第2話


 目覚めると、畳の匂いがした。扇風機の音がしている。起き上がると俺の背丈は子どもの大きさだった。少し驚く。気温はまとわりつくような、嫌な夏の暑さではない。なつかしい子どもの頃の温度だ。ほっと一息つく。麦茶の入ったグラスに水滴が滲んでいる。誰もいない部屋でひとり、黙っていると外は不気味なほど静かだった。夏の盛りだというのに、蝉が鳴いていない。おかしいと思って縁側から外に出る。俺の家の上空に大きな石が浮かんでいる。島をすっぽり覆うほどの石だ。あまりの現実感の無さにたじろぐと、空気が振動している。なにかの爆発音だ。

 島の上空に浮かぶ石から聞こえてくる。部屋の奥から爺さんの声がした。

「起きたか?」

「爺さん、あれは何だ」

 俺の口調は大人のもので、その違和感を爺さんは気にせずに続けた。

「ヤタワタリの、ミミギノイキタリ。すべてを終わらせる最後の時間が始まる」

 終わる? 世界が? そのことを爺さんは知らないはずだ。爺さんは、この時空は何なんだ。これは現実か、夢か? 記憶のなかに、こんな現実があっただろうか。

「俺には……俺には……やらなくてはならないことがある」

「知っている。世界は終わるのだろう?」

「それを知って、ミミギノイキタリを止められないのは何故だ」

 爺さんは煙草に火を付けた。ふぅーと息を吐く。白い靄があたりに煙る。

「ミミギノイキタリは世界を滅ぼすために存在しているわけではないからだ……」

「なに?」

「世界は一度、滅ぶ。そうして新生する。お前が記憶を巡っているのは、記憶が宇宙の原初の姿を見いだすためだ。ただ本来のヤタワタリはそれを望んでいなかった」

「ヤタワタリに意思や思惑があるというのか?」

「そうだ、世界の理を人間はすべて掴んだと思っている」

 爺さんの瞳の奥が輝く。

「すべては一度、変転する。流転したものよ、何度もこの風景を見ているだろう?」

 それは、と言いかけて俺は目を閉じる。眩しい光が閉じた眼を襲う。閉じても閉じても光は止まらなかった。襲い来る光にただ対抗しようとして、気持ちを強く保つ。光は俺を暴く。俺を冒す。俺を未知の世界へと連れ出す。なつかしい手のひらが、妹の体温が、彼女の手が俺を連れ出す。この風景を俺は何度も見ている。

 未来の記憶は、世界を崩壊へと誘っている。それでも世界の均衡を取り戻さなければならない。俺にだってそれくらい分かる。エントロピーが分子の運動の乱雑さを示すなら、それを静かな海に帰してやらなければならない。そうだ、津波に襲われるまえの静かなヤタワタリに、過去へと引き戻す。それが俺の役目だ。



 どれだけ深く、記憶の奥底に潜っただろうか。未来の記憶をも内包した記憶の海へと俺は泳ぐ。そうしてヤタワタリの始原の光景に巡り会った。神話の時代のヤタワタリを俺は見ている。ミツカヒコがヤタワタリに棲みつく様を遠くから見ている。それは天から覗くミニチュアのようで、俺は手を差し伸べてやろうとするが、どこからか伸びた別の手に止められる。その手が誰の手なのかはわからない。

 胎児には記憶があるという。前世の記憶というオカルトではなく、胎児がその姿を人間ヒトに変えるまで数十億年のあいだのすべての記憶がDNAを通して、再現され、その胎児の心にはすべての生命の記憶が再生される。人は人になれば、その記憶は忘れる。わらべの時は語ることも童の如く、思うことも童の如く、論ずることも童の如くなりしが、人と成りしは童のことを捨てたり。

 人は人になる前には世界そのものに近い動物だったのだ。

 ただ忘れてしまっただけだ。

 数十億年に満たない時間が、宇宙そのものの未来を決定することはできない。ただ記憶を思い出すということは一種のタイムトラベルで、相対性理論は時間と空間はひとつにする。俺はふたたびハバキリノヤのなかの宇宙船に乗る自分と心を同期させた。時間と空間を異にするということは、この世界の時間は乱れているのかもしれない。一人一人がまったく違う時間感覚を持ち、時差を持つようなものだ。時間が傾いでいるのかもしれない。動物の時間が心拍数によって変わるように、人それぞれの時間が砕けて、共通の夢が無くなるのだ。

 記憶の海が作り出す宇宙で、俺はほんとうの宇宙の形を、見つけなければならない。遠くが歪む。そうして宇宙の曲率が急に負の値を取り始めた。宇宙が波立って形を変えていく。何かの予兆なのかもしれない。

「ミミギノイキタリが始まったのか……」

 それは影の如く、忍び寄ってきた。

 宇宙の終わりが目前に迫ってきている。それはどこか空間を異にする宇宙で、記憶の隅から時間を侵食する。じわじわと褐色へと変わっていく世界の切れ端の、その向こうの風景で幼い俺と妹がヤタワタリのお社でアガノミタマに触れる様を見ていた。アガノミタマには世界の秘密が隠されていると爺さんの昔話で聞いたことがある。ミツカヒコがヤタワタリで見つけたアガノミタマによってここは神の住む島となった。アガノミタマはお社に奉納されていて、それを暴くことは罪に問われる。

 俺と妹はたしかにアガノミタマに触れたのだ。世界はそこで混沌に囚われる。そうだ、どうして忘れていた? 俺たち兄妹はアガノミタマを通して、すべての記憶を、宇宙の語りそのものを知っていた。宇宙は調べとなって、俺たちにヤタワタリから去るように命じた。俺も妹も幼かった。その意味をはっきりと理解できなかった。そうしてヤタワタリは神から見放されたのだ。

 ハバキリノヤが揺れる。こうして俺が量子コンピューターを介して、世界に接触しているのは、宇宙の形を取り戻す使命以上に、アガノミタマを元の場所に戻すことに他ならない。アガノミタマはたしか懐中時計のなかにあったはずだ。あの日、爺さんは俺たちの悪行を知っていた。それを見逃した。なぜだ?

 俺はふたたび爺さんとの記憶に立ち戻る。

 黄昏時の、あの永遠の時間に俺は帰っていく。(つづく)

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