第3話 後編

 先生の家はワンルームのマンションでとても快適だった。

 ゴミも埃も落ちていない。

 衣類は全てきれいに洗濯されて、しかる場所に整頓されている。

 ちょっと神経質なんじゃないかと思えるほど、四角四面に整えられていて、華の動きは自然と委縮する。

 なんだかいい子でいなくてはいけない気がして……。


 白木の艶やかなフローリングに体育座りをすると、薄汚れた足が視界に映り込む。

 薄っぺらい寸足らずのデニムは体の成長に伴っていないばかりか、シミだらけ。

 季節外れのニットは毛玉ができていてよれよれだ。


 ――私、こんなに汚れてたんだ。その上、見すぼらしい。


「ちょうどラッキーな事に明日は土曜日で学校は休みよ」


 先生は途中のスーパーで、お買い物してきた大量の食材を冷蔵庫に仕舞いながらそう言った。


「しかも更にラッキーな事に、天気予報は晴れ」


「晴れが、どうしてラッキーなんですか?」


「お掃除日和じゃない!」


 先生は明日、また家庭訪問をして、我が家のお掃除をするつもりらしい。

 華は父の暴挙を思い出し、きゅっと足がすくんだ。


「お腹空いたでしょう? 夕飯は簡単にパスタでいいかな」

 華は小さく頷いた。

 ご馳走になってもいいのだろうか?

 華のそんな懸念を他所に、先生はトントンとまな板を包丁でたたき始めた。


 甘酸っぱい匂いが部屋に充満して、ケチャップ色のパスタと彩鮮やかな野菜サラダがテーブルに並んだのはそれから30分と経たない頃だ。


「おいしそう……」


「さぁ、遠慮なく食べて」


 フォークにたっぷりの麺を巻き付けて、口いっぱいに頬張ると、濃厚なナポリタンのソースが口中に広がって、バターの香りが鼻から抜けた。

 気絶するかと思うほど美味しかった。


 寝る前は、新品の歯ブラシを渡されて、お風呂に案内してくれた。

 七分目ほどにお湯が張られた湯船。

 お風呂は一週間ぶりだ。

 不定期で限界を迎えた頃、めんどくさそうに父が銭湯に連れて行ってくれる。

 我が家にお風呂はあるものの、ゴミが占領していて使い物にならないからだ。


 湯船の中で次から次に浮いてくる垢を、何度も桶ですくっては洗い場に流した。


 その夜は、先生のベッドに華が、先生はソファをベッドのように伸ばしてその上で眠った。



 次の日、清潔でふかふかのベッドの中で目を覚ますと、既にキッチンからいい匂いが漂っていた。

 キッチンカウンターの上には、大き目のタッパーが並べられていて、まるでピクニックが始まるのかと思うほどのお弁当が出来上がっている。


 華が目を白黒させていると

「今日は一日がかりになりそうだからね。腹が減ってはお掃除はできぬ」


 先生はそう言って、うふふと笑った。


 先生はきっとお掃除が好きなのだ。



 お弁当をバスケットに入れて、かわいいキャラクターの付いたエコバッグに、ゴミ袋やお掃除用品を入れて、いざ出陣。

 先生は昨日の余所行きのスーツではなく、スリムのデニムに黒い長そでのカットソーを着ている。

 長い髪は後ろで一つに結わいて、とても身軽そうだ。


 華は終始憂鬱だった。


 父がお掃除を許すだろうか?

 また暴れたらどうしよう。

 そしたら、華は児童相談所に連れて行かれるのだろうか?


 これで、何かが変わるだろうか?



 石ころだらけの細い小道を歩いて行くと、うっかり通り過ぎてしまうような小さなボロ家にたどり着いた。

 見慣れた家がなぜか、とてもみすぼらしく見える。

 今まであまり気にしていなかった、玄関の前をうっそうと覆う雑草までも、貧乏くさくて汚らしい。

 この中は更に汚らしくうっとうしいのだ。


 玄関ドアを引くと、キィーっとまるで小動物のような鳴き声を上げて開いた。


 暴力的に襲って来る異臭。

 慣れていたはずの匂いは以前に増して強烈に感じる。


 居間には昨日と同じ形の父の背中。


「お、お父さん、ただいま」


 父はその声に反応するかのうようにさっと体を起こし、こちらに顔を向けた。


 なんだかいつものお父さんと違う気がする。


「華……」

 そう言って、少しだけ泣きそうな顔をした。


「こんにちはー、お邪魔します」

 先生が華の後ろから入って来た。


「……あんた」


 父は先生を睨んだが、昨日とは少し違う。

 すっくと立ちあがり、きをつけの姿勢で深々と頭を下げた。


 部屋の状態は何一つ変わっていないが、華は一つだけいつもと違う事に気が付く。


 ――お酒の匂いがしない。


 父から漂っていた腐ったようなアルコールの匂いがしないのだ。


「お父さん、お酒飲まなかったの?」


 父は小さく頷いた。


「すごいですね。さすがお父さんです。立派です」


 先生はそう父を褒めると、バスケットを差し出した。


「朝ごはん、まだですよね?」


 バスケットの中には大きなタッパーが三つ。

 海苔で覆われたおにぎりと、卵焼き、唐揚げ、野菜の煮物。


 小さなちゃぶ台の上に散らかる物たちを床に落として、それらを並べた。

 テーブルいっぱいに広がるご馳走を前に、父は目を細めて、再び先生に深々と頭を下げた。


「何て言ったらいいか、私はもう42歳になりまして、この年で妻を失って、仕事を失って、再就職だってもう難しい……。けど、娘は……華は……、華だけは……手放したくない」


 父は今にも泣きそうにそう言って、腿の上で拳を握った。


 華は先生の耳元に口を近づけた。


「お父さん、どうしちゃったんですか?」


 今度は先生が華の耳元に口を寄せて

「華さんがいなかったから、寂しかったんじゃないかな」

 そんな事を言った。


「華さんを手放したくないなら、もっとちゃんと華さんを見てあげてください」


 父は俯いたまま頭を上げ下げした。

「しかし、俺はもう、もうダメなんだ……」


「お父さん! 明日、何が起こるかわかりますか?」


 先生は唐突にそんな事を言った。

 華は心臓がいやな跳ね方をした。

 明日、もしかしたら行政の人が来るのだろうか?


「へ?」

 不思議そうに顔を上げる父。


「明日って、今日より一日年を取ってるんです」


「はぁ」


「つまり、残された人生の中で、今この瞬間が一番若いんですよ」


「はい」


「一日一日、命は削られていくんです。新たにスタートを切るという事はいつでもできますけど、少しでも若いうちがいい。どんなに悔やんでも過去に戻る事はできないから、一番若い今、一歩踏み出しましょうよ!」


「先生……」


 そう言ったのは、父だ。


「新たな道を塞いだまま、過去に囚われて生きていたって、腐っていくだけです。あなた一人の人生ならそれでもいいと思うんです。でも、あなたは親なんです。華さんが大事なら、今やらなくてはいけない事があるはずです」


 先生はそう言って、きゅっと口を結んだ。


「さぁ、食べましょう。食べてピカピカにお掃除しますよ!」


 その一声で、三人は無言でむしゃむしゃと、手づかみでご飯を食べた。




「さぁ! 始めますよー」

 食べ終わり、タッパーの蓋を閉じたと思いきや、先生はそう言って拳を天に突き上げた。


 勢いに気圧された父は、まるで操り人形にでもなったみたいに立ち上がる。


 先生は秘密道具みたいにゴミ袋をエコバッグから、ジャジャジャーンと取り出して。


「お父さんはリビングのゴミ!」


「はい!」


「華さんは風呂場のゴミ!」


「はい!」


「私はキッチンのゴミを集めます」


「「はい」」



 華はゴミに占領されている風呂場を前に、ワクワクしていた。

 このお風呂にお湯を張って、家でゆっくり毎日湯船に浸かる事ができるようになる。

 クラスメイトに「なんか臭くない?」と嫌みったらしくいじめられる日も終わるのだ。


 スノコの下にはゴソゴソとゴキブリが這いまわっているが、華は今さらゴキブリなんて怖くない。

 風呂掃除用のブラシを振り回して、一匹残らず退治してやった。



 大掃除は当然一日では終わらず、来る日も来る日も続いた。


 その間、先生は毎日我が家に通って、掃除の手伝いや食事の差し入れをしてくれた。

 そんな日がちょうど一週間を過ぎた土曜日の事だった。


 大掃除も佳境に入り、ラストスパートとばかりに部屋中をピカピカに磨きあげる。



「う~~~ん。すっごいきれいになったね」

 キッチンもお風呂も居間も玄関もトイレも。

 落とせる汚れは全て落としてピッカピカ。

 変な匂いも、もうしない。


「こんなに広かったんだな。この家」

 お父さんはぼそりと独り言を言った。

 外はとっくに日が暮れて、時刻はもう9時を回っている。


「腹減ったな」


「うん、お腹減った」


「よく頑張ったからね」

 先生は華にそう言って、ドヤ顔を見せた。


「お父さんもよく頑張りました」

 その言葉に、父は顔を赤くしてそっぽを向いた。


「鍋でも作るか」

 お父さんはそう言って、自分の財布をスエットのポケットに突っ込んだ。


「鍋? 本当?」

 昨日まではと言うと、よくて見切り品の総菜。

 先生からの差し入れのコンビニおにぎり。

 賞味期限なんて完全無視の食パンにマヨネーズをかけて食べていた。


「お父さん、お金あるの?」

「お金は、まぁ、あるんだ」


 我が家にはまぁまぁお金があるらしい。


「お金あるのにどうしてうちは貧乏なの?」


「お金を使わないからだ」


「どうしてお金あるのに遣わないの?」


 父は下瞼を膨らませて俯いた。


「お母さんと一緒に、貯めたお金だったから。家を建てるためにあいつと頑張って貯めたお金だったから……」


 父はそう言って、なぜか涙を流した。


 その言葉の意味が、華にはよくわからなかったが先生にはわかったみたいで、父の肩をそっと撫でた。


「もうそれ、使ってもいいんですよ」



 どうにか人が住めるぐらいにはきれいになった我が家で、父は久しぶりに料理を作った。

 ピカピカに磨いた土鍋にたっぷりの野菜と鶏肉の水炊き。

 甘酸っぱいポン酢を絡めて、炊き立てのご飯と一緒に頬張る。


「美味しい~~~~~」


 ほかほかと体は温まり、自然と笑顔があふれ出す。


「お父さん、お料理上手なんですね。見直しました。料理が上手い男性は女性にモテるんですよ」


 先生は真っ白いご飯を頬張ってにっこり笑った。


「バカ言え」

 父は満更でもなさそうに笑っていた。


 それを見て、先生は大きく開けた口を手で覆って大笑いした。



 それからというもの、どうにか普通の暮らしを再構築した野山家。

 父はかつて勤めていた会社の同僚の協力もあり、フリーランスとやらでプログラミングの仕事を、在宅でする事になった。


 夏には海水浴。お祭り、花火。


 お弁当を持って紅葉の下でピクニック。


 クリスマスケーキに、サンタからのプレゼント。


 年越し蕎麦に、紅白歌合戦。


 初詣。


 ひな祭りのちらし寿司。


 走馬灯のような一年を振り返る。


 そのどのシーンにもこずえ先生がいた。



 そして――



 桜が咲き誇る、うららかな春休み。


「華、話があるんだ」

 神妙な顔で背筋を伸ばす父は、華にそこへ座るよう促した。


 父の前に正座する華。


 その隣には、同じく神妙な顔で父に寄り添うこずえ先生。


 父はもじもじするばかりで、なかなかその後を切り出さないが。

 しびれが切れたので、こっちから言ってあげる。


「いいよ。先生がお母さんになっても」



 完

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ゴミ屋敷でサレ父と二人暮らし。人生を捨てた父の新たなスタートを応援したい 神楽耶 夏輝 @mashironatsume

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