こでまり

月見 夕

彼女は日向へ咲きに行った

 久しぶりに帰宅すると、見慣れた家財の何もかもがルームメイトと共にリビングから消えていて、私は玄関でアホみたいに立ち尽くすことしか出来なかった。

 申し訳程度に部屋のど真ん中に置かれている引越し屋のダンボールは机のつもりなのだろうか、とにかく殺風景な空間にただひとつだけ寂しく鎮座している。

 ふらふらと家に上がるが、床がぐにゃりと歪んだような気がして玄関にへたりこんだ。足がもつれただけだと気が付いたのは、数分してのことだった。


『結婚するので出て行きます まい

 暖房を入れる気力もなく冷たい床と膝の足の体温が同化するのを感じながら、私は何度もダンボールの上の置手紙を反芻した。

 それは他でもない良く知るルームメイトの字で、親友だと思っていた女の子が誰かの女になることを意味するものだった。

 舞とは高校のときから仲良くて、上京して一緒にルームシェアを始めて今度の春で5年目になるはずだった。一緒にお祝いしようねって言ってたじゃん。それすら今思い出したけど。

「彼氏いたなら言いなさいよ……」

 カラカラに乾いた喉からようやく恨み言を絞り出したけれど、いや違う、とすぐさま頭の隅の私が否定した。言いなさいよ、じゃない。言えなかったんだろう。このところ、私は毎日仕事仕事で家にも帰らず忙しくしていたから。

 特に連絡を取らなくても、私にとって舞は気の置けない存在だって、何も言わなくても心のどこかで繋がってると思ってた。帰宅すればいつでもそこにいる、日常生活における水とか空気みたいな存在だと思っていた。

 でも違う。花は水を遣らないと枯れてしまう。舞は水を遣って愛でてくれる彼の元に咲きに行ったのだろう。

 ふと目に入ったベランダのプランターは枯れ散らかしていて、何を植えていたのかもう思い出せなくて、私は溜息を吐いた。



 翌朝、ぼうっとしたままの頭で部屋を見渡して、やはり何もなくなっていて「ああやっぱり夢じゃないんだな」なんてありきたりなことを思った。

 昨日の仕事着のまま、すっぴんにマスクで1LDKを後にする。舞が洗濯機と着替えが入ったチェストを持って行ってしまったからだ。メイク落としだけ洗面台に転がっていたのは何だろう。情けか。

 今日が休みで良かった。鞄の中のノートパソコンを開く気力はなかった。やろうと思っていた報告書は週明けにでもやればいい。今はとにかく、あの殺風景な部屋から逃げ出したかった。


 適当に車を走らせて、冬の街を流していく。おんぼろの軽はラジオの電波を掴まえきれなくて、往年のクリスマスソングを砂嵐に染めて、私はカーステレオのスイッチを切った。一緒に祝う人のいないクリスマスなんてただの年の瀬だ。

 車を持って行かれなかったのは不幸中の幸いだったな、と考えて、頭を捻る。

 舞が持って行った洗濯機もテレビも電子レンジも、私が買ったものじゃなかったか。明確にあの子が金を出したのはせいぜい電気ケトルと全然使ってないワッフルメーカーくらいのはずだ。ていうか私の服まで全部持って行くことはないだろう。新手の追いはぎか。メイク落とし1本で手打ちにはならんぞ。

 だんだん腹が立ってきた。

 沸々と込み上げる怒りに腹が鳴る。そうだった。昨夜から何も食べてない。

 田舎道に差し掛かろうとしていた折にホームセンターの看板を見つけ、広い駐車場に車を滑り込ませた。食べ物と水くらいは売っているだろう。

 運転席から出ると、そばの園芸売場の花苗と目が合った。花には詳しくないけれど、色とりどりの花々が所狭しと並ぶ様子は壮観だった。思わず吸い寄せられてしまう。

 商品POPには「雪が降っても元気に咲く! バラ咲きジュリアン」と元気な字が躍っている。冬にも花は咲くのか、というのが素直な感想だった。

「こんにちは。可愛いですよね、ジュリアン」

 そう声を掛けられて、不覚にも慄いた。売場の花畑に見入っていて、隣に店員が立っていることに気が付かなかった。

「ジュリアン……っていうんですね。私、花はよく分からなくて」

「そうなんですね。でもこうやって並んでるのを見るだけでも癒されますよね」

 花の手入れをしていたらしい彼女は手の剪定鋏をポケットに仕舞ってそう笑った。子犬のような眩しい笑みだ。私より少し年下だろうか、新卒社員のような幼さが顔に残るが、しかし褪せた制服はベテランを思わせる。単に童顔なのかもしれないが。

「店員さんの一押しは何ですか」

 何気なしに紡いだ言葉に、彼女の澄んだ瞳が閃いた。

「冬の花壇といえばやっぱりパンビオですよね! ただおラグな雰囲気漂うラックスも捨て難いですしクリスマスローズの控えめながら品格がある感じも大変良きです1輪でもう主役のアネモネは八重咲きも入ってますよ個人的には手間なしでポンポン咲いてくれるローダンセマムなんかは今年新色が出ていてそれがすっごい可愛くて――」

「ちょ、ちょっと待って……圧がすごい……もっと簡潔に」

「花は冬も良き」

 凄まじい勢いで花への愛を語っていた彼女は本当に簡潔にまとめてくれて、私は少し笑ってしまった。そういえば久しぶりに笑った気がした。

「お花、好きなんですね」

「はい、とっても!」

 何の衒いもなく言える彼女が眩しくて、少し羨ましくすら思ってしまう。

「お姉さんはどんなお花がお好みですか」

 彼女がそう聞くので、売場を見渡して、少し控えめに咲く白い花を指差した。500円玉サイズの紫陽花みたいな花だった。

「これ……とか」

「そちらは小手鞠こでまりです。昨日入ったばかりのニューフェイスですよ! 1輪1輪は小さいながら、株が大きくなると滝みたいに溢れ咲くのが堪らんですね」

 小手鞠を手に取り、彼女はすらすらと答えた。ざっと見ただけでも花は店頭に5、60種類は並んでいるだろうに、苗が成長した姿まで頭に入っているとは恐れ入る。偶然声を掛けられたが、彼女は実は相当詳しいのではなかろうか。

「花言葉とかってあるんですか」

「“友情“ですね」

 返ってきた答えに不覚にも言葉が詰まってしまった。最も今の私から遠い言葉だ。

 黙ってしまった私に、突如彼女は手を挙げた。

「はい、ここで問題です」

「はい?」

「パンジーの花言葉は何でしょう」

「絶対知らないんでクイズにしなくていいです」

「“ひとりにしないで“」

「……」

「クリスマスローズは“私を忘れないで“、アネモネは“見放された“……花の中にはこんなクソ重い彼女みたいな花言葉もあって。びっくりしません?」

 そんな花言葉があるとは知らなかった。暗く重いメッセージを与えられたものだ。冬の花だからだろうか。

 でも、と彼女は済んだ瞳を細めて笑う。

「そんなの私はどうでも良いかなって思うんです。他人に与えられた意味なんてどうでも。私はただ、この子たちの一生懸命に咲く姿だけを信じてるので」

 まっすぐな言葉だった。ひたむきで、ただ目の前の花に愛情を注ぐことだけしか知らないような無垢な輝きを瞳に湛えている。私といくつも違わないだろうに、ああ綺麗だな、なんて思って、私は目を伏せた。何だか私にはまだその言葉を飲み込む資格はないような気がしたからだった。私の花はもう、日向へ咲きに行ってしまったから。

 目を逸らした先に『寄せ植えオーダー承ります』の文言を見つけて、指差した。

「……お姉さんのおすすめで良い感じに植えてくれますか」

「え、良いんですか!? わー、何にしようかな」

 私からの提案が意外だったようで、彼女は本当に楽しそうに売場をきょろきょろと見回した。そしてお気に入りらしい苗をいくつか見繕い、すぐに戻ってきた。

「じゃじゃーん、こんな感じで如何でしょう。白いクリスマスローズ、淡いピンクのアネモネに小手鞠を添えてみました」

「パンジーも足しましょうか。クソ重彼女セットってことで」

「あはは、良いですね! 近い色味で詰め込みましょう」

 そう言って彼女は近くにあった鉢に選んだ苗を植え込み始めた。さすが手慣れている。迷いなく花たちを配置して隙間に土を詰め込み、あっという間に花束のような寄せ植えが完成した。

「育て方が分からなくなったらまた来てくださいね! 植え替えも承りますので。お待ちしてます!」

 お代を支払って売場を振り向くと、花畑で彼女が手を振っていた。買うつもりもなかったのにうっかり5000円もする寄せ植えを買わせるのだから、やはり彼女はやり手の従業員なのかもしれない。

 でもいい気分転換にはなった、という満足感は手元に残っている。

 次に会ったときに、私はもう少し笑えるだろうか。


 今度は枯らさないように毎朝ベランダに顔を出そう、と心に決めて、私はずしりと重たい鉢を抱え直した。

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こでまり 月見 夕 @tsukimi0518

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