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ルオ

第1話

 白いカーテンと白い天井が目に入った。この光景も七回目だ。

 今何時だろうか。眠気と闘いながら枕元に置いてあるスマホを確認する。七時五十分。朝食まであと少しだ。先に診察を済ませなければ。

 顔を洗おうとベッドから起きだし、仕切のカーテンを開く。窓から太陽が覗いて眩しい。誰かが窓のカーテンを開いたのだろう。エアコンが利いているとはいえ、窓辺を利用している身としては夏の朝日は地味にストレスを感じる。

 他の被験者が先程まで利用していたであろうベッドがいくつも見えた。どうやら一人を除いて全員起床しているようだ。一つだけ閉じられたカーテンがそれを物語っていた。

 某大学病院の一室――ここで一ヵ月間俺たちは寝泊まりをする予定だ。俺を含めて五人のメンバーがここで過ごしていた。全員、どこの誰だか全く分からない。素性の知れない者たちと寝食を共にするのには理由がある。とある治験のモニターとして参加しているのだ。一週間経つが、今のところ全員無事に副作用もなく過ごせた。残り三週間、問題なく過ごせればいいのだが。

 俺の真向かいのベッドがカーテンに囲まれているのを見て、起こした方がいいだろうかと迷う。ろくに話したこともない相手というのもあるが、あまり関わりたくないという気持ちの方が強かった。少し逡巡した後、声をかける。

「おはようございます。そろそろ診察の時間ですけど、大丈夫ですか?」

「……はい、大丈夫です」

 カーテンの奥から一人の青年が出てきた。ベッドの柵にかけられた名前を確認する。そこには『甲斐田良かいだりょう』と書かれていた。

 甲斐田の背は百六十センチメートル前後、歳は二十代前半だろう。あまり詳しくないのはまだ出会って一週間ということもあるが、彼自身が人と交流を持とうとしないのが原因だ。いつも物静かで大人しい。誰かが話しかけても愛想笑いすらしない。折角整った顔立ちをしているのに人を寄せ付けない態度は勿体ないと思う。この一週間ずっとそうだったので、周りも次第に距離を置いていた。そしてもう一つ、俺は彼が苦手な理由があった。

 甲斐田は俺を下から睨みあげながら会釈すると、部屋を出て行った。そう、この態度だ。

 最近気づいたことだが、甲斐田は俺を嫌っているらしい。直接言われたわけではないが、彼が他のメンバーにここまで露骨に嫌悪感を示しているのを見たことがなかった。口数は少ないが、話しかけられれば不愛想ながら一言、二言は話してくれる。ところが、俺と話すときは必ずと言っていいほど眉間に皺を寄せながら話す。明らかに良く思われてはいないのだろう。彼の気に障ることを何かしただろうか? 挨拶以外で話しかけたのは今日が初めてなので何が原因なのかが分からない。無視されているわけではないので根は悪い人ではないと思う。ただ、他人に嫌われてもそこまで気にすることではないが、こうもあからさまだと気分のいいものではない。

 ため息をつき、朝から嫌な思いをしたと気が滅入る。若干の後悔をしながらもトイレで顔を洗い、診察室へ行く。甲斐田は俺の直前だったようで、結局俺が最後に診察を終えた。そのまま朝食の流れになり、食堂まで移動する。

 食堂は娯楽室を兼ねているが、とても殺風景な空間だ。テーブルと二十人分の椅子、あとはテレビがあるだけだった。皆まばらに座っていて、同部屋の四人以外にも女性が二人いる。彼女たちも今回の治験に参加しているメンバーだ。

「ユウくん、おはよう」

 一人の女性が話しかけてきた。俺の妻の日比谷由美子ひびやゆみこだ。

「おはよう、ユミ。体調は大丈夫?」

「うん。ユウくんこそ平気?」

「俺も問題ないよ」

 由美子の隣に座って支給された弁当を食べる。弁当は生姜焼きや魚のフライなどで、毎日スーパーのお惣菜を食べているようだった。いつも家で食べているものと違ってどこか味気なく、由美子の手料理が恋しい。あと三週間も耐えられるだろうか。家庭の味って良いものなんだなと思う。正直飽きていたが文句も言っていられない。完食しなければならないのだ。

「今日の午後からだよね」

「ああ、記憶の照合だよな」

「他の人の記憶、思い出せた?」

「一応な。あんまり思い出せなくて自信ないけど」

「私も。お医者さんは少しずつ思い出せるようになるって言っていたけど、本当かなぁ」

「まだ期間はあるし、ゆっくりでいいと思うよ。他の人もそうだろうし」

「それもそうだね」

 静かな食堂内で弁当を食べながら小声で話す。俺たちの思考は、今日の午後へと向いていた。

 ここにいる七人は全員、記憶の一部を入れ換えられている。それも忘れたい過去を。トラウマや鬱病患者の治療のために新薬の研究が進み、その実現のため、現在治験が行われている真最中というわけだ。

 薬だけで記憶を入れ替えられるわけではなく、投薬した後に特殊な電流を頭に流す。そして脳波から読み取った内容をデータ化し、今度はそれを別の誰かの頭に電流と一緒に流し込むといったものらしい。本来の用途としては、辛い記憶を取り除いて他人の複製した成功体験のデータを与えるのだが、今回は少し違った角度での検証のため、お互いの忘れたい過去を交換している。

 この薬は使い方次第で大きな変化を起こす。鬱病やトラウマを背負った人には救いとなるだろう。逆に、辛い思いをしている人の記憶を移しかえれば苦しんでいる人の気持ちを理解することも出来るし、凶悪殺人犯にこの薬を投与すれば犯行の手口も分かる可能性だってあるのだ。特定の記憶を抜き取ることが出来ているのか、また、記憶を失った人はその記憶を思い出すことはあるのかを確認するのが今回の治験の目的というわけである。

 俺たち被験者は誰の記憶を誰が所持しているのかは分からない。自分自身の欠けた記憶の内容も。忘れることは大事な作業だ。あとはその記憶を入手した相手がどれだけ鮮明に思い出せているのかも確かめなければならないため、自分の過去を思い出すことが重要だ。元々は自分の経験なので思い出す可能性も高まる分、思い出せなければ実用化も早まるだろう。忘れた記憶を思い出すことはあるのか、その検証も必要なため、なるべく本来の記憶を取り戻すようにと医師に言われている。

 既に一週間が経過し、数日かけて他人の過去を垣間見た。これは少しずつ時間をかけて鮮明になるそうでまだ不明瞭な部分が多い。しかし、まだ時間はある。ここからは他人の記憶を思い出しつつ、自分の記憶を思い出すことも重視していく。

 ここで過ごしている間、記憶障害になったり酷い副作用が出てしまえばこの新薬は世に出ることはないだろう。俺としては忘れたい過去が忘れられればそれでいい。それを期待して参加したのだから。

 部屋を出るときに持ってきていた紙とボールペン、スマホをポケットから出す。紙を広げると、俺の描いた簡素な図面が姿を現した。昼食時は由美子と会えるので、退院後の予定を立てるのが日課になっていた。

「沢山あって迷っちゃうね、楽しいけど」

「そうだな。統一感も大事だけど、金額はもっと大事だしな」

 二人でああでもない、こうでもないと言いながらスマホで様々な商品を物色する。最近は専らこの作業ばかりを繰り返している。開業予定のお店の什器や雑貨など、連日調べては絵を描きながらイメージを膨らませていた。

 俺と由美子は三ヵ月後、美容室を開業する予定だ。以前勤めていた職場に由美子がやってきて、先輩後輩として切磋琢磨しあいながら交際を経て結婚。開業資金の足しにしようと二人揃って今回の治験に参加したのだ。

 結局、今後についての話はまとまらないまま食事を終えて先程の共同部屋に戻った。どんな記憶を持っているのかは誰にも話していない。それは今日の午後に全員開示されるので、それまで誰にも言わないようにと事前に告げられているからだ。

 由美子は何を知っているんだろう。そして由美子の忘れた記憶はどんなもので、誰が持っているんだろうか。

 自分のベッドに着き、暫く横になってやることもないので什器を探す続きでもしようかと思っていたところ、隣のベッドから男性が声をかけてきた。

「祐介君、奥さんと仲いいね。新婚なんだっけ。いつも何を話しているの?」

「はい、今後のことを色々と」

 相手を見ながら答える。男性の名前は仁科章仁にしなあきひと。三十二歳。背は俺より少し高い百七十六センチメートル。ベッドの上でニコニコと話す彼はこの部屋で唯一気さくに声をかけてくれる存在だ。食品メーカーの営業をしていたらしく、いつも笑顔で明るい。俺と一番年齢が近いというのもあって話しやすいし、爽やかなのが好印象だ。この人が隣でよかった。

「実は、三ヵ月後に妻と一緒にお店を開く予定なんです」

「へぇー、凄いなぁ。美容師だと言っていたし、やっぱり美容室?」

「そうですね。今は店舗の備品とか、細かい部分を話し合っていますよ」

「いいねぇ。結婚して自分のお店も持って、凄く幸せ者だな。羨ましいよ」

 まるで自分のことのように喜んでくれる仁科さんに、こちらまで嬉しくなる。

 由美子とお店を持つのが俺の夢だった。その夢がもうすぐ実現しようとしている。開業すれば生活費を稼ぐことも体調管理をすることも今まで以上に気を付けなければならない。それはそれで大変だろうという不安もあるが、楽しみという気持ちの方が大きい。

「開業したらぜひ来てください」

「うん……と言いたいところだけど、多分無理そうだ。治験が終わったら地元に戻るからさ」

「そうですか……残念です」

 仁科さんの地元はK市だと聞いたことがあった。店までの距離にして三十キロメートル以上もある。わざわざ髪を切るために遠路遥々来てほしいというのは気が引ける。せっかく仲良くなれたのにと思うが仕方ない。

「近くまで寄ったらその時にお願いしようかな」

「有難うございます」

 俺はよっぽど悲しそうな顔をしていたのだろう、仁科さんに気を遣わせてしまった。社交辞令でもその心遣いが有難い。せめてここにいる間は楽しく過ごそうと、その後も暫く仁科さんと話していた。

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