アニマグラファー 〜リホとモケのスタートライン〜
鳥辺野九
スタート
大陸横断鉄道の乗り心地はあまりよろしくない。むしろ悪い。重力制御船の浮遊感があまりに快適なせいで、乗り継ぎ利用すると居住性の差を歴然と思い知らされるからだ。
それでも昨今のレトロ文化ブームのおかげで乗車率はまずまず悪くない。むしろ良い。
影山里帆は流れ行く車窓の風景をぼんやりと眺めていた。
窓枠に肩肘をつき、手のひらで小さな顎を支える。数分おきに熱膨張調整のレールの継ぎ目に差し掛かり、ガタンゴトンと車両が声を上げてかすかに揺れる。今年の夏はあまり暑くならないだろう。レールの伸びも少なそうだ。
窓ガラスに頬を寄せて車窓の進行方向へ目を向ければ、広大な大地に敷かれたロングレールの緩やかなカーブが見える。それ以外に構造物はない。大自然と表現するにふさわしい緑色の世界が広がっている。
カフロル地方は温暖で緑豊かな土地だ。里帆の生まれた田園地方の気候とよく似ている。カフロルの空気に触れれば、遠い異国の地に在るというのにどこか懐かしさすら覚える。あの山の緩い稜線は故郷の山の記憶と重なる。あの丘に吹く風はきっと故郷と同じ匂いがするだろう。
背の低い樹木が繁る丘陵地帯を大きな川が横切っている。その川を越えれば、里帆の目的地である第七自然保護区が見えてくるはずだ。おそらく、あと二時間は大陸横断鉄道の揺れに身を任せなければならない。
ひと眠りできるかな、里帆は揺られる車窓を眺めながら思った。
生まれ故郷を思わせる風景が軽い眠気を呼ぶ。鉄道独特の周期的な揺れがかえって心地いい。重力制御船の浮遊感でもこうまではいかないだろう。身体が不安定すぎて、あれでは眠れない。
「あのー」
甲高いけど柔らかな声にふと顔を上げると、人型のヤモリが里帆のコンパートメントを覗き込んでいた。
「ここ、いいですか?」
こんな僻地で、まさか日本語で話しかけられるとは。しかもヤモリに。里帆は思いがけず耳にした母国語を瞬時に理解できなかった。
ええと、何がいいんだろうか。すぐに返す言葉すら浮かんでこない。
里帆のきょとんとした沈黙を、コンパートメントに招き入れるのを逡巡していると思ったか、人型ヤモリは真っ黒くて大きな目をぱちくりとして見せて、人懐っこい笑顔を作ってもう一度日本語を繰り返した。
「ここ、空いています? 僕、座ってもいいですか?」
大陸横断鉄道のコンパートメント客車は小柄な里帆にとっては十分に広い空間だ。人型生物が六人は座れる長椅子が向かい合い、間に小さなテーブルが据え付けられているちょっとした個室となっている。
今、そのコンパートメントに里帆一人。空間を持て余しているほどだ。
「ああ、ええ、大丈夫ですよ」
里帆はようやく人型ヤモリに声を返した。日本語を口にするなんていつ以来のことだろう、と思いながら。
「よかったー。いや、実は電車に乗る時にちらっとあなたを見かけてましてね」
人型ヤモリは笑顔のまま遠慮なしにコンパートメントに入り込んできた。ポケットがやたらくっついたアウトドアジャケットをガサガサ言わせて一歩前に出る。
「ぜひおしゃべりしたいなーって思ってたんですが、なかなか決心がつかずに無駄に時間を浪費してしまいました」
手提げのバッグを空いているシートにどさり。大きなバックパックを床にごとり。人型ヤモリは居住まいを正す里帆の真正面に腰を下ろして、ぺこり、鼻を突き出すように頭を下げた。お辞儀のつもりだ。
「電車に乗る時って、もう何時間も前ですよ」
「ええ、ええ。もしもお邪魔だったらどうしようか。いきなりヤモリ星人に話しかけられたら怖がるだろうか。いやいや、逆にうるさいって怒られやしないか。悩んじゃいました」
「そんな、邪魔だなんて怒ったりしませんよ。でも今からひと眠りしようかって思ってました」
人型ヤモリは大きな目をさらに見開いて甲高い声をさらに高めて言う。
「ああ、ごめんなさい! お休みになるんでしたら、僕のおしゃべりなんてどうでもいいです。後にしましょうか?」
やたら丁寧に慌てるヤモリ。吸盤のような指先を広げてぶるんぶるん振るう。里帆は声を上げて笑ってしまった。
「冗談ですよ。わたしでよければ、暇つぶしの話し相手になりますよ」
「もー。びっくりしましたー」
人型ヤモリは本当にそう思ったのか、芝居じみた動作で胸を撫で下ろした。
「あらためて、僕はモケモクラ・ゲッコウ・ステリノガフといいます。ご覧の通り、ヤモリ星人です。友達にはモケって呼ばれてます」
ご覧の通りね、里帆はヤモリ星人の頭のてっぺんからつま先、そして尻尾の先まで目をやった。たしかにどこからどう見ても、おしゃれアウトドアな格好をした人型ヤモリだ。
「わたしはカゲヤマリホ。ご覧の通り、チキュウ星人です。モケさんがわたしに話しかけてきたのは、やっぱりわたしがチキュウ星人だからですか?」
里帆はモケが差し出した右手を軽く握り返した。大きくてしっとりとしているが、温かい手のひらだ。
「ええ、ええ。モケでいいですよ。リホと呼んでも?」
「ええ、モケ」
「ありがとう、リホ」
友好の握手を終えて、少し間が空く。
わたしが地球生まれの人型だから話しかけてきた。そうよね、珍しい生き物だもんね。里帆はモケから目線を外して再び車窓へ顔を向けた。
ただでさえ辺鄙なこの惑星系に移住させられたチキュウ人類は少ない。日本人ならなおのことだ。それこそレア中のレア。
しかしレアリティで言うならモケも相当なものだ。哺乳系人型星人が多いこの惑星系で、爬虫系人型で、かつ希少なチキュウ言語体系の日本語を習得している。こっちも負けじとレア中のレアではないか。
「僕、カメラマンやってるんですよ」
モケが手提げバッグからレトロな一眼カメラをいそいそと取り出した。リホはひと目見てわかった。このカメラはチキュウ製の、しかも日本製のデジタルカメラだ。
ファインダーの位置、ボタンの小ささ、液晶パネルのタッチ操作、人型ヤモリにはとても扱いにくい代物だろう。それでもモケはとっておきの宝物のように愛おしく手にしている。傷ひとつない綺麗なカメラボディがいかに大切に扱われてきたか物語っている。
こんな化石レベルの年代物の日本製品に出逢えるなんて。チキュウ英語すら耳にすることのないこんな宇宙の僻地で。新設された自然保護区へ向かうローカルな大陸横断鉄道のコンパートメントで。
「モケって、すごいカメラ持ってるのね」
「これを見せたかったんです。僕のカメラ、とても古いニホン製なんです!」
モケがおもむろにファインダーを覗いてレンズを里帆へ向けた。里帆は驚いて、思わず手のひらを差し出してそれを遮ってしまった。
「あ、ごめんなさい。つい」
それでも、レンズを遮る手を下ろさない里帆。笑顔を作ることもなく、目線をそらして、モケがカメラを退けるのを待つ。
「あっ、ごめんなさい。僕の方こそ、無遠慮な行為でした」
ようやく自分のしでかしたことに気付いたモケは慌ててカメラを下げた。短い脚の膝にカメラを置き、大きくて真っ黒い目をぱちくりとさせる。
チキュウ星人として、好奇の目に晒されることには慣れているつもりだ。それでも、こんな目の前でカメラのレンズを向けられるのにはどうしても抵抗がある。
惑星侵略戦争に敗北し、チキュウ星人はことごとく他の惑星系に強制移住させられた。それも宇宙史の教科書に載って小学生が勉強するくらいの昔の出来事だが。
「僕は動物カメラマンです」
モケが申し訳なさそうに言う。
「リホがチキュウ星人だから写真を撮ろうと思ったわけじゃありません」
ミラーレスの一眼カメラを吸盤の指で撫でながらモケは続けた。リホはそうっと手のひらを下ろして、それでもモケの顔は見ずに、車窓の丘陵地帯を伏し目で見遣った。
「このカメラをリホに逢わせてやりたかったんです。カメラマンとして、ついレンズを向けてしまったけど。ごめんなさい」
「いいんですよ、モケ。写真に撮られるのが苦手だってだけです」
ようやく里帆は重い息を吐き捨てることができた。
「僕は、第七自然保護区でカエルの写真を撮ろうと大陸横断鉄道に乗ったんです。そこで、チキュウ星人で、しかも本でしか読んだことのないニホンの人を見つけてしまったので、もう、どうしようどうしようってずっとドキドキしていました」
「第七自然保護区で、カエルの写真?」
「うん。カエル。僕に似てるでしょ?」
たしかに。チキュウのカエルと人型ヤモリとはよく似ている。
遠い星の両生類とまた違った遠い星の人類の顔が似ているなんて、よくある話だ。チキュウ人類も哺乳類型人類とちょっと似た形状をしていたため、宇宙のあちこちに移住させられたのだし。
「どうせだったらヤモリの写真を撮ったら?」
少しは言い返してやろうか。里帆は少し意地悪く言ってやった。
「ヤモリだったら鏡で毎日見てるよ」
そりゃそうだ。里帆は思わず笑ってしまった。言い返してやるつもりが、きれいにカウンターを食らった気分だ。悪くない。チキュウ星人の笑顔のひとつも見せてやろうか。
「そんなに笑うことかい?」
モケも笑ってくれた。人懐っこい丸い目を細めて、ケタケタと声を上げる。
「だって、おもしろいじゃないの。ヤモリが鏡のヤモリの写真を撮るの想像してよ」
「うん。奇妙な写真集が完成しそうだ」
チキュウ星人とヤモリ星人はひとしきり笑い合った。それから里帆は笑顔を崩さずに呟いた。
「わたしね、その第七自然保護区の博物館へ学芸員として招待されたの」
「それはすごい。立派なお仕事だよ」
「例によって強制移住だけどね。戦争に負けたチキュウ星人に選択の余地はないもんね」
モケは笑っていた。愛想笑いじゃない、本当に楽しいから生まれるにこやかさだ。
「必要だから求められるんだよ。そもそもチキュウの文化を保存、継承するために第七自然保護区は作られたんだ」
第七自然保護区設営はチキュウの自然環境をそっくりそのまま再現させるプロジェクトの一環だ。里帆が招かれた博物館はチキュウのアジア地区、ニホンエリアにある。配属は稲作環境保全担当だ。生き残った日本人だから、こんな宇宙の辺鄙な惑星に人工的に作られた田園環境に強制的に移住させられたのだ。
「いいんだよ。わたしはどこだって生きてやるって気持ちで大陸横断鉄道に乗ったんだから」
「いいね、その気持ち」
「わたしは日本の稲作文化を保全するためのお仕事をさせられるらしいけど、むしろ日本のお米の美味しさを全宇宙に知らしめて、宇宙をわたしの新米で支配してやるわ」
「そうこなくっちゃ。ニホンのお米食べたことないけど、僕は応援するよ」
「ありがと、モケ。ちょっと勇気湧いた」
「どういたしまして、リホ。僕は幸運だ」
「どうして?」
「だって、稲作環境にカエルは付き物でしょ? 僕はカエルの写真を撮りたいと思ってるんだ。リホはその現地ガイドとして最適じゃないか」
里帆はモケに負けないくらいケラケラと声を上げて笑った。自然に湧き出た笑い声だった。
「そういえばそうだね。うん、任せて。きれいな田圃仕上げて、立派なトノサマガエルを見つけてあげるよ」
モケは里帆の曇りのない笑顔にカメラのレンズを向けた。
「とてもいい笑顔だよ。今度こそ、一枚いい?」
里帆はヤモリに笑って見せた。
「一枚だけね」
里帆は宇宙の片隅で田圃を作る。モケは宇宙の片隅でカエルの写真を撮る。似ても似つかぬ人型生物の奇妙な共同作業が始まる。宇宙ではよくあることだ。
アニマグラファー 〜リホとモケのスタートライン〜 鳥辺野九 @toribeno9
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