カレーのおかわりが終わらない
石田徹弥
カレーのおかわりが終わらない
運ばれてきたのは、銀色の小さい椀に盛られたチキンカレーと、大きな焼き立てのナン、そしてラッシーだった。
「ゴユクリ」
インド人かネパール人かはわからないが、笑顔が素敵な男性店員がカタコトの日本語で皿を置いた。
「ありがとう」
僕は笑顔を返し、軽く会釈する。小さく鼻から息を吸いこむと、濃厚なカレーの香りが鼻を通り過ぎた。日本のカレーも好きだが、このスパイスが複雑に絡み合った粉感の強いカレーでしか味わえない旨味がある。
「いただきます」
小さくカレーに挨拶し、僕はまずスプーンを使って一口カレーを口に運んだ。
口の中にスパイスの香りが広がり、すぐに辛味が舌を刺した。僕の好みは少し辛めの〝辛さ3〟。店によっては辛さの度合いの尺度が微妙に違うのだが、この店の辛さの設定は僕のイメージにちょうど合っていた。
次にナンを気持ち多めに引きちぎり、まず匂いを嗅いだ。焼き立てのナンから立ち上るイーストとバターが混ざった香りはすぐに涎を増量させる。冷めないうちにすぐにカレーに浸し口に運んだ。
「あぁ、うまい」
思わず口から漏れる。間違いない、間違いないものを僕は食べている。
久しぶりに昼間に外出して、カレーの匂いに誘われてふらりとこの店に入店して良かった。いつのまにこんなところにカレー屋が出来ていたのか知らなかったので少し不安ではあったが、疑った自分が愚かだった。ここは間違いないカレーを出してくれる店だ。
あっという間に僕はナンを食べ終わり気付く。しまった、カレーとの比率を間違えた。まだ銀色の椀の中には半分ほどカレーが残っているじゃないか。
けどしかたないじゃないか。だっておいしいのだもの。ナンがおいしいのだもの。
さてどうしたものかと悩み始めた時、見計らったように店員がやってきた。
「オカワリ?」
僕はすぐさま頷く。
すると二分ほどしてまた焼き立てのナンが出てきた。こういう店のランチはライスとナンが食べ放題であることが多い。ちょうどナンがきれたころに声をかけてくれるホスピタリティも合わせて、僕は嬉しくてしょうがなかった。
再びナンを引きちぎり、カレーに浸す。おかわり自由なら気にすることは無い、ちぎりたいだけちぎればいい。
「ラッシー?」
ハッと気が付くと先ほどの店員がまたいつの間にか目の前にいた。この店はラッシーもおかわり可能なのか。本当に素晴らしいじゃないか。
僕は今度は元気よく「お願いします」と笑顔で答えた。
おかわりナンをもってして僕はあっという間にカレーを食べ終えた。ラッシーを飲み干して大きく息を吐く。今日は最高のランチだ。
「オカワリ?」
え? と思うと、また先ほどの店員が僕の皿を指差していた。
「えっと、もういいです。満足したので」
感謝を含んだ笑顔で僕は答えた。
だが店員はじっと僕の顔を見つめたまま動かず、ゆっくりと口を開いた。
「オカワリ?」
圧を感じた僕は、しかたがなく「お願いします」と小さな声で答えた。いつもは腹八分で食事を終わらせているために、胃の容量としてはまだ入るには入るが、問題はそれだけではない。
カレーがもう底をついているのだ。
いや、待てよ。
「あの」
僕は店員を呼び止める。
「カレーって」
おかわりはできますか。しかし店員は無言で振り返って店の奥へ消えていった。そしてナンを一枚手に持って戻ってきた。それ以外は何も持っていない。
僕は三枚目のナンだけが乗った皿を見つめた。
断り切れなかった僕の責任だ。この店は贔屓にしたい、これくらい目を瞑るさ。
僕は黙々とナンだけを頬張り続け、最初に感じていた旨味への感動はもうほぼ無い状態で完食した。
腹は十二分に膨れた。さすがに食べすぎだ。
「オカワリ?」
はぁ? また先ほどの店員が皿を指差していて、僕は思わず反射で答えた。。
「いや、あの」
断ろうとするが、店員は日本語がわからないのかすぐに店の奥に戻ってまたナンを一枚持って戻ってきた。
焼き立てだ。つまりは僕のために焼かれたナンなのだ。食べるしかない。
と、頑張ったが三分の一も食べ終える前に限界に達した。胃がはち切れそうだ。
仕方がない、残して帰るしかない。食べ物を残すなんて、僕の信条ではありえないことだ。もっとしっかりと断る勇気を持とう。今日はその勉強ができたのだと考えることにした。
すると先ほどの店員がまたやってきて、僕の皿を覗いた。嫌な予感がする。
ナンはもういらない。
だが、店員が発した言葉は全く違うものだった。
「ダンス?」
斜め上のことを言われ、僕は固まった。
すると店の中に陽気な音楽が大音量で流れ始めた。
店の奥から民族衣装を着た三名の女性が腰を軽快に動かし、両手をくねくねと動かながら現れた。女性は中学生くらいの若い子と、その母親くらいの人、そしておばあちゃんと言って差しさわり無い白髪の女性だ。
もしかして家族か?
僕の疑問をよそに、女性三名は僕の席を取り囲むようにして踊る。上手いか下手なのかわからない、謎のダンスを。
女性の間を縫うように男性店員が現れた。
「ライト?」
大音量の音楽のせいでわずかにしか聞こえなかったが、確かにそう言った。
店内の窓にシャッターが下り、店が真っ暗になると、天井から小型のミラーボールが降りてきた。
人工的な星空がちりばめられたような店内には、謎のダンス音楽が大音量で流れ、無表情に近い女性三人が僕の席を囲むようにして踊り続けている。
その異様な世界に、僕は吐き気すら感じた。このままではカレーとナンが皿に戻ってしまう。
もう帰ろう。僕はそう思って立ち上がった。
店員がそれに気づいて、レジに向かった。伝票を持ってきてくれるのだ、良かった。だが、店員は伝票ではなく、謎の黒いリモコンのようなものを持って戻ってきた。
「ガネイシャ?」
急に流暢に単語を発したので僕は一瞬理解が出来なかったが、恐らくはそう言ったはずだ。その間に、男性は先ほどのリモコンにあるボタンを押した。
すると店の壁がゆっくりと開く。中から地下に降りる階段が現れた。
僕はついに恐怖を感じた。
「あの、お会計を!」
だが僕の声は大音量のダンス音楽にかき消される。背中を無表情な女性三人に押され、無理やり階段を降りさせられた。
階段を降りた先には、何本もの火のついた蝋燭に囲まれた、人間が半分混ざったような巨大なゾウがいた。ゾウが僕をじっと見ている。あまりにもの威圧感に、生きていると錯覚したが、ただの像であった。ゾウの像。くだらないことが頭をよぎると笑い声が聞こえた。
僕の笑い声だった。
部屋に煙が充満する。カレーのスパイスとはまた違った、日本に住んでいては知りことのない、脳が麻痺していくような香り。像の横で店員が見知らぬ草を燃やし、煙が生まれる。その煙の中で階段の上から聞こえる軽快なダンス音楽に合わせて無表情な女性たちが踊り続ける。
僕はついに大きな口を開けて笑い出した。ゾウが僕を見つめ、店員が煙をさらに上げ、無表情な女性が踊り狂う。そして蝋燭の炎が揺らめいたと思うと、瞬時に消えた。
気が付くと、レジの前に立っていた。
「オキャクサン?」
「え?」
先ほどの店員がレジの向こうから怪訝な顔でこちらを見ていた。
あたりを見渡すと、なんの変哲もないカレー屋だった。決してミラーボールが吊り下げられていたり、女性が踊っていたり、地下への階段があるなんてことはなかった。
先ほどまで出来事は? 幻? いや、夢か。
食べすぎたことで居眠りしていた、ということだろうか。
「ごめんなさい、いくらでしたっけ?」
僕は安堵して財布を取り出した。
「ゴマンハッセンエン」
「は?」
伝票を盗み見ると、ランチカレーの他に、ダンス、ライト、ガネイシャと丁寧なカタカナで書かれていた。
僕は二度と外食には行かないと誓った。
カレーのおかわりが終わらない 石田徹弥 @tetsuyaishida
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