10^15回目の年越しスパチャ

平沼 辰流

第1話

 いつになったら新年を迎えられるのだろう。


 力の抜けた指から「12/31」のカレンダーが落ちて、床に積もった紙束に軟着陸する。

 時刻は23時40分。本日、大晦日100日目。

 僕だけが、まだ2023年にいる。


 点けっぱなしにしたスマホからは年越し配信するVチューバ―の声が流れている。隣の部屋では紅白歌合戦をやっているらしく、ベースのスラップに合わせて低周波のノイズが壁を貫通していた。


「こないだですけど、リックから『は』と『が』の違いを言われたんですよ」


 スマホの4インチ画面から舌足らずな声で配信者――『宗宕ソウゴメイ』の2Dモデルが大げさに上体を揺らして言う。


「どっちも主語を表すのに2種類あるのはなんでだ? って。まあそれで調べたら、どうも『は』って副助詞だから省略できるんだって。言われてみたらあたしのあいさつ、『聡明一点ソウゴメイ! ごきげんよう書生しょせい諸君!』じゃないですか。1回も『あたしは』って言ってないんですよね――」


 次に来る言葉は分かっている。

「で、日本語の人称の多さも、そういう主語のユルさから来てるのかなって」


 彼女の声音をそっくり真似てつぶやく。

 暗記してしまったセリフも、30回目のループまでは音程のズレがびりびりと響いたものだが、今は完璧にコピーできるようになった。


 あと10秒で隣の部屋から咳が聞こえる。その6秒後、上の階で赤ん坊が泣きだす。

 そして日付変更線が頭上を通る直前、宗宕メイの配信はカウントダウンの「8」で機材の不備が起こって止まり、僕はイライラして「12/31」のカレンダーを破る。


「きゅう、は――」


 力の抜けた指から「12/31」のカレンダーが落ち、こんもりと積み上がった「12/31」の紙の山に新たな一枚が加わる。


 壁の時計は23時40分を示していた。


「こないだリックからわとがの違いを言われたんですよ」

 スマホの電源を落として、言う。

「どっちも主語を表すのに2種類あるのはなんでだ、て。まあそれで調べたら、どうもわは省略できるんだって。言われてみたらあたしのあいさつ、聡明一点宗宕メイ。ごきげんよう書生諸君、じゃないですか。1回もあたしわって言ってないんですよね日本語の人称の多さも、そういう主語の緩さから来てるのかなって」

「ごほん、げ、げほおん」

「ああーあぅあああー!! ああー!」

「書生諸君、さあ新たな時代の幕開けである! 21世紀はうお座からみずがめ座への転換だった。果たして2023年から2024年は何の転換を見せてくれるのだろうね? さあ10……9……は」


 カレンダーに手をかけ、破る。

 視界に一瞬だけゴシック体の「1/1」がよぎり、ふっと我に返った瞬間、そこには新しい「12/31」の紙が装填されている。股を120度広げた時計の針がこりこりと時を刻み、世界はふたたび2023年最後の20分間をなぞり直しだす。


 今回もダメだった。

 どうしても2024年へのジャンプが出来ない。

 カレンダーの切れ端をいちど蹴り飛ばして、ちょっと思い直して拾い上げる。もはや破ったとも言えない乱暴なカットの「12/31」は、記憶が正しければこれで103枚目だ。


「……本当にそうか?」


 試しに一枚拾って、よそに置く。宗宕メイの声をバックに一枚ずつ積み上げていくうちにカウントを間違えたような気がして、また別のところに積み直す。三角形を描きつつ移動していくカレンダーの紙を眺めるうちに、また宗宕メイのカウントが始まる。


「10、9、は――」

 カレンダーから一枚破り取り、新しい山に乗せた。


 結局、ループ数は103で正解だった。数えている最中に3回大晦日が過ぎたから、いま床に積み上がっているのは106枚になる。

 それが何だ。状況は何ひとつ変わっちゃいない。

「10、9、は――」

 カレンダーを破り捨てて捨てる。107枚。


 僕がループしているのは大晦日までのきっちり20分だけ。つまり現時点で36時間ほどを不眠不休でループしていることになる。


 きっかけは分からない。

 たぶんそこの部分は関係ないのだろう。解決すべき状況だけがある。そしてこの状況は、僕にとって不快だ。正さなければならない。


 スマホに目をやると、まだ宗宕メイの配信は続いていた。主語の話が終わり、今は他の配信者の歌枠を同時視聴している。


「この歌、こういう解釈もあるんだなあ」

 2Dモデルが止まり、カラカラとグラスに入れた氷が鳴る。中身は配信中に入れたと言っていたカルピコだろう。

「いや、違うんですよ。『サヨナラ』ってところ、あたしのときは『左様なら』って『また会おう』というニュアンスで歌ってたから」

 演者がカメラの前に座り直したのか、宗宕メイのモデルに動きが戻る。いつものようにモミジのような右手がひらひらと舞い、甘ったるい笑い声が響く。


「『こんにちは』も本当のところは『今日こんにちはお日柄もよろしく』だしね、何でも深読みできるってわけですよ。書生諸君」

 先生はストレートっすね、とスパチャが飛び、むすっとした彼女が「じゃあ大谷ばりのスライダーで投げてやろうか?」と返す。


「108」


 どうしてやろうと思ったのか分からないが、気が付けば手早く打ち込んでいた。

 赤い枠で囲まれたゴシック体が、僕のハンドルネームとともにチャット欄をスライドしていく。


 バックで流れる大して上手くない歌声がやけに響いた。宗宕メイのモデルが小さく揺れて、真ん丸の目が右を向く。


「……さん、ありがとう。108っていうのは煩悩かな? もしや先生をそういう目で見ちゃってたり?」

 大量の「w」と「草」が流れていく。彼女はクスクスとひとしきり笑ったあと、あの高い声でいつものカウントダウンに移る。


「10、9、は――」

 僕はカレンダーを破った。

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