それでも始めなくては。

ちわみろく

ここから

 凄く冷たい空気が頬を打つ。

 寒くて身を震わせる。まだ薄暗いのに、一体誰が避難所の窓を開けたのだろう?

 暗幕代わりのカーテンが開き、微かな朝日が高い窓から差し込んでくる。

 ダンボールを重ねた簡易ベッドは、それでも無いよりはマシな寝心地だった。それに床からの冷気を直接体に感じなくて済むから少し暖かく感じる。これが届いた昨夜は少しだけよく眠れた気がするのだ。

「よう、お早う。少しは寝られたか?昨夜も冷え込んだよな。」

 無精髭を生やした顔を見せたのは、クラスは違うけれど同じ学年の高校生、悟だった。ジャージ姿がすっかり板について。というか、あれから彼は多分着替えていないのかもしれない。ずっと着たままのジャージは汚れている。スポーツマンでイケメンでモテモテだった彼の華やかな印象は、影を潜めていた。

 同じ避難所の別室で寝起きしているはずの彼がドアとカーテンを開いたらしい。

 自宅から最寄りの避難所は、町の公民館。

 気がついたときには、ここにいた。あの悪夢のような震災の後ずっと意識がなかった美夜子は誰に助け出されたのかもわからないまま、この小さな避難所で覚醒したのだった。

 まるで永い夢を見ていたかのように、目覚めた後しばらくは何が起きたのか把握できずにいた。

 大地を揺るがす巨大地震が地元を襲ったのは3日前のことだった。

 海から距離の有るここでは津波の被害は無いけれど、地割れや流動化現象があちこちに見られ多くの建物が倒壊した。美夜子の自宅も全壊ではないが危険過ぎて滞在出来ず避難所で泊まり込んでいる。

 両親と連絡が取れない。

 学校の友人や親戚も多くが消息不明のままだった。  

 電気や水道も止まっている。携帯電話の電池もとっくに切れていた。

 記憶の中でおぼろげに覚えているのは、確か放課後に親友と教室にいた時に大きな揺れを感じたことだった。

 一緒にいたはずの親友の姿は見つかっていない。

 全てが夢だったならよかったのに。

 何度も何度もそう思って目を閉じたけれど、目を開ければ現実だ。



 小さな公民館のエントランスでは、ボランティアの人たちと生き残った住民が炊き出しをしてくれていた。白い湯気が煙のように立ち上り、冷えた外気の中に消えていく。

 めいいっぱい着込んだ小学生が列に並んで順番を待っている。幼児を連れた若い母親がその後ろに並んでいた。誰もが白い息を吐きながら、ほとんど話すこともなく。

その列の最後尾に並んだ美夜子と悟は、両手に息を吐きながら空を見上げた。

「いい天気だな。」

 冬らしい澄んだ空気の向こうに青い空が見える。

「そうよね。・・・今日はどうするの?」

「ん。・・・使えそうな自転車チャリを見つけたからもう少し先の避難所まで行ってみようかと思ってるんだ。あんたも行く?」

「そっか。うん、付き合おうかしら。」

 避難所で高校生の二人が出来ることはたいしてない。炊き出しの手伝いや瓦礫の片付けなどには手を貸すことも有るが、炊き出しなどはともかく、片付けや救助活動の補助などは勝手に手を出すわけには行かないのだ。危なくて自宅にも戻れない。

 だから生き残っているかもしれない知り合いを探しに出かけようとしているのだ。

 悟も家族が見つかっていない。悟には同じ年の弟がいるが、やはり連絡が取れない状態だ。美夜子にとっても同級生だった。

 避難所には、役所の職員の人やボランティアの大人が出入りして物資が足りないながらもどうにか面倒を見てくれている。

 しかし、もともとの知り合いは少なく、とても頼ろうという気持ちにはなれなかった。

 家族は、親戚は、友達は、先生は・・・誰もいないのかと心細い思いを抱えながらの生活は身も心も削っていく。だから探したいのだ。

 簡易な朝食を食べた後、二人は泥に汚れた自転車を軽く拭った。パンクもしていないし変形もしていない。問題なく乗れそうだった。

二人乗りタンデム、したことあんの?」

「うん。中学の時に由良によく乗せてもらった。」

 彼女が口にした名前は、未だに消息のわからない美夜子の親友の名だ。

 サドルに腰をおろした悟が、後ろの荷台にお尻をつける美夜子を気遣うようにちらりと見た。

 学校中の女子から妬まれるほどの美少女の美夜子。

 その美夜子と自転車で二人乗りが出来るなんて、こんな状況でなければ心が弾むだろうに。

 水が足りなくて入浴も満足に出来ないせいか、いつも羽毛のようにふわふわだった髪がなんだかべったりして見えた。元来綺麗な子なのだが、いつも輝くように美しかったのは本人の努力の賜物だったのだと思う。外見にはこだわりがあっただろうし、そうやって美貌を保とうと努力する彼女を好ましく思っていた。

「じゃ、行くぞ。しっかりつかまってな。」 

「うん。」

 悟が漕ぎ出した自転車の前方には、アスファルトの片側が地割れでひび割れている。この道を5キロほど進めば、二人の通う高校があるはずだった。校舎が無事かどうかは定かではないが、倒壊したという話は耳にしていない。もしかしたらこの公民館のように避難所として使われているかもしれないのだ。 

 冷たい風を切って、自転車が走り出す。


 大きく開かれた校門の向こうには、自衛隊の車両と思われる大きな車体が見えた。どうやらここは二人が止まっていた避難所よりも大所帯らしい。校庭の入口で、炊き出しを終えて片付けをしている制服姿が忙しく動いていた。 

「美夜子ちゃん、体育館行ってみよう。」

「そうね、ここはいっぱい人が出入りしてるみたいだから、新しい情報がわかるかも。」

 自衛隊が来ているということは、給水も行われているかもしれないし、発電機もあるかもしれない。トイレや風呂も使える可能性が有る。少しだけ期待してしまった。

 駐輪場に自転車を止めて体育館へ向かうと、壁に大きな貼り紙があることに気づく。人名がずらりと並んで書かれている。手書きで書かれているのだろう、大きさや書体などもバラバラだが、どうやら高校の体育館に避難している人名のようだ。

 二人で目を皿のようにして知っている名前を探す。

 美夜子が知った名前を見つけた小さく叫んだ。

「・・・っ!おかあ、さん!!」

「本当か?」

 美夜子が指差した達筆なペン字は、彼女の母親の名前だった。

 ということは、美夜子の母親はこの避難所にいるかもしれない。

「正本せんせい・・・バレー部の、顧問の」

「ね、これ、教頭先生かもしれない。確か、仁杉って。」

 二人は顔を見合わせた。頷いて、スポーツを行う場所から避難所へとすっかり様変わりした体育館へ足を踏み入れる。

 仕切りらしい壁が立ち並ぶ体育館の床をゆっくりと歩いていった。ステージ側に物資が積み上げられ、ステージの上で分配を担当しているようだ。

 家族連れや、悟と美夜子のように友人同士、あるいは個人でこの避難所に滞在している人々の姿が点在している。そこかしこがパーティションらしい大きな壁で仕切られ、荷物や毛布、寝具などが積まれていた。小さな子供が走り回っているのも見える。幼い子どもたちはともかく、大人たちのほとんどがひどく疲れているように思えた。

「今から消耗品の配給が始まります!!順番に並んでください!」

 細いがよく通る声が響き渡った。

 聞き覚えのあるその声は、今の美夜子にとっては懐かしいとさえ感じる。

 ステージの上で声を張り上げる小柄な影は、遠目からでも結構な美人だと思った。

「おかあさん!!」

 美夜子が叫ぶと、ステージの上のその女性はふと視線をうろうろと館内へ彷徨わせる。若作りで美人で気の強い母親は、疲労の影がその整った顔立ちに浮かんでいたが、娘の声を聞き分けたのだろう。表情が急に明るくなったのが傍目でもわかった。

「みよちゃん!?」

「おかあさん!!」

 周囲の人々の注目を集めながらステージへ駆け上がっていく美夜子の後ろ姿を、悟は少しだけ安堵した顔で見つめていた。




「そう。由良ちゃんは見つかってないの。」

「絶対一緒にいたはずなんだけど・・・全然消息がつかめないのよ。」

 支給されたカップラーメンに舌鼓をうちつつ、親子は久しぶりの会話に花を咲かせた。

 学校の屋上のベンチの上である。ここならば誰も来ないからと、美夜子の母親が連れてきたのだ。

 悟は父親の消息がわかったらしく、その場所へ向かっている。かならず元の避難所に戻ることを約束して、高校の校門から自転車に乗って行ってしまった。

「お父さんは・・・」

「まだ見つからないわ。見つからなくて色々思いつめたりもしたんだけど。・・・あのね、みよちゃん。おかあさん、こう思うことにしたのよ。」

「こう、思うって?」

 お昼の炊き出しの湯気が、屋上にいる親子の視界にも入ってきた。校庭に人が集まってきているのだろう、ざわつく声や音が響いてきている。

「もしも見つからなくてもね、どこかで生きているって。」

「どこかで?」

「例えばね?頭とか打ってしまって記憶が無くなって、どこかの病院か施設にいるんだけど、記憶がないから名乗り出ることが出来ないだけ、みたいな。あたしたちには知ることが出来ないけど、どこかで平和に暮らしているんだって。」

「そんな、小説家かドラマみたいな」

「事実は小説より奇なり、よ。・・・そう、考えていれば、がんばれるじゃない。」

 母親がラーメンのスープまで飲むのを初めて見た美夜子は、自分も恐る恐る真似をする。今までは太ると思ってスープは残していたのだ。

 案外イケる。美味しい。

 そう言えば、親友の由良も一滴残らず飲み干していたのを思い出した。

 大食漢の彼女はいつもお腹を空かせていて、カップラーメンも普通のご飯も残したことがないのだ。スポーツが得意だった彼女は、食べっぷりもよかった。

 あの明るい笑顔を思い出す。美味しい!と言って食べている彼女の笑顔が屈託なくて好きだった。

 母の方をちらりと見る。

 なんだか少しだけ人が変わったような気がした。以前の母と違っているような。

 この大きな震災で性格が変わってしまったのだろうか。まあ、あり得ない話でもないだろう。母と離れていたのは三日三晩の間だけれど、その僅かな日々の間に母にも色々あったのかもしれない。

 美夜子だって色々有った気がする。

 見た目そっくりだと言われる母娘だが、性格も似ていると言われる。自分は母ほどではないと思っているけれど気が強いのは自覚していた。

「見つからなくても、どこかで、平和に・・・生きている・・・。」

「そう考えるのよ。」

 もしかしたら、そうとでも考えなければやっていけない。そう考えているのかもしれない。

 そうかもしれない。

 不安がってばかりいても仕方がない。

 心細いと言って落ち込んでばかりいられない。

 だって、自分は生きている。これからも生き続けなければならないことには変わらない。震災に遭っても遭わなくても、そのことに変わりはないのだ。

 それでもこれからどうしたらいいのかと思うと途方にくれてしまうが。

 炊き出しの煙が空へ上っていくのが見える。

「みよちゃん、充電出来たわよ、携帯電話。」

「わ、助かったよ。悟くんのも出来たんだ。よかった。明日からは連絡取り合えるわ。」

 母が、充電器から2つの携帯電話をはずして持ってきてくれた。ソーラー充電なので屋上でも充電出来ると言われここに来たのだ。

 電源を入れると、途端に音が鳴り出した。たくさんの人が心配して連絡をくれていたのだろう。無事でいることを伝えなくては。

「みよちゃん、今日出来ることを、今出来ることを精一杯やりましょ?泣いていたって始まらないわ。」

「おかあさん・・・だから支給品の配布係とかやってたのね?」

 そう聞かれて、初めて母親は苦笑を見せた。

「じっとしていると考えなくてもいいことを考えてしまうでしょう。きっとみよちゃんの友達の由良ちゃんも、同じこと言うわよ?あの子考えるの嫌いだったものね。でも、時にはそれも正解よ。考えても始まらないもの。やれることをやりましょう。そうすれば道はなにか見えてくるわ。今日だってみよちゃんと再会出来たもの。ね、みよちゃん。」

「なぁに?」

「今日一緒に来てた男の子、彼氏?」

 美夜子は真っ赤になった。

「ち、違うわよ。そんなんじゃないの。同じ避難所に避難してただけなのよ。」

「かっこいい子じゃないの。紹介してね?」

「もう、違うってば!」

 まあ密かに、美夜子自身も彼のことは以前からいいと思っていたのだけれど。

 今はそれどころではないではないか。

 母はまた笑って軽く美夜子の頭を撫でた。


 2つの充電済みの携帯電話を握りしめて、美夜子は軽く唇を結ぶ。

 悪い夢なら冷めてくれといくら望んでも仕方がない。

 この現実から始めなくてはならないのだから。




 


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