第2話

 用務員の都築は寡黙な男だった。

 年中グレーの作業着姿で、花壇の手入れや運動用具の整理をしたりと、こまめに立ち働いている様子である。先日の田中の話を思い出して観察したところ、60代という年齢の割になかなか整った顔立ちをしていることに翠は気付いた。若い頃はさぞモテただろうと思わせる風貌である。


 ある日放課後に翠が校庭に出たところ、都築が西側校舎の体育館の傍にいるのが目に入った。体育館と塀の間には非常階段が設置されている。春とはいえ日も暮れかけた肌寒いこんな時間に、都築は何をするでもなくひとり佇んでいるようだった。


「お疲れ様です」


 何となく声をかけると、都築は弾かれたように顔を上げた。翠の姿を認めると一拍おいて、やや掠れた声でお疲れ様です、と返す。甘い香りにふと目を遣ると、階段脇の僅かなスペースの茂みに、花が咲いているのが見えた。


「こんなとこに沈丁花咲いてたんですね。知りませんでした」


 薄いピンクの濃淡が、塀の陰でそこだけ明るい。都築は、そろそろ手入れしようと思いまして、とくぐもった声で言うと、僅かに会釈をして立ち去ろうとした。

「あの、と慌てて翠は声をかけた。


「ウチのクラスの生徒なんですけど、こないだこけたのを保健室連れて行ってくださったって。ありがとうございました」


 御礼が遅くなってすみませんと言うと、都築も翠に向き直って頭を下げた。浅黒い肌に筋の通った鼻梁、引っ込んだ眼窩が彫刻を思わせる。都築は何か言いかけたが、ふと校門を見遣り、僅かに手を挙げた。翠が校門を振り返ると、年配の女性がひとり佇んでいる。


「家内です。たまに迎えに来るんですよ」


 校門の傍に立つ女性がこちらに向かってお辞儀をしているのが目に入った。翠も慌てて一礼する。それでは、と立ち去りかけた都築がふと足を止め振り返った。


「大したことないんですけど、沈丁花には毒がありますから、触らんように気ぃつけてください」


 それだけ言って校門のほうに行きかけたが、また振り返る。


「あの子。大丈夫でしたか」

「大したことない擦り傷やったみたいです」


 ご迷惑をおかけしましたと翠が言うと、都築は一瞬口を開きかけたが、思い直したように軽く首を振って校門のほうに歩いていった。先ほどの女性と合流し、二人でこちらに向かって頭を下げ、左に曲がっていく。奥さんが迎えに来るなんて仲の良い夫婦だと、翠は二人を見送って少し羨ましく感じた。校舎の正面に取り付けてある大きな掛け時計を見上げると、針はちょうど午後5時を差している。


 5時ばあさん。


 正体見たり枯れ尾花、である。何のことはない、夫の仕事終わりを待つ用務員の妻を見かけて、生徒の誰かが七不思議に付け加えただけなのだろう。おばあさんと言うには少し若い気もするし、場所も校門だが、小学生の噂話から始まったのならそんなものだろうと思う。


 思いがけず時間を食ってしまったが、翠はこの後片づけなければならない事務処理が山のように残っていることを思い出した。戻ろうと明かりの灯る2階の職員室の窓をふと見上げると、誰かがこちらを見ているのに気がついた。姿を確かめる間もなく、人影はすいと窓際から離れる。


 沈丁花の香りがふと鼻を掠めた。

 

 

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