ヤタワタリの島
カクヨムSF研@非公式
第1話
1
「にぃに、見えたよ」
そう妹が言うと、鳥肌の立つような郷愁が迫ってきていた。ボートを漕ぎ続けて二時間、見上げれば天の川が見えた。視線のさきには、ヤタワタリの明かりが目に入り、気持ちを孤独から引き上げてくれる。
妹の褐色の肌を見つめる。夏をヤタワタリで過ごしてきたというので、肌が焼けている。俺は、何も持ってきてはいなかった。爺さんの残した懐中時計とこの体ひとつだ。妹は俺の手を引き、ヤタワタリの港にボートを泊めさせた。灯火のぼんやりした明かりとホタルイカの漁を終えた男たちの群れを横目にヤタワタリのお社を目指す。ふと、見上げれば、星が涙みたいに落ちてきそうな夜だった。
ヤタワタリの夜は、人を詩人にする。
爺さんの言葉だ。ほんとうにそうだ。妹は遠くから手を振っている。すぐに追いつくと、手を挙げた。そうして夜は星空に飲まれていく。
2
ヤタワタリのお社には、量子コンピューターがある。そこで俺と妹は約束を交わした。きっと戻れるって。きっとだいじょうぶだって。
「にぃに」
「ああ、ここはアマノヤシロ、仮想現実だ」
「にぃにの記憶が、私たちの宇宙の形を、決定する」
そう言って俺は量子コンピューターに手をかざした。あたたかな光が俺を包みこむ。
一体どれだけの時間が進んだのだろう。
俺の意識は遠い天の川のさきへと進む宇宙船、ハバキリノヤのなかにあった。俺は記憶を思い出している。どんな記憶の連なりでもいい。それが量子コンピューターの記憶を作る。人の脳の記憶は神経細胞の結束と消滅、そうしたエントロピーの増大の法則から逃れられない。いっぽう自然界に眠る記憶はどうだ。その記憶はネゲントロピーといった作用を用いて記憶される。自然界のそうした記憶の計算を取り出して使えるようにしたものが量子コンピューターだと言える。
記憶はまた形をゆらゆらと変える。夜光虫の光の波が浜辺に打ち上がる。俺だけに見える柱が高く天へと伸びている。いつの間にか辺りは明るくなっていた。
「もういいのかい?」
爺さんの声がした。爺さんの腰にはあの懐中時計がぶら下がっている。
「まだだよ、記憶は完全じゃない」
「そうか」
爺さんの視線のさきに塔が消えていた。爺さんのにっとした笑みが俺をふたたびハバキリノヤの意識へ戻した。遠くの星々の風景は変わらない。当たり前だ。宇宙の形を変えるなんてそうそう出来るわけがない。妹の言葉を思い出している。ヤタワタリの夜へと俺は戻っていく。
あれはずっと前のことだ。ヤタワタリのお社でいつの間にか眠りこけていた俺は、妹の声に揺り起こされた。
祭りの日だった。
アジアと日本の文化が混在する現実のヤタワタリでは、夏に祭りが催される。灯籠流しの点々とした明かりが夜の波間へと漂っていく。さきの津波ではたくさんの人々が流されて亡くなった。うちの爺さんもそうだ。
爺さんはよく笑う人だった。逞しい腕で俺をおんぶしてくれたことがあった。煙草の臭いにおいがした。それでも爺さんのことが好きだった。何度だって帰れるならば、あの時間に帰りたいと思った。それは叶わなかった。爺さんと歩いた黄昏時にいまも俺の心は囚われているのかもしれない。それでも前に進むためにヤタワタリの島から出たのだ。そうして、たくさんの外の世界を知った。それでも永遠の時間があるならば、あの瞬間以上のものは無かった。無時間を永遠と信じるほど、俺は達観していなかった。タイムトラベルが出来たとしても、どんなに輝く瞬間に出会えたとしても、心を揺らす風景はたったひとつだけなのだと知った。
海の匂いがした。
ヤタワタリから出て二年目の冬、島が大津波に飲まれたと知った。
3
「にぃに、もう知ってるんだよね」
仮想人格となった妹の声は、そっくりそのままで泣きそうになるくらいだった。
あの島は、ヤタワタリは無くなった。しかし、アジアの復興プロジェクトで仮想現実アマノヤシロが建設されることになった。そこで俺はコンセプト・デザイナーになった。
どれだけの費用がかかっても、その島を再現することの意味はあった。ヤタワタリは日本に残された最後の神の眠る島だった。
神とは、何なのか。それは
神は宇宙の形を決める。宇宙の形は曲率から算出される。もうすでにわかっていたことだが、深宇宙探査機カガミノミコトがプランク長がプランクスケールより僅かに短いことを素粒子観測から発見した。プランクスケールは森羅万象のあらゆる相互作用に影響する。ドミノ倒しのように宇宙のあらゆる変数が影響し合う。こうして宇宙の終わりの予測が立った。その終わりに対抗するためにヤタワタリを再興し、神事による宇宙の曲率算出をする。それがアマノヤシロ・プロジェクトだった。アマノヤシロの
――海へと潜る。深く、息の続く限り潜る。それは記憶の深さに影響する。
妹の産まれた日のこと。彼女が産まれなかったら、俺の人生はもっと淋しいものだっただろう。彼女が生きていなかったら、俺の人生は終わりだったんだ。記憶はいつも優しい。妹の笑顔を何度も記憶から呼び起こすたびに何度も泣きたくなる。俺は胸をかきむしって、心臓を潰したくなった。妹は津波で死んだんだ。
黄昏時に別れたあの微笑みを忘れたくない。仮想人格の妹はたしかに俺の知っている彼女そのものだけれど、妹じゃない。その事実は変わらない。彼女のほんとうの笑顔に会えるのは、夢のなかだけなんて悲しい。その笑顔を、もっと見せておくれ。
俺はつぎに目覚めたとき、ヤタワタリを外から見ていた。ヘリコプターから眺めるヤタワタリは自分が知っている大きさよりも小さくちっぽけだ。フォンが鳴って、電話に出る。
「にぃに、いまから面白いものが見られるよ」
妹はそう言って、イルカが泳ぐ海のうえのボートから俺に手を振っていた。そうして、津波が押し寄せる。俺は悲鳴を上げる。そうしてボートは転覆して妹を死なせた。
そんな記憶を何度も見せられた。それが記憶ではなく、過去の俺の恐れそのものだということに気がついた。俺の記憶は量子コンピューターによって冷静さを取り戻す。時間は巻き戻る。マクスウェルの悪魔が微笑み、俺たちを無垢な少年と少女へと戻す。何も知らない俺たち、きっとそれでいいのだ――。
「にぃに、だめ」
にぃには神さまの役目を果たすの、それがあなたのしなければならないこと……。これは記憶なのか。背の伸びた妹が俺の手の指をさする。
そうして、そっと包む。あんなに小さかったあの手が、こんなに大きいだなんて知らなかった。
「量子コンピューターにはね、未来もそこにある」
「記憶だけがそこにあるのではないのか?」
「ええ、それが人間の言う記憶と呼べるものかは分からないけれど、未来の時間が量子コンピューターには記憶できる」
「だったら、教えてくれ。俺には何が足りない? 俺に、俺の記憶に! 宇宙の曲率を、正しい宇宙を教えてくれ!」
「それはね……」
妹の面影は薄明の海へと消えた。(つづく)
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