放課後の5時ばあさん

古川千尋

第1話

 黒いランドセルが思い思いに校門に向かっていく。朝から降り続いた雨がようやく止んだらしく、濃紺の制服の後ろ姿に畳んだ傘だけが、模様のように泥濘んだ校庭を彩っている。

 教室の窓から生徒の下校の様子を見守っていた翠は、残っている子ども達を振り返った。


「ほら、きみらも早よ帰りや」


 今日から担任を務めることになったクラスの2人は、何やら楽しそうに笑いながら、一向に帰る気配がない。あどけない子ども達がふざけ合っているのは微笑ましい光景だが、保護者が心配して電話をかけてきたりするので、翠としては放っておく訳にもいかない。


「だってこいつ全然帰ろうとせえへんねんもん」


 1人の男子生徒がもう1人を肘で突くと、突かれたほうはくすぐったそうに身を捩った。


「だってな先生、こいつが笑かしてくるから僕全然帰りの用意でけへんねん」

「何そんなおもしろいことあるん」


 じゃれ合う2人が可愛らしくて、翠はついかまってしまう。私立小学校というと一部の限られた裕福な家庭の子ども達が通うイメージだが、そこに通う子ども達の言動は、至って普通の小学2年生だ。


「先生こいつな、理科室の人体模型あるやろ、あれが夜中に机の上走り回るとか言うねんで。走り回るって何やねん」

「それ6年が言ってたんやで。俺ちゃうで」


 実験台から実験台へ曲芸師のように飛び移って走り回る人体模型を想像して、翠は破顔した。夜中に動き出すとだけ聞くと不気味だが、これが走り回るとなると滑稽以外の何者でもない。


「あかんわ何それ。面白すぎるやん」


 早く帰らせなければと思いながら、つい話に乗ってしまう。翠の反応に調子づいた2人は、上級生から聞いたという学校の七不思議を話し始めた。深夜に鳴り始める音楽室のピアノ、トイレの花子さんなどお馴染みのラインナップに、心躍らせながら同級生と騒いだ昔の自分を、翠は懐かしく思い返した。


設備の充実した私立小学校では、タブレットや電子黒板が早くも学校生活の一部として定着しつつある。そろそろ七不思議にもDXの波が押し寄せるのだろうか。目を細めて話を聞いていた翠は、子ども達が口にした耳慣れない怪異の名前を聞き漏らして、思わず話を遮った。


「え、何今の。何て?」

「5時ばあさんやで。先生知らんの」

「知らんよ何それ、先生そんなん初めて聞いたわ」


 翠は公立小学校で数年勤めた後、この私立小学校に転職してきた。自分の小学生時代も含めて色々な七不思議の話を聞いてきたが、そんな怪異の名前は聞いたことがない。


「あんな、5時なったらな、おばあさんが立ってるねん」


 そのまんまである。


「何それ、おばあさんがどこに立ってるん?誰かのおばあちゃんが迎えに来はっただけとちゃうの?」

「違うで、誰かのとかじゃないねんて。なんか白っぽいおばあさんが、体育館のほうにおって、こっち見てんねんて」

「ほんまに?先生体育館のほう毎日行ってるけど、そんな人見たことないで」


 2人の生徒は顔を見合わせて、他学年の誰が見たとかどんな見た目だったかなどの話を始めた。つい好奇心から聞いてしまったが、話が長くなりそうなので遮ろうと思った時、開け放したままだった教室の前の戸口に、ひょっこりと顔を覗かせた人の姿があった。


「おーい、まだ残ってたんかぁ」


 4年生の担任教師の田中だった。翠と年は同じだが、新卒でこの学校に勤めているため、翠よりも5年先輩にあたる。面倒見が良く快活な印象だが、怒ると怖い。

 子供たちは、やばっ田中や、と小声で言うと、そそくさとランドセルを背負って教室の後ろの戸に駆け寄った。くるりと踵を返し、先生さよならと言って廊下に姿を消す。


「はいさようなら。走んなよ」


 田中は廊下で見送ると、教室に入ってきた。


「早よ帰さんと、すぐ保護者から電話かかってきたりしますからね。なんか楽しそうに盛り上がってたけど、何の話してはったんですか?」


 翠はカーテンを引きながら、体育館の少し色褪せた外壁に目をやった。南向きの教室の窓からは、右斜めに体育館が見える。校舎は校庭を鍵括弧の形に囲んでおり、北側の横長の校舎には各学年の教室と職員室、西側の短いほうには図書室や保健室、体育館などがある。どちらも4階建てで、体育館は1階にあった。創立から50年以上経つ建物は要所要所で改築を行ってはいたが、経年による古めかしい印象は拭い去れない。


「七不思議の話をしてました。ここの学校、5時ばあさんなんているんですね」


 先ほどの2人が、小走りに校庭を横切って南の校門に向かっていくのが見えた。子ども達が道路に面した校門をくぐって見えなくなるのを見送って、翠は教室のカーテンを引き終え、自分の机に戻る。


「5時ばあさんですか?そういえば僕もなんか聞いたことありますよ。理科室におばあさん立ってるやつですよね」


 融合している。


「理科室は人体模型で、おばあさんは体育館て聞きましたけど」

「あ、そうですそれそれ。なんでも昔行方不明になった女の先生がいて、その霊が立ってる、みたいな話は聞きましたけどね。そんな物騒な事件聞いたことないし」


 昔行方不明になった年配の女性教師がいたとして、どんな理由で体育館前に佇む必要があるのかが全く分からないが、この学校の七不思議の一端を担う存在として確立されているのは間違いなさそうだ。


「5時ばあさんていうからには、その時間に出るってことですよね。朝か夜かどっちなんでしょうね」


 田中も大した情報は持っていないらしい。昔からいるのは校長くらいで、他は皆定年などで学校を去ってしまい、今いるベテランは皆転職してきた教師ばかりだと言う。


「都築さんやったら昔からいたはるから何か知ってるかもですけど。七不思議とかは分からんかな」


 都築は寡黙な初老の用務員で、いつもグレーの作業着を着ている。たまにすれ違う時に挨拶をする以外の接点はなく、翠は都築の顔を思い出そうとしたが、はっきりとは思い出せなかった。


「都築さんて陰気って感じやないんですけど、なんか話しかけにくいんですよね。まあでもああ見えて結構優しくて、こないだも先生のクラスの女子が放課後遊んでてこけて泣いた時とか、保健室に連れて行ってあげたりしてね」


 田中の話は長い。翠は曖昧な笑みを浮かべながら教材を抱え、体の向きで田中を職員室に促す。教室の電気を消して何気なく振り返ると、薄暗い教室でベージュのカーテンが少し揺れたように見えた。



 










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