第4話

 その後、学校は校外学習や参観日等のイベント期間を経て、慌ただしくゴールデンウィークに突入した。連休が明けて翠が再び出勤する頃には、もう汗ばむような陽気になっていた。

 

 子ども達の歓声で賑わう昼休み、翠は校庭の隅に転がったままのボールを拾いに行ったついでに、ふと思い立って塀の西側の体育館裏に寄ってみた。

 しかしそこに沈丁花の花はなかった。

 枯れたなどというのではなく、茂み自体が綺麗になくなっており、もとから花など咲いていなかったかのように、土も綺麗に均されている。


「お疲れ様です」


 声をかけられて振り向くと、まるで翠を待っていたかのように都築が立っていた。いつものグレーの作業着姿で、首にタオルをかけている。聞くと、体育館を改築することになったので、周囲の花や低木は植え替えたり取り除いたりしてしまったのだと言う。沈丁花は処分してしまったという都築の言葉に、そうなんですか、と翠は呟く。


「なんか、校長先生の思い出の花やったって聞いたんですけど。残念ですね」


 暗い校庭の片隅で佇んでいた校長を思い出す。あの時校長は、沈丁花の茂みがもうすぐなくなることを知っていたのだろうと翠は思った。

 都築は僅かに眉毛を上げたが、翠の声が聞こえなかったかのように言葉を継ぐ。


「今月誕生日なんで、月末で僕、定年なんです」


 お世話になりましたと都築は頭を下げる。

 40年以上もこの学校で勤めあげたのだと、翠は目の前の作業着の男を見つめた。その間何千人もの子ども達を見送ってきたのだと思うと感慨深い。子ども達だけでなく、去ってゆく教師も多かったことだろう。翠は校長が話していた、行方不明の教師に思いを馳せる。


 都築が学校を去れば、彼の妻が仕事終わりに校門で待つ姿を見かけることもなくなるだろう。そうなれば、そのうち5時ばあさんの噂も廃れていってしまうかもしれない。その後学校の七不思議に、新たに加わるのはどんな話だろうか。


 それでは、と仕事に戻ろうと都築が踵を返した時、不意に全ての音が消えた。こちらに向けた都築の背中に、細く白い華奢な女性の腕が絡みつくように回されている。左肩の向こう側から人の顔がこちらを覗き、空洞のような真っ暗な眼が緑の視線を捉えた。


 むせるような沈丁花の濃厚な香り。


 翠が声にならない叫びを上げたその瞬間、急に子ども達の歓声が戻ってきた。都築が振り返って、どうかしましたかと声をかけたが、翠は無言で首を横に振る。白昼夢にしてはやけにリアルだった。空虚な眼窩を思い出して背筋が冷える。


 翠が都築の肩越しに見たのは、確かに女の顔だった。眼窩が落ち窪んで老女のように見えたが、背中に回された腕は白く華奢だった。


 体育館前に立っている白っぽいおばあさん。校長の憧れだった行方不明の教師。花もないのに香りだけ漂う沈丁花。

 若い頃はモテたであろう、都築の端正な顔立ちを翠は思い浮かべた。もしかしたら、寄ってくる女性が邪魔になって、などという若気の至りもあったかもしれない。そして、あの沈丁花の茂みの下に何か見つかってはいけないものを埋めていて、学校を去る前に掘り返していったのだとしたら。

 

 都築の姿はもう見えなかった。夕方の5時までいつものように仕事をして、また迎えに来た妻を連れて家路に向かうのだろう。


 子ども達の元気な声が校庭に響く。来月からこの学校で沈丁花の香りがすることはもうないだろうと、翠は校庭の片隅でぼんやりと思った。



 

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放課後の5時ばあさん 古 都 @lisatanzanite

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