第3話


 怪我をした。擦り傷のような軽いもので、だから爺さんが俺をおんぶして運ばなくてもよかった。妹とお社に忍び込んだ後、なにかを見て驚いて、俺はただ躓いて転んだだけだったのだから。

「いいか? 今度、坂を下りるときはゆっくり辺りを見回すんだ」

「わかったよ、俺の不注意だった」

「分かればいいんだ」

 何度も思い返した台詞が耳に伝わっていく。俺にとって大切な記憶そのものだ。懐中時計を首にかけて、きらきらした文字盤が辺りの風景を映している。俺の鼻がそこに映り込むと、爺さんは何気なく訊ねてきた。

「お社に入ったな?」

 俺は気まずそうに答える。

「うん……」

「あそこで何を見た?」

 何を見たんだっけ。そうだ、あれは……。

 ――柱だった。

「懐中時計を返してもらおう」

「わかったよ」

 それを爺さんに伝えた俺を、もうひとりの俺が見ている。視線が爺さんに交わると、爺さんはいるはずのない俺に視線を向けた。目と目が合う。

 はっきりと分かった。爺さんはこの時空の人間じゃない。死んですらいない。生きている。それがどんな姿なのかはわからないが、禍々しい姿で俺を見ている。ずっと親しい人間のフリをしていたその異形は、俺と言葉を交わす。

「ヤタワタリに何をしに来た?」

 それは、言った。

「アガノミタマを奪う、そして我が宇宙を作り直す」

「それがどんな意味なのかを知っているのか? 世界を壊すということだ」

「世界は何度も壊してきた。ゼロか一か、それが重要なことだ」

「爺さん、いやお前は何度、世界を……!」

「知らぬ事だ。私には何も。ミミギノイキタリを起こすことで宇宙はヤタワタリと共に私の怒りに晒される。宇宙は退転し、私にふさわしい世界となる。忌まわしい神代は歴史から姿を消す」

 俺にはもうこの過去は過去じゃない。現実にある。未来が量子コンピューターにあるというなら、この異形を、止める術はあるのか? 時間を巻き戻すシステムでこの異形を消し去れるのか? それはできない。どんな因果も、どんな世界も、この怪物の侵入を許したならば、それはどうにもならない。爺さんが、いやそう信じていたものが、世界を破滅させるものだったなんて――。

 俺は爺さんの懐中時計を奪おうとする。そのなかにはアガノミタマがあるはずだ。

「無駄だ」

 手にしていた懐中時計にはアガノミタマは入っていなかった。

「何で……」

 俺は小さな悲鳴を上げる。

「アガノミタマをどうした?」

 爺さんはにっと笑った。あの笑みがこんなに不気味に感じられたことはない。

「アガノミタマは霊的な物質だ。そも懐中時計になど仕込めるものではないよ」

 俺は喉が急に痛くなった。息苦しい。

「っ……」

おかんなぎよ、アガノミタマを腹のなかに孕め。お前を食らい私がミミギノイキタリの向こうへと意識を飛ばそう……」

「く……」

 腹が割けそうな痛みが走る。俺は記憶の隅で消えてゆくとでも言うのか?

 空間を異にする俺が量子コンピューターを用いて俺を記憶から引き上げる。俺の脳のなかの記憶が改変されたことを知ったらしい。俺はその改変を量子コンピューター内の妹の仮想人格に伝えた。

「あれは何だ、何なんだ?」

「量子コンピューターに巣くうデーモンかしら」

「未来へも、は介入できるのか」

「わからない。あの存在は私たちの知るずっと昔からヤタワタリを見てきたようね」

「ミツカヒコより前か?」

「いいえ、おそらくあれはミツカヒコと同時代の何か」

始祖ミツカヒコは、ひとりでヤタワタリへ来たわけではない……」

「何か、彼らについて記憶の中で見なかった?」

 そうだ、あの始原の風景に伸ばされた腕は誰のものだったか。

「記憶の海のなかで、ミツカヒコへの介入を止める存在がいた……」

「それは?」

「あの爺さんではなかった……ただそれ以上、アクセスできなかった」

「にぃに、だとしたらもう一度そこへ潜ってほしい」

「できない……」

「どうして?」

「怖い」

「怖い?」

「そうだ、俺にはあの爺さんが爺さんではなかった恐れが加わった。爺さんは俺の記憶の柱そのものだった。それが崩れた……俺にだって分かる。黄昏時のあの永遠が俺をここまで連れてきたんだ……」

「にぃに、もう一度。きっと戻れる」

 妹が俺を抱きしめた。その温もりは、その質感クオリアは、本物だ。ほんとうの人生の意味とか、永遠とか、魂とか、どこにあるのか分かった気がした。



 ボートでヤタワタリの始原の風景へと漕ぎ出す。ミツカヒコがヤタワタリに降り立ったその日に、神話ではない、その瞬間に俺は立っている。これは俺の遡れる最大の時間跳躍だ。思い出しているのは生命記憶の領域だ。数十億年の生命史のなかから、ミツカヒコがヤタワタリへ来たその日を再生している。

 暗い海が俺を飲み込もうとしている。

 風が俺を吹き飛ばそうとしている。

 ミツカヒコがアガノミタマを掘り出した。そうして神がこの地に降り立ったと神話では伝わっている。しかし――。

 夜はいまだに暗い。俺には、刻一刻と過ぎる時間がそれほど神聖な時間とは思えなかった。俺は立ち上がってミツカヒコへ向かっていく。ところが誰かに腕を掴まれた。

「爺さん?」

 敵意が漲る。俺は目をかっと開いて、爺さんを倒した。思ったより軽い爺さんの体は、簡単に倒れた。

 爺さんはあの笑みでにっと笑った。

「何を笑ってる?」

「大きくなったな」

 それは俺の良く知っている爺さんだった。あの禍々しい異形を宿した存在ではない。

 それでも俺の理性は彼を疑っている。

「アガノミタマを食うつもりだろう?」

「あれはお前のなかにあったのか……片割れは海に沈み、土地へ戻ったはずだが」

「片割れ?」

「そうだ、お前さんの妹の腹にアガノミタマの片割れはあった」

「俺にはもう何が何やら……」

 頭を抱えると爺さんは言った。

「ミツカヒコがヤタワタリへと上っていくぞ」

「ヤタワタリはこの島だろう?」

「違う。この島をヤタワタリと呼ぶのは間違いだ」

 え……と俺は首を傾げた。

 遠くのミツカヒコが白い柱状の何かへと上っていく。いつの間にあんなものが建っていたんだ? あれは、そう。俺がアガノミタマを手にした日に見えた柱そのものだった。

「柱は無限に続く階段世界。神さまが人に許した最後の塔だ。八咫渡りヤタワタリとは、あれを本来指すものだ」

「ヤタワタリのむこうへは何があるんだ?」

「神へ繋がる。お前さんが知っている私は、そこへと向かおうとしている……」

 にぃに、聞こえる? 声が直接、頭へと流れ込んでくる。

 にぃに、ミミギノイキタリは止まらない。けれど、ヤタワタリに外敵を侵入させてはならない――。

 声は妹ではなかった。

「この声は?」

「量子コンピューターに存在する自然の記憶そのものが具現化した神霊だ」

「爺さん、あんたは誰だ?」

「神代の昔のアガノミタマの所持者だ……」

「なら、教えてくれ……俺はどうしたら……」

「役目を果たせ、お前に託された使命を」

 俺はもう一度、量子コンピューターに戻って、いくつものエントロピーの式を書き出した。熱とエントロピーに関わる方程式が出揃った。その方程式が宇宙の曲率算出のために必要だからだ。それは俺の記憶が宇宙の形状を決めるに等しい。方程式を使ってミミギノイキタリを止めてみせる。

 記憶の連なりは、事象のあらましは、ミツカヒコがヤタワタリを上り、そうして神の島を作ったことから始まる。神の島、ヤタワタリはそれまでの別の神々を放逐してしまった。追放された神々は神の力を取り戻すために何度かアガノミタマを取り返そうとしたのだ。そうして何千年と時が経ち、愚かな俺たち兄妹がアガノミタマを解き放ってしまった。ミツカヒコを新たに求めた神は、柱を地上へ落とした。その柱へと新たなミツカヒコが上るのを待っていたが、その存在は訪れなかった。代わりにいま、追放された神がヤタワタリへと上ろうとしているのだ。

 その記憶がミミギノイキタリを静めるはずだ。

 ハバキリノヤの俺が量子コンピューターにその記憶を入力していく。そうして自然界の記憶が宇宙の曲率を決める。曲率は負の値を取っていたがやがて振動していき、それが新たな世界を創造する――。(つづく)

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