第2話

 ループは999兆999憶999万9914回目に突入した。


 白く塗りこめられた壁の向こうからはもはや音は聞こえず、天井もとっくに分厚いパルプの層の向こうに消えた。初期のループで破られた紙片はうすくクリーム色に変色し、床から6センチメートルの高さでシルトのような粗い層を作っている。


「『如何に環境が理不尽であろうと、生物の進化は合理的になされる」」


 そっとつぶやきながら、宗宕メイが積み上がった紙に腰かける。彼女の薄く肉の乗った脚が組まれ、不健康そうな頬がつり上がると、丸い目がこちらに向かって悪戯っぽく笑った。


「想像力もそう。帰納により個人は未来をある程度のヴィジョンを持って予測できるようになった……ってわけ」

 彼女の腰の下で、999兆999憶999万9913枚のカレンダーが軽く沈みこむ。

 繊維の束に、ときおり挟まった黒いシミは「12/31」の印刷がはみ出しているのだろう。押し込まれた紙がキシキシと軋むたび、無数の黒点がコバエのように動いていた。


「8@024でゃガrがeeたU纏KE「:」

 手元のスマホでスパチャを送る。液晶の向こうの宗宕メイは一瞬困惑したように眉をひそめ、


「いたずらかな」

「いたずらかな?」


 ――僕と同時につぶやいた。


 彼女の実年齢は知らないが、声からして20から30のあいだに収まっているはずだ。人間として活動している時間は最大でも9×10^8秒程度となる。


 人生は有限だ。

 そこから受け取れる刺激も、有限個だ。

 ならば出力される思考も、やはり有限個の組み合わせになる。


 根気と、飽きの来ない程度の好奇心。

 必要なものは、刺激と反応のペアを調べていく作業だけだった。穴に合う鍵束のキイを確かめるために、一本ずつ差し込んでいくように。

 褒められたときの謝辞、アンチへの応対、セクハラに対する嗜め方、未知の文字列を目にしたときの振る舞い……。そのときの時刻は? ひとつ前のコメントは? スパチャを目にするとき彼女は息を吸っていたか? それとも吐いていた? カルピコを飲む前? 飲んだあと? 手は何度動いていた?

 670億ほどスパチャを送った頃には、僕はかなりの精度で次のパターンを予測できるようになった。いや、少なくとも12月31日23:40から23:59までの「宗宕メイ」に関しては、今では完璧な対話モデルが完成している。


「でもそれ、あたしじゃないよね」

 宗宕メイが意地悪く笑う。


 今の彼女は2兆3500憶回目のループあたりから、僕の部屋に現れだした。

 そのときには、対話モデルは僕が意識しなくても学習を続けていた。脳の演算領域をちょっと貸してやるだけで、彼女は僕の記憶を飛び回り、あらゆるシチュエーションの「宗宕メイ」を演じてみせた。


 高校のクラスにいた宗宕メイ。大学のゼミを一緒に過ごした宗宕メイ。先輩と同居した宗宕メイに嫉妬した宗宕メイ。とは無関係にOLとして暮らす宗宕メイが開いたパソコンの中で、配信する宗宕メイ。その上司の宗宕メイと、その妻の宗宕メイと母の宗宕メイ。その記録を遠未来、プロキシマケンタウリの地球型惑星で閲覧するケイ素生物になった宗宕メイ――を記述するSF作家の宗宕メイ。


 僕が記憶しているあらゆるシーンに彼女が登場してから、「宗宕メイ」が現実にも現れるまでそう時間はかからなかった。

「どういうことだ?」

 画面の向こうの彼女は、後輩の歌に聞き入っている。今のところ、振る舞いに関しては目の前の宗宕メイとの差異は感じない。


 彼女はからからと笑う。


「現実の「宗宕メイ」はあなたのスパチャを教師信号として学習している。でもループでリセットしたあたしに、その記憶は存在しない。あなたは無数の試行n+1番目のあたしを観測してるけど、再現しようとしている学習前のn回目のあたしとはどれも試行1回分のズレがある……」

「1度だけの刺激なら簡単に排除できる。余事象を洗い出せばいい」

「そうだね。あなたのスパチャをもらう前の『ヴァーチャル』なあたしはそうやって作られた」

「僕の分解能では、きみのことはすごくリアルなものに感じている」

「ええ、でしょうとも」


 彼女は手を伸ばして、壁のカレンダーに手をかけた。

 12/31。破った下から1/1が現れる。

「おめでとう。ループは終わりだよ」




 ――目が覚めると、彼女は紙の山に座ったまま、こっちを見ていた。


「ちぇしゃきゃっと」

 と、彼女は口に出してニタニタ笑いを浮かべる。

「どういうことだ」

「チェシャキャットと言うと顔の形が笑顔になるでしょう?」

 彼女は笑みを消して、言った。

「12月31日が過ぎると1月1日が来るみたいに。始めから始めていれば、終わりでちゃんと終わるってこと」

「分からないな」

「あたしたちはループする関数に乗ってるってわけ」


 彼女が立ち上がる。

 平らになった紙の山には、白と黒の遊戯盤が置かれていた。


「たとえばゼロってあるじゃない?」

 彼女がポケットに手を入れ、1ピースずつ取り出したチェス駒を置いていく。黒檀と象牙のぬらりとした表面に、混じりけのない白い光が反射する。

「あれって『無い』んじゃなくて、ゼロを出力する計算式が『ある』わけだよ。その意味で、何もない真空状態って数学的にはほぼ存在しないんだ」

「しかし僕たちはループを……」

「ループする状態が『ある』と考えるべきじゃないかな」

 宗宕メイが唇の端をめくり上げる。


「ちょっとアプローチを変えてみようか」

 彼女は紙で覆われた床に座ると、ほのかに静脈の透けた細い指で、キングの前の白いポーンをつまみ、まず2歩進めた。

「1局、お願いできるかい? 今晩はカスパロフ対ディープブルーと洒落込みましょう?」


 これまでのループの中でも、チェスをする彼女は初めてだ。

 ああ、と応じながら、僕はカレンダーを破った。999兆999憶999万9915回。

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