初空へ向かう

川本 薫

第1話

『人生の初々しさを知らされる』


 手帳を新調するたび、僕は村田さんの言葉を表紙の裏に最初に記した。村田さんは僕と同じ勤務先の上司だった。営業だった僕は経理の村田さんとは接点があまりないものの、住んでいたマンションが近所だったこともありコンビニで偶然会うことが重なって挨拶から始まり、一緒に飲みに行くようになった。気の短い好き嫌いがはっきりしていた僕と違い、村田さんはいつも物静かでどちらかと言うと黙って話を聞くタイプの人だった。僕が一方的に、感情的に、話すだけでそれを聞いているのかいないのか、僕の話が終わったところでビールが入ったグラスを手にとって静かに飲む。こんな人と飲んでいてもつまらないな、と何回かは誘いも断ったりもした。特別、村田さん自身に魅力も親しみも感じたりしたことはなかった。

 その村田さんが持病の喘息が悪化して元旦に亡くなったと聞いたのはその年の初出勤の日だった。そして後になって僕宛に村田さんの親族から形見として受け取ってほしいと一冊の手帳が会社に届いた。

 その手帳を開くと1行日記のようにスケジュールと共にひと言、言葉が添えられていた。そしてスケジュールとは別のメモのページになると僕と飲みに行った日のことがびっしりと書かれていた。


 ──加瀬くんが悩んでいるのに、僕には、どう返事をするべきかわからずに今日も何ひとつ言葉が出てこなかった。大丈夫とも頑張れとも違う。


 僕はゆっくりと時間をかけて、日を開けてその手帳に記された村田さんの言葉を読んだ。読んでいく中で、僕の名前とは違う足高さえという名前があることに気づいた。その人の名前が記されたページは読んではいけない気がして僕はそのページにピンクの付箋をつけていった。


「日野さん、足高さえさんって知ってます? 」

「あしたか? あしたかさえ? 」

「そうです」

「知ってるよ。数年前に退社した子だ。それがどうかしたか? 」

「村田さんの家族から送られてきた手帳に彼女の名前があってなんとなく気になったんです」

「関わらないほうがいいぞ。確か、同僚と揉めて今で言うオーバードーズで病院へ運ばれた繊細な子だ」

 それ以来、僕は会社で彼女の名前を口にすることはなかった。村田さんの手帳だってシンクの上の備え付けの棚にしまい込んでもう読まなくなっていたし。


 それが確か10月の終わりだったと思う新しい2024年の手帳と蛍光ペンを本屋に買いに行った時、

「ポイントカードはお持ちですか? 」

 レジでいつものように聞かれ

「いいです、ポイントカードは」

と答えた時、ふとネームプレートが目に止まった。【足高さえ】一瞬、嘘だろ? と思ったけれど僕は

「山根ペイントの村田さん、ご存知ですか? 」

と聞いた。

 彼女は答えず、そのかわりに

「お客様、その本は、こちらになります」

 レジカウンターの外へ出て僕を新刊のコーナーに案内した。

「村田さんが何か? 」

 僕の顔を見ずに本を整理しながら彼女は聞いてきた。

「形見として親族の方が僕に送ってくれた手帳の中にあなたの名前が書かれているページがあるんです。僕は付箋をつけてそのページは読まないようにしてるんですけど、あなたに読んでもらったほうがいいのかとずっと思っていたんです」

「読みます。読みたいです。今日、5時半に仕事が終わります。もし迷惑じゃなければ店舗の前にあるベンチで読ませてもらってもいいですか? 」

「じゃあ、5時半に持ってきます」

 返事をしたものの、また家に帰って手帳を持ってくるのかと思ったら、面倒くさくも感じた。それでもなにか村田さんから頼まれているような気持ちになって僕は久しぶりに台所の棚を開けて手帳を取り出してティッシュペーパーで拭いて、色褪せたピンクの付箋をブルーの付箋につけかえた。

 冬の5時半はすでに暗かった。外灯の光があるとはいえ、手帳の文字は読めない。どうするのだろう? 僕がどこか誘うべきなのだろうか? そんなことを考えていたら、

「お待たせしました。わざわざ来てもらってごめんなさい。その手帳、コピーさせてもらってもいいですか? 」

「はい、あなたの名前が書かれているところにブルーの付箋を貼っています。じゃあそこだけコピーします」

 僕はてっきり、僕の目の前で読んで感想のひとつふたつ話すものだと思っていた。彼女と近くのコンビニまで歩いて、僕はコンビニの中にあるコピー機の前で彼女に手帳を手渡した。貼られた付箋は4つ。彼女は

「付箋が4つだから40円」

 独り言のように口にして鞄の中から財布を取り出した。

 

「ありがとうございます。帰ってからじっくり読みます」

 彼女はコピー機から印刷された用紙をとって僕に会釈した。

「じゃあ、これで」

 僕は何事もなく帰宅した。手帳の付箋をめくれば書いてあることはわかる。でもそれはしてはいけない気がした。

『村田さん? これでよかったんたんだよね? 』僕はまた棚の中に手帳を閉まった。


 それから僕は休みになると無意識に本屋に寄るようになった。どうしても彼女と村田さんの話がしてみたかった。そして、ようやく会えたのはもう正月休みに入った昨日だった。5時すぎ僕は文庫本を持ってわざと彼女がいるレジの前に立った。はじめは気づかなかった彼女が

「ポイントカードはお持ちですか? 」

そう言って僕の顔を見た時

「村田さんの…… 」

 僕に言った。

 その後で

「もうすぐ終わります」

と言ったから僕も

「この間のベンチにいます」

そう答えた。

 12月の5時半はもう夜だった。僕はギリギリまで本屋の中にいて彼女がスタッフルームから出てくる姿を見てから外に出た。


「ごめんなさい。ストーカーとかじゃないんです。ただ村田さんのことを少し話したくて」

「よかった!! 嫌われてるのかと思ってました。山根ペイントの人たちにはよく思われてないだろうなって思ってたんで」

「どこか行きますか? 」

「じゃあ、近くの喫茶店でいいですか? おろしハンバーグが美味しいんです」

 

 彼女がおすすめする喫茶店につくと彼女は迷わずおろしハンバーグを頼んで僕も同じものを注文した。ハンバーグが来るまでの間、彼女は

「村田さんって改めて優しかったんだなって思いました。だってあの手帳の言葉は私やあなたに本来見せるものではなくて村田さんの日記だった。その日記の中で少なくとも私のことは親身になって考えていてくれた。書いてたんです。たかがひとりでも人生は変わるって。よく言われてたんです、たかがひとりでしょ? 我慢出来ないの? って。でも村田さんはそのたかがひとりをされどひとりってちゃんと変換してくれていた」

 彼女の話を聞いているうちに本当は手帳ははじめ彼女に送ろうとしたのではないか? と思った。でも退社して住所が、わからなくて僕に送った、彼女に伝えることまで想定して──そんなことを考えていたら村田さんが喫茶店の窓の外からみているような気がした。


「明日は大晦日ですよね」

「僕はもうお正月休みです」

「帰省しないんですか? 」

「来年は5月に帰省するつもりでいます」

「じゃあ、村田さんの墓参り──は場所がわからないから、初詣行きます? 」

 行きます? と彼女が言ったところで鉄板プレートに盛り付けられたおろしハンバーグが運ばれてきた。

「熱いので気をつけてください」

 店員の言葉に彼女は

「はい」

と返事をした。


 『人生の初々しさを知らさせる』

 村田さん? 明日の空は初空って言うんですよね? 僕はとりあえず、足高さえさんと初詣に行くことになりました。村田さんの言葉はまだちゃんと生きてます。


「ねぇ、どうですか? 美味しくないですか? 」

 彼女は僕がまだハンバーグを口にしてもないのに僕にそう聞いていた。







 

















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初空へ向かう 川本 薫 @engawa2023

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