のものらしき青黒い顔がありました。香りは女から漂っているんです。香水の瓶を一本まるごと振りかけたような強烈な匂いでした。


 その奥に、吐き気を催すほど醜悪な、死臭がありました。臭いは女の口から、暗く落ちくぼんだ両の眼窩の穴から、体表に湧く白い蛆虫から放たれていました。湯気は朽ちて溶けかけた女の臓腑から溢れ、寒気に触れて色づいているんです。


「うぅぅぅああああああ!!」


 僕は悲鳴をあげながら腕を払いました。手がなにかぬるっとした物を押しのけ、影は吉高さんの家の窓にべちゃりとぶつかりました。もうなりふりかまっていられません。僕は走って階段まで向かいました。


 べちゃり、べちゃり、と足音がついてくるんです。猛烈な腐臭と身の毛もよだつ熱気を孕んだ影が手を伸ばせば髪に触れてきそうな距離を追ってきているんです!


 僕は二段飛ばしで階段を駆け上り、廊下を抜けて、エレベーターホールに飛び込みました。マンションのエレベーターは二台とも消灯していて、奥の一台は一階に、手前の一台は八階にありました。


 火事場のなんとやら、でしょうか。

 僕は、そのときだけ冴えていました。

 僕は手前のボタンで八階に止まっているエレベーターを呼び、すぐに廊下へ駆け戻りました。足音が走ってきているのが分かります。

 

 それは賭けでした。

 僕のいたのは二階で、地面までほんの三メートルくらいしかありません。


 僕が廊下に飛び出ると、腐臭を放つ影は僕を捕らえそこねて廊下の角に衝突し、粘着質な打音を響かせました。僕はそのまま手すりを乗り越え、駐輪場に飛び降りました。足が痺れるし、酷い騒音を立てているし、生きた心地がしませんでした。


 とにかく、とにかく早く家に!

 

 パニックですよ。そのまま街に逃げるって選択肢はありませんでした。僕はすぐさまに振り返り、また手すりを飛び越えて、エレベーターホールに駆け込みました。そして一階に止まっているエレベータに乗ったんです。


「五階! 五階へ!」


 僕はボタンを叩きました。閉まるボタンを連打します。こういうときに限ってなかなか閉まってくれないんです。


 べちゃり、と音が聞こえました。すぐに鈍い打音が響き、一階エレベーターホールに影が伸びてきました。僕はエレベーターの隅に張りつきました。扉が閉まり始めました。

 

 早く! 早く! 早く!!


 扉が閉まると同時に、耳をつんざく打音とともに女の影が小さなのぞき窓に衝突しました。骨と肉がひしゃげ茶褐色の汁が飛び散るのが見えました。


 けれど、僕は笑っていました。

 

「か、勝った……!」


 危機一髪、間に合いました。エレベーターが上昇します。僕は笑いながらへたりこみました。もう上からも下からも漏らしてしまいそうでした。前のアパートはそれが原因で退去させられていますから、笑いながらも必死に我慢していました。


 だから、二階、三階と、同じ光景が続くのに気づけなかった。


 ――そうなんです。窓にへばりつく女の後ろの風景は変わるのに、女はガラスにへばりついたままだったんです。それに気づいたとき、僕は震え上がりました。エレベーターは上がり続けます。四階、五階――。


「うわあぁぁぁぁぁぁぁ!!」


 扉が開いたとき、僕は悲鳴をあげて顔を覆いました。

 そのあと、何が起こったのかは覚えていません。

 

「……あ、あの……大丈夫ですか?」


 その声で目覚めたのだけははっきりしています。おそるおそる手を下げると、宅配便の配達員が心配げな顔で僕を見下ろしていました。辺りを見回してみても、あの影はどこにもありません。


「あ、あの?」


 もう一度、声をかけられ、僕は慌てて立ち上がりました。手に持っていたコンビニの袋をぶら下げていいました。


「え、えっと、飲みすぎちゃったみたいで……」


 そうとう変な顔をしていたことでしょう。配達員の男性は曖昧に苦笑し、気をつけてくださいねとかなんとか、そんなことをいったはずです。

 

 僕は配達員と入れ替わりにエレベーターを降り、なんとはなしに振り向きました。

 窓には、あの影がへばりついたときの汁の跡は残っていませんでした。


 僕はほっと息をついて階数表示を見上げました。僕はたしかに五階のボタンを押したはずなのに、最上階にいました。スマホの時計を見てみると、すでに十一時を過ぎていました。あのあと、今の今まで気を失っていたのかもしれません。

 

 僕はエレベーターホールを出て、八◯七号室の原田さんの家の前の廊下を歩きました。全身を洗われるような暖気とミルクっぽい甘い匂いがしました。耳を澄ませば幽かに鼻歌まで聞こえてきます。彼女とはゴミ出しで二回も挨拶を交わしたことがあるので姿まではっきりと思い描くことができました。


 僕は体が芯から温まるのを待って、部屋に戻りました。


 あとで不動産屋にそれとなく尋ねてみると、賃料が安く空き部屋が多いのは、マンションで飛び降り自殺があったからだそうです。亡くなったのは僕と同じ五階の部屋に暮らしていた女性で、深夜の帰り道で変質者に襲われたのだといいます。


 ただ、もう古い話であり、それから幽霊がでたという話も聞かないそうです。嘘ではないのでしょう。それから、もう一週間が経ち、そのあいだ日に二度も三度も廊下を出歩いてみていますが、あの影に出会うことはありません。


 ――でも、一つだけ、わからないことがあります。


 覚えているでしょうか。僕が目覚めたのは午後十一時だったんです。もう夜はとっぷりとけているんです。


 宅配便の配達は遅くても午後十時には終わるはずじゃないですか。


 じゃあ、僕を起こした、あの配達員は――。


 もしかしたら、僕の見た女の影は、あの配達員に取り憑いたのかもしれませんね。

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