第3話

 2手目で彼女はc側にナイトを進めた。


 その時点でクイーンズギャンビットを狙っていることは分かったので、中央を固められる前にg6にポーンを出す。これによって白のクイーンの進軍ルートは押し込まれ、ボードを斜めに叩き切るように小駒が並んだ、典型的なディフェンスの盤面が形成される。


「初心者のころは、チェス盤が宇宙のように見えてた」


 宗宕メイがつるつるしたポーンの頭を撫ぜて言う。

「チェスのワンゲームにおいて、決着までの探索空間がだいたい10の120乗とか言われているみたい。まさに宇宙だよね。でもあたしがポーンを出した瞬間、あなたは迷いなくd5の手を選んだ。初手に可能だった動きは20通りあるはずなのに、そのうち期待値の高いものだけ選別すると、次の動きはわずか2,3のパターンにまで絞られてしまう……」

「選ぶ自由は変わってないさ。大半の手に意味がないだけで」

「そう。真の自由には、差し手が選択肢の価値を知らないか、価値を知ってあえてナンセンスを選ぶしかない」


 彼女は急に反対側のナイトを持ち上げて、味方のポーンの頭を飛び越えて前進させる。

 珍しい手だ。

 膠着した戦線はいったん置いて、クイーンのための迂回路を作るつもりらしい。


「『人間は自由の刑に処されている』」

 大理石のようになめらかな手のひらがこちらに差し伸べられる。

「しかし、その自由とやらは環境によって定められたレシピから選ぶ権利にすぎない。そうは思わないかい?」

「さあね」


 敵の突撃に備えて、ビショップをナイトの後方に待機させる。

「僕はこのループから抜けたい」

「今のきみにとっては、『抜けたい』と主張することが合理的なワケだ」

「思考を口にだすだけの作業に、決断なんて無いよ」

 ふう、と伸びを打つ。指先がカレンダーの切れはしに触れてサリサリと音を立てた。


「合理的かどうかなんて報酬値の話でしかない。そんなに『私は自由です』と実感したければ、降りしきる雨の中で傘もささずにタップダンスを踊ってもいいし、走り過ぎる車の列に飛び込んでもいい」

「期待値の低い選択肢をわざわざ選ぶことは、一般に不幸だと思うけど」

「僕は、一般論じゃなくて個人の幸福の話をしていると思っていた」

「んじゃあ幸福の質の議論から始めてみます?」


 宗宕メイがとうとうクイーンを大きく押し出す。

 こちらも牽制にもう片方のビショップを進めて、戦場がようやく動き出した。



 それこそ、何百回も先人たちがやって来たように。



 唐突に醒めていくのを感じる。


 結果は充分に集束していた。僕は白のポーンをだらだらとマークし、宗宕メイは逆に通すための戦術を取る。


 こんな対局を誰もがやっていた。

 これまで――いや、一度じゃない。何十回もやったはずだ。


 目を上げると、宗宕メイのいた場所には何もなかった。

 はらはらとめくれたカレンダーの紙面が、僕に手番を渡すようにすぐ横で落ちる。


 機械的にビショップを下げる。


 盤面にはふたつの戦線。

 一見すると複雑だが、左右に分ければそれぞれ定石通りの動きだと分かる。

「オリジナリティの欠片も無いな」

 ぽつりとつぶやく。


「人生なんてそんなもんだよ」


 ふたたび目を開くと、目の前には宗宕メイが座っていて、爪の甲をやすりで磨いていた。すでに次の手は決めているのだろう。


 チェスの盤面はとっくに定石から外れきっていて、崩れた僕の戦線にはc6のビショップだけが孤立している。

 15手目でキャスリングを意識しすぎて1手無駄にしてしまった。その隙にポーンが進撃し、次の1手で彼女はクイーンを犠牲に突破口を開く。あとは成ったポーンが食い荒らしてチェックメイトだ。


 腿まで積み上がったカレンダーでぎちぎちに拘束されながら、僕は取られたばかりの駒を見つめる。

 さっきはビショップを下げずに踏み込ませるべきだった。それで敵のポーンをすべて見られた。


「この盤面から取れる手は3択」

 宗宕メイのひじがボードの角に載る。

 組んだ手に丸いあごが乗っかかると、形のいい唇が持ち上がった。

「ここに至るまでにあなたは1つミスをしたし、あたしは最善手で攻め込んだ。でも、そういう過程は関係ないの。今の盤面から選べる手は3つだけだし、あなたにはそれを選ぶ権利がある」

「負け方をね」

「この場合、あたしにとって勝ち負けはどうでもいいんだ」

 彼女はわずかに首を傾けた。

「答え合わせは終わった?」


 目を盤上に落とす。

 ここまで26手。なんともひどい手を打ったもんだ。

 勝つことは無理だろう。これはキングを守りきれる盤面ではない。


 素直に負けるか、あがくか。


 宗宕メイはすでに僕を見ておらず、カレンダーの端からのぞくインク染みを目で数えている。時刻は23:54。きっと現実の「宗宕メイ」もカレンダーに押しつぶされたら同じようにあたりを見渡すだろう。


 ……本当にそうか?


 僕はそう思っている。予測はかなり正しい、という自信もある。

 しかし彼女は本物の宗宕メイではないし、この対局も僕の脳内だけで行われたものだ。{(『宗宕メイと対戦する自分』が差すだろうという手)を打った僕を観測して、(『僕と対戦する宗宕メイ』が打った手)を推測して次の手を差した繰り返しの}盤面があるだけだ。


「なあ。おまえ、考えてるのか?」


 宗宕メイの顔からずるりと皮が落ちる。下には無数のノードで出来た樹形図が詰まっている。こちらの息づかいに合わせて、発火したノードたちが幾何学模様を形成していく。


 やっぱりしょせん人形だ。生の彼女とは違う。


 駒に指をかける。向かい側で宗宕メイがわずかにたじろぐ。

 そしてナイトを戻した。


 彼女が大きくため息をついて、天井を仰ぐ。


「OK。千日手ステイルメイトだね」

 僕の声で、彼女は言った。



★★★


 気が付くと朝日が差し込んでいた。

 腹に乗せた毛布をどかして起きる。乱暴に破られたカレンダーには元旦の日付を記した紙がぶらぶらと垂れ、下には「12/31」の紙が1枚だけ捨てられている。

 電池切れ寸前のスマホからは、宗宕メイの新春配信の声が響いていた。


「新年おめでとう……ま、あたしはずっと起きてたけど」

 はは、と彼女の高い笑い声が飛び出す。

「大晦日34時って感じだよね。書生諸君、徹夜は人生何度もできるものじゃないから大事にね!」


 あれだけ送ったスパチャはチャットを見ても無かった。

 いつから寝ていたのだろう。寝ぼけまなこをこすりながら打ち込む。


 ――「昨晩はおたのしみでしたね!」


 彼女の視線が右を向き、少し間を置いて、


「おたくも共犯だからね?」

「ビジネスは楽しむものだぜ、きみ」


 しばらくスマホを握ってぼうっとしていた。

 シミュレーションで考えていた彼女の応答とまったく違う。

 それもそうだ。僕が夢の中で1000兆回試行しているあいだに、彼女は他のリスナーたちと8時間ずっと対話していたのだ。現実の彼女はそのぶん学習している。僕がひとり合点しながら作ったモデルが合致するはずもない。


 かぶりを振りつつ、スマホを机に置く。

 世界は僕の頭の中よりずっと広かった、ということだ。

 今は朝飯を決めよう。これが新年ひとつ目の決断。こっちはさすがに推測から外れることも無いはずだ。


「おたくも共犯だからね?」

 唐突にスマホから宗宕メイの声がした。


 驚いて振り向くと、彼女のモデルが片目をつむっていた。まずは大正解だ、と言いたげに。


 ああ、とつぶやいてスマホの電源を落とす。


 どんな推測も、実現するまではただの妄想なのだ。

 さあ外に行こう。答え合わせの時間だ。

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10^15回目の年越しスパチャ 平沼 辰流 @laika-xx

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