終わりを結ぶ 〈ほ〉

 こんこん……失礼します、がらがら。

「二年二組の新井リコと――」

「一年の新井リタです。放送で呼ばれたのですが、用件は何でしょうか」

 抑揚のない棒読みで、いつもの口上をすらすらと。

「あぁ、お二人さん」

 応えたのはまさかの教頭先生だった。一体何用があるのだろうか。

「ちょっと大事な話があるので、人のいない教室に……うーんと、近くだと今なら給湯室とか開いてるから、じゃあそこで」

 有無を言わさぬ圧を感じながら、教頭先生はいそいそと給湯室へ歩いて行く。

 教頭先生ってこんな感じだったか?

 リタの方を見てみたが、首をかしげるだけだったので同じ感想を抱いているのが分かった。

 まぁ、ここで突っ立っているのもあれだからと、仕方なく教頭先生の後を追って歩く。

 その間、リタと話をすることも、教頭先生が口を開くこともなかった。

 がらがらら。

「では、そこに座っていただいて」

 あたしたちはその言葉に従い、机一枚を隔てた椅子に腰掛けた。

 そして、あたしたちの向かいに教頭先生が座る。

「えー、今回何故呼び出したのかというとですね、あなた達に渡さないといけない資料があったからでしてね……」

 そう言って教頭先生は、濃いグレーのジャケットからガサリと一枚の大きな茶封筒を取り出して机に置いた。

 いや、一体そのジャケットのどこにその封筒が入るっていうんだ。

 え、もしかしてそれテーラードジャケットに見せかけた、ハンティングジャケットなのか? 背の内側に馬鹿でかいポケットがあるっているのか?

 素朴な疑問から驚愕の真理が垣間見えそうになったところで、リタが教頭に質問をする。

「その先生……体調大丈夫でしょうか」

 おずおずと申し出たその言葉によって、あたしは今日初めて、まじまじと教頭先生の顔を見た。

 まるで厚化粧をしたみたいに真っ白な肌に、目元を覆うほどの大きなクマ、そして、その視線がずっと下を向いていた。

 その視線の先には、今ちょうど封筒から取り出した一枚の紙があり、一心不乱にその紙へと視線を落としていた。

「はっ――それ――」


「我が欲望への生贄として」


 教頭先生の口から吐き出されたのは、どう考えても呪文であり、紙に記されているものを見たら尚更納得がいく。

 おどろおどろしい朱色で書かれた魔法陣は、教頭先生の声に反応して発火し、煙が立つ。

 ビー! ビー! ビー!

 耳が痛くなるほどの警報音が給湯室のなかで騒々しく鳴り響く。

 こいつ馬鹿なのか? そんな騒ぎ立てるようなことして、結果損するのはお前自身なのにな。

 ガンッ!

「があっ」

 あたしは、目の前の机を教頭の顔面目掛けて蹴り上げた。

 モクモクと視界が悪くなっていく中、あたしは素早く駆け出して給湯室の扉に手をかけて出口を確保し……。

 ガタガタ、ガタガタガタガタ。

 はぁ……?


「ははっ、リコちゃんだったかな? 怖がらなくてもいいよ。ちょっと先生と楽しいことをするだけだから……さぁ、こっちにおいで」

 煙が収まってゆき、給湯室の全貌が見えるようになった時、そこには屈強な幽霊によって椅子に押さえつけられている妹と、その傍で不気味に微笑みながら妹の頭を撫でている教頭がいた。

 〝怒張している〟ことを何も思わない顔で突っ立っていた。

 口を押えられて身じろいでいる妹を見て震えていた。

「触んな! 死ね! 今すぐ離れてすぐ死ねよ!」

 さっき見た感じ、ドアのガラスからは外の廊下が見えなかったから、多分空間ごと独立させる結界なんだと推測する。

 自分の中で噴火の如く湧き上がる怒りは、抑えられるものではなかった。いや、抑えている事なんかできるもんか! 今すぐあのキモジジイの顔面が抉れて無くなるまで殴らないと! 死ね! 死ね! 今すぐ殺す!


「お姉ちゃん! ダメッ! 今能力使ったらダメッ!」


 一時的に口だけ解放された妹が多分叫んだ。

 多分。

 でも、もうあたしには聞こえてない。聞こえてても知らない。

 どうせあたしが今能力を使ったとしても、嵯峨野花の傍には骸井九いるんだから大丈夫だろ。

 ていうかもう、走り出したからどうでもいい。

 よし、殺す。今すぐ助けるからな。

 バタン!

「あぐぅ……」

 足首を誰かに掴まれて、前のめりにすっころんだ。

「お嬢ちゃん、慌てなくてもいいからねー」

 教頭の足があたしの顔の横を通る。革靴のカツカツとした足音が聞こえてくる。

「いつまで寝てんだよ!」

 横っ腹を鈍痛が貫く。

「っ……」

 こいつ、思い切り蹴りやがった……。

 痛みに耐えられなくて、グルンと体を半回転させた時、「あれ、そういえば足首掴まれてるはずなのに」と思ったら、仰向けになった途端に四肢を拘束する手が床から四本生えていて、大層律儀にがっちりと掴んでいた。

 下から見えるは、太った人間の脂ぎった顔面と二重になった下顎だった。

 薄ら笑いを浮かべてあたしの全身を下から上まで、ゆっくりと、じっとりと、ぐっちょりとした視線で見下ろしてくる。

「視姦も趣味なんだよ……あぁ、良い眺めだね! どこから脱がそうかな? 上からかなぁ、いやたまには下から脱がすのも興が乗るか」

 キモ。ぐうああぁぁ! クソ! 全然取れないんだけど、この手どうなってるんだマジで。

 教頭の伸ばした手はあたしの制服の裾を掴んで、たくし上げて、ブラが見えないぐらいで止めた。

 真っ白で、女の子らしいふくらみのあるお腹が空気に触れる。

「いい身体してるなぁー! 先生女の子の下腹部がぽっこりしてるのが一番好きなんだよね……ねえ舐めていい?」

 良いわけないだろうが! 死ね! もう思念で殺すしかない! 呪い殺す方法は……クソ、神下に教えてもらうべきだった!

 ちょっとよそ見をした瞬間、目の前には黒い邪悪が広がっていた。

 分かりやすく言うと、下、脱いでました。

「あぁ、この瞬間が一番好きぃ……ありがとう白井有栖様ぁ……」

 太ももからお腹にかけて剛毛が覆うように生えていて最悪。

 キモい黒棒が鼓動を刻むようにドクドク、ブラブラしているのも最悪。

 そんなものを見せられたあたしの気分はもっと最悪だった。

 いや、最悪な気分になっている自分を自覚している暇なんかないだろ! がちで最悪な未来が訪れようとしてるんだ、何とかして解決策を見つけないと。

 打開する方法を……。



 ――なんてそんなものはありませんでした。あたしは敗けました。



 ……なんてオチになってたまるか!

 うわ、待って近づいてきた……え、こいつまじで下脱がせようとして来てる! キモすぎだろ!

「……もうせんせい我慢できないな、見て、もうだらだらだよー」

 抵抗も虚しく、スカートを掴まれて膝のあたりまで降ろされた。

「へぇ、薄黄緑色のパステルカラーパンツ! 結構履いてるのか所々毛羽立ってるのがいいね! 美味しそうだよぉ」

 ……え、あれ。

 何度もまばたきをする新井リコ。

 何故か。

 それは新井リコの視界に突然一本の黒い線が、横に伸びていたからだった。

 その線は黒く、電気を帯びているかのようにビリビリと蠢いている。

 とうとうストレス性の何かが目に来たのかと思ったが、どうやらこの横線は目の前にいるクソ野郎にも、椅子に押さえつけられているリコにも見えているようだった。

 だから、誰一人として動こうとせずにただ状況を飲み込もうと必死だった。


 ……失格だ。


 え、今喋ったの誰? 失格?

 脳内に響くような聞こえ方をしたその声は、「怒り」と「失望」と「心配」を足して三で割ったような声色だった。

 というか、その声をあたしはどこかで聞いたことがある気がした。

 昔聞いた声を思い出すのはあまりにも難しいけど、でも〝聞き覚えという感覚〟は記憶とは違う、〝実感〟を伴ってあたしの心に訴えかけてくる。


「……お前は『先生失格だ』と言ったんだ。その口から〝せんせい〟と発せられると考えるだけで虫唾が走る」


 今度ははっきり聞こえたが――神下冬太郎は死んだはず。

 そんな疑問に思い当たる答えなどなにもないけれど、今はただ自分の緩む頬が隠せない本音なんだと思う。

 手足の拘束が緩む感覚がして見ると、床から生えていた手は力尽きたようにぐったりと折れていた。

 久しぶりの自由を噛みしめながら、頭と手で床を押して跳ね起きる。

 そしてすぐ、あたしは慌ててリタの方に駆け寄ると、リタは一人で椅子にもたれて目を瞑っていた。

「リタ!」

「……お姉ちゃん、大丈夫。ちょっと疲れちゃっただけだから」

 目を瞑りながらか細い声で応えるリタを見て、一瞬だけ安心したがそんなのは気休めにもならなかった。

 何でリタの能力は他人を治せても自分は治せないんだ! と、どこにもぶつけることのできない怒りを覚えた。

「二人共聞いてくれ。俺は今からこの結界を破壊する。そしたら、多分給湯室から離れた場所に出るから、そしたら他には目もくれずに走って逃げてくれ!」

「ちょっと待って、まだリタの体力が回復してないから走れない!」

 目の端にもぞもぞと動く影。

「うぅ、いったい何が……」

 しばらくの間横になっていた教頭が目を覚まして起き上がり始めた。

「まっずい、これ間に合わないかも」

 教頭は私たちの姿を確認したかと思ったら、ポケットから、ジャケットから、パンツの中から、いたるところから大量の紙をばらまいて、「我が欲望への生贄として」と再び呟いた。

 その瞬間、空間内に神下の声が響く。

「すまない! 二人を守りながらだと、今の俺をもってしてもこの量は対処しきれない! ごめんだけどもう反転するよ!」

 その声を合図にして、再び黒い稲妻のような黒線が空間を切り裂いた。

 そして、その線は給湯室を二つに分断し、線対称を基軸にして空間を反転させた。

 その影響で一瞬にして視界がグルンと縦に回り、世界が逆さまになったと思ったら、まばゆい光が視界を覆いつくしてしまった。


「……」

 瞑っていた目を開くと、未だ反転した廊下の窓ガラスが見えて光が下から上へと降り注いで……って。

 ひっくり返って壁にもたれていた体を起こす。

 冷やされたリノリウムの床にほっぺたを押しつけていたからか、ジンジンと血流が走るのを感じながら自分の頬をさする。

 そこにはいつも通りの廊下があり、窓から見える陽だまりに満ちた中庭があり、隣には目を瞑りすやすやと眠っているリタもいる。

 しかし、周りを見渡せば、ここには先ほどまであったはずの給湯室はなく、正面玄関から見た時に給湯室とは真反対の位置にある用具室があった。

 神下が座標を変えてくれたのか。

というか、そんなことまでできるなんて、どう考えても人知を超えている。

 ……いや、今はそんなことを考えるよりも!

「リタ! 起きて! 行くぞ!」

「……ん、お姉ちゃん」

 リタは急いで立ち上がろうと床に手をついたが、足に力を入れた途端、がくりとよろけたので慌てて支える。

「ごめん……まだ立てないかも」

 まだ待てるか? 校内の様子が分からない以上……。


 ギィーーーーン――ゴォーーーン――ガァーーーン――ゴォーーーン。


 いつもよりノイズが混じっていて、歪んだチャイムが頭に泥を塗るように鳴り響いた。

 生理的に拒絶したくなるこの音は多分、支配的なニュアンスを含んでいる――今、リタがそう教えてくれた。


『……命令です。只今校内に新井リコ、新井リタという生徒がおります。見つけ次第捕まえなさい。捕まえたものには報酬として、百万円と卒業までの単位を全て保証する。至急捜索せよ。繰り返します……』


「あぁ! クソジジイィ――リタ! しっかり捕まってろ!」

 妹を背中におぶうなんていつぶりだろうな……あの時はあたしの方が背……高かったのにな……。

 空しさを脚力に変えろ。

「行くぞ!」

「お姉ちゃん……ありがとう」

 その小さく吐いた言葉はあたしのガソリンになる。

「これまでどんだけ走りまくったと思ってんだ! クソジジイ! あいつは絶対にぶっ殺す!」

 あたしは心に薪をくべて走り出す。

 感傷など捨てろ、今目指すべきは完勝だ!

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