第2話 中編

「余計な事しないでくれ。帰れ」

 父はこずえ先生のお金をつかみ取って投げつけた。


「お父さんやめて!」


 あの日の両親の夫婦喧嘩がフラッシュバックする。無抵抗で謝る母を、父は何度も殴った。


「お願い、お父さん、やめて」

つい涙声になってしまう。


「大丈夫よ、華さん」


 先生の声は上ずっている。


「こういう状態では、大切なお話ができません」

 先生は震えながらも果敢に父の前に立ちはだかる。


「なんだ? 大切な話って」


「華さんの学校での様子とか、家庭での生活環境についてです」


「見りゃあわかるだろ、この通りだよ」


 父は、怒りに震える手で、どこからともなくタバコのケースを取り一本咥えた。

 先生はすかさずそれをもぎ取る。


「子供の前でタバコだなんて、非常識すぎます。親としての愛情や責任をどう考えてらっしゃるんですか?」


「大きなお世話なんだよ、出てけ! 警察呼ぶぞ」


「どうぞ呼んでください。これは立派なネグレクトです。華さんには社会的養護が必要です」


「——っ」

 さすがの父も、その言葉には一歩後ずさった。


「生活環境の改善をする気がないなら、児童相談所に通報します」


 勢いで立ち上がっていた父は、先生に背を向けてあぐらをかいて座り込んだ。


「華まで取り上げる気かよ。俺はそんなにダメな男なのかよ」


 父の声は震えていた。


「甘えないでください! 誰にでも死にたくなるほど辛い事の一つや二つあります。けれどそれは大人だけでやってください。子供には関係ない」


「うるせーーー! 出て行け! お前みたいな小娘に何がわかる? 帰れ、二度と来るな」

 たまたま手元にあった吸い殻で埋め尽くされた灰皿を先生の足元に投げつけた。

 その勢いで吸い殻が辺りに散らばり灰が巻き上がる。

 ガシャンという音を皮切りに、父は手あたり次第物を掴んでは、先生に向かって投げつけ始めた。


 それが不思議と、こずえ先生にはちっとも当たらなかった。


「華さん、ごめんね。一旦帰る」


 その言葉に、なんだか急に心細くなる。

 手の付けられなくなった父と、この後同じ屋根の下で過ごさなければならないのか。

 そんな事を思った矢先だった。


「華さんは、今日は私が預かります。また明日来ます」


 先生は華の手をわしっと掴んで、逃げるように家を後にした。


 幸いと言うべきか、不幸というべきか、父が追いかけて来る事はなかった。


 先生と手を繋ぎ、河原の土手を歩く。

 目の前には、何もかもを覆いつくすほどの夕焼けがゆっくりと時間を刻んでいる。

 初夏のそよ風がそっと頬を撫でては、得体のしれない不安を運んだ。


「先生」


「なぁに?」


「ごめんなさい。いつもは優しいお父さんなの」


「うん。知ってる。小沢先生がね、華さんが3年生の時に書いた『家族について』の作文を見せてくれたの」


「あ、あれは……」


 小澤先生というのは3年の時の担任だ。

 作文には、とっくにいなくなった母と、毎日酒に溺れる父の事なんて書きたくなかった。


「あれ、全部嘘です」


「そうね。真面目に働く優しいお父さんと、料理が上手で頑張り屋さんのお母さん。あの時は既にそうじゃなかったとしても、そんな暮らしがあったんだろうなと先生は思ったよ。違う?」


 その通りだった。


「エリカちゃんちはどうしてお父さんとお母さん離婚しないんですか?」


「え?」


「エリカちゃんちのお父さんだって、うちのお母さんと浮気してた。うちだけ離婚して、エリカちゃんちはどうして変わらず幸せなんですか?」


 ある日、エリカちゃんのお母さんは、華の前に立ちはだかり、不細工に口角を歪めながらこう言った。


『可哀そうで不幸な子供。誰からも選ばれない可哀そうで不幸な女の子供』

意味はよく分からなかったが、とても胸が苦しくなった。


「う~ん、そうね。よくわからないけど、エリカさんちのお母さんは、お父さんを許してあげた。華さんちのお父さんはお母さんを許せなかった。ただそれだけの事だと思うよ。

 それに変わらず幸せっていうのは、違うかもしれない。少なくとも何かが変わったはずよ」


「お父さんはどうしてお母さんを許してあげられなかったんですか?」


「それは、お父さんにしかわからないわ」


「どうして私だけ不幸で可哀そうなんですか?」


 どうしようもなく、喉の奥からせりあがって来る憎しみと悲しみ。

 不公平への怒り。


「私は、私は……、本当はお母さんに出て行ってほしくなかった。泣きながらごめんなさいって謝るお母さんを許してあげたかった。どんなお母さんでも、お母さんに家にいて欲しい。

 本当はお母さんに逢いたいです。

 帰ってきて欲しいです。

 うっ……うううーーーーうう、うわぁぁぁぁあぁぁぁーーーーーーーーーー」


 華は母が出て行ってから、初めて本音を言った。

 そして大声で泣いた。


「おかああさぁぁぁぁーーーーーーーーーん」

 夕日に向かって張り上げた声が、母に届くはずなんてないなんて知ってる。


「うーーわぁぁぁーーーーーーーーーーーーーーー、おかあさぁぁぁぁぁぁああーーーーーーーーーーーーーん」


 ボロボロと頬を滝のように涙が伝う。

 こんなにも激しい感情が自分の中にあったなんて知らなかった。

 本当はお母さんと叫びたかったなんて思ってもみなかった。


 体中がふわりと温もりに包まれてぎゅーっと痛いぐらい締め付けられて、無添加シャンプーみたいな匂いがした。

 お母さんの匂いによく似ていたがそれは、こずえ先生の匂いだった。


 そして先生は華の耳元でこう言った。

「私もね、華さんのお父さんと同じ。だから気持ちよくわかるの」


 その日の夜、先生は以前結婚していた事。

 初めて好きになった人と結婚したこと。

 初めて裏切られた日の事を話してくれた。


 先生も、愛する人のたった一度の裏切りを、許すことができなかったのだと。



続く

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る