第3話

 職員室に戻ると、皆忙しそうに事務作業に追われていた。翠自身も明日の授業や校外学習の準備、保護者への個別対応などが山積しており、まだまだ帰れそうにない。


 職員室は鉤括弧型の校舎の東の端にあり、南側の窓から先ほど翠達がいた体育館がよく見える。

 少し離れた席の田中が話しかけてきたので、既に今日の残務処理で頭がいっぱいだった翠は、曖昧な笑みを浮かべながら適当に返事をする。翠を気にかけてくれているのかもしれないが、最近田中のせいで仕事が止まっていることが多いような気がしてならない。


 結局翠が業務を終えたのは午後7時頃だった。まだ数名残っている教員にお疲れ様ですと声をかけ、翠は職員室を後にする。


 春とはいえ、日が落ちるとまだ冷える。暗い校庭を横切って校門に向かう途中、翠は校庭の隅に誰かがいるのに気がついた。体育館と塀の間に、大柄な男性が佇んでいる。砂を踏む足音に気付いた人影が、ゆっくりとこちらを振り向いた。


「校長先生」


 校長の高橋が会釈をした。そのままこちらを向いているので、素通りするのも気が引けて、翠は校長のほうに歩み寄った。


 高橋は60代半ばで、新卒からこの小学校に赴任した叩き上げである。そろそろ定年と聞いているが、がっしりした体躯や動作が若々しく、年齢を感じさせない。リタイアするのは勿体無いと引き留める声もあったようだが、本人は今年限りで教師生活に終止符を打つと決めているようだった。


「遅うまでお疲れ様です」


 労う校長に、他の先生方も遅いですから、と翠も一礼する。こんな暗い時分に校長はここで何をしていたのだろうと訝しむ翠の思いを察したかのように、校長は呟いた。


「うち、来年度から大学の附属に変わるでしょ。改築工事とか色々入るから、今のうちに色々見納めしとかなあかんなと思てね」


 少子化のあおりで、どこの私立小学校も存続の道を模索している。この学校もそこそこ偏差値の高い中高一貫の附属ではあるが、年々人気が衰えつつあった。生き残りをかけた選択が、有名私大との提携である。受験戦争に巻き込まれずにのびのびと学校生活を送った上でそれなりの最終学歴を得られるため、一定数の入学者は確実に見込むことができる。経営改善のためには必要かつベストな選択肢だった。


 それにしても、と翠は思う。校内を回るなら、他にいくらでも見るべきところはあるだろう。校門の脇の桜の木ならまだしも、こんな校庭の片隅の茂みなど、こんな時間にわざわざ見に来るようなスポットではない。


 翠は先ほど校庭から見た職員室の人影を思い出した。校長が普段職員室に来ることはあまりないが、思い返せば背格好が似ているような気もする。自分はここで都築とほんの少し言葉を交わし、その時都築はやはりこの場所で、校長と同じように佇んでいた。


「この沈丁花、なんかの記念なんですか?」


 そう尋ねると、一瞬校長は翠を見て、それから低木にゆっくりと視線を移した。逡巡するかのような間を置いて、昔ね、とややしんみりした声で校長が呟く。


「僕がこの学校に来た年やったんですけどね。そやからもう40年以上前やなあ。僕の一年上で、この花がすごい好きっていう先生がいてはったんですよ」


 工事したら切られてしまうんかなと思ってね、と校長は名残惜しそうに沈丁花を見つめた。翠がその先生の所在を尋ねると、もうおらんのですよ、と校長は言った。


「僕が赴任してから1年も経ってなかった。ある日急にいなくならはったんですよ。行方不明いうやつです。学校中大騒ぎでねえ。ニュースにもなったし、みんな色々探したけど、結局それっきりでね。生きててくれたらと思ったけど、それも結局分からずじまいで」


 学校にはもう知ってる人もほとんどおらんし、忘れられてるんやと思たら切ないですけどね、と校長は寂しげに笑う。


 もしかしたら、と翠は思う。いなくなった先生は校長の憧れの人だったのだろうか。

 校長はずっと独り身という噂だった。単にチャンスがなかっただけなのかもしれないが、未だにその人のことを忘れていないことだけはよく分かった。


 翠が校門を出る時に振り返ると、校長はまだその場にいて、翠のほうを見て軽く会釈をした。大柄な校長の隣に一瞬誰かがいるように見えて瞬きをしたが、当然ながら誰もいない。翠も会釈を返して校門を出る。


 春の夜風に、沈丁花の甘い香りがした。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る