第4話(終)


 波の音を聞いていた。波がぷつぷつと立つ音がする。遠い日に俺が亡くしたものに思いを馳せる。ヤタワタリを上る異形を止めるべく、俺はヤタワタリを上り始めた。

 前へと進む人影を大声で呼び止める。

 それは仮想現実の見せる幻ではない。しっかりとした現実だった。

 爺さんの顔は変形していき、龍の顔になった。赤い瞳に見つめられると息が苦しくなる。

「お前がミツカヒコになる資格はない。私がミツカヒコになりて、この世でミミギノイキタリを起こし、宇宙をやり直す!」

「もうよせよ、俺には分かっている。帰るんだ、元いた世界に。俺たちは夢のつくった存在だ」

「なに……?」

「時間は人類の見る共通の夢だ。虚構のひとつだ。同じ時間を人々が生きているなんてまやかしだ。時間と空間を異にする俺が、ハバキリノヤとヤタワタリにいることは常人の時間感覚では不可能なことだ。時間軸は俺の中では、ほんとうは二軸に分かれている。

 空間もそこで割れる。各々が並行宇宙に存在するようなものだ。

 その宇宙は、記憶するというエントロピーの増大則によって統合されている。統合されているのだから、その前の状態がどんなものかが分からない。人間の脳の不可逆的なシステムがそれを担っている。夢はそうした生の情報を脳に一時的に溜めおくシステムだ」

「夢ならば、醒めるはずだ」

「いいや、醒めない。眠り続ける。生物には眠りという生理機構が備わっているが、それは中枢神経系より原初の散在神経系の時代から存在する。眠りは覚醒よりまえの意識状態なのだ。動物や魚類、軟体動物に意識があるとするならば、それは人間の見る夢のようなものだろう」

「黙れ、黙れ、黙れ! 世界は、私の知る世界はひとつだ。夢ではない!」

 龍は次第に体の大きさを変化させた。その大きさが天を覆うほどになると、俺は体の底が熱くなるのを感じた。

 そうだ、知っている。

 気づけば、俺もまた蒼穹そうきゅうを覆う龍となっていた。

 光の龍と黒き龍が互いに絡み合う。そうして牙を立てる。肉片が飛び散り、黒き龍は赤い瞳から血の涙を流す。構わず俺は己の光をさらに輝かせる。闇を払うように、黒き龍は退く。

 光の龍はヤタワタリのうえへと昇っていく。そうして神気を纏う。黒き龍はそれを追う。黒き龍は口から火を放つ。数千度の火柱のなかで、超精神体である俺は形を損なわない。

「なぜだ、なぜ、お前なのだ……」

「俺は記憶から、過去から逃げなかった。お前は何度世界をやり直した?」

「それが違いだと……」

 黒き龍の言葉が波間に消えていく。俺は口から激しい炎を吐いた。黒き龍は体を三つに割かれる。赤い瞳から涙が零れる。その涙がヤタワタリの向こうに三つの島を作った。

 新しい神話が始まるのだ……。

 空間を異にする俺はハバキリノヤのなかで時間を、またひとつに統合しようとしている。それは自分の存在を無かったことにすることに等しい。

 自然界の記憶が自然に帰り、人間の及ばぬ宇宙へと変転する。

 それが前より退転するかは誰にも分からない。宇宙はミミギノイキタリを受け入れる。そうして宇宙が終わりを告げた。



 アマノヤシロが解体された夜、ヤタワタリのあった海でアガノミタマの星屑が浮かんで青い光を放つ。海は生命の原初の世界だ。生命の時間は急速に巻き戻り、時間は、生命のあいだで一度、ひとときの夢となって万物に同じ夢を見せた。ミミギノイキタリという夢が生命の記憶に刷り込まれると、またつぎのミミギノイキタリまで夢は生命の時間に取り込まれる。宇宙の語りは、俺という語りを、待っている。

 そうだ、海よ。海よ、記憶を眠らせて。〈了〉

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