愛とも色とも

ぱのすけ

愛とも色とも

 昼下がりの喫茶店は程良い混み具合だった。

 心地よくざわつく雰囲気の中で向かい合った浩介の左手薬指で、指輪がちかりと光る。


「おー、何か久し振りだな」

「そうだね。5年振り……かな」

「もうそんなになる?」

「なるなる」

「へぇー。もうそんなんか」

 運ばれてきたお冷を一口飲み下して、浩介は明け透けに笑って付け加える。

「でも杏子は5年経っても綺麗だね」


 他意はない。分かっていても余りにストレートな物言いにコーヒーカップを持つ手が止まった。

「もぅ、やめてよ。お世辞丸見え」と目を伏せてコーヒーを飲む。

「そんなことないって。びっくりしたよ、俺」

「ふふ、ありがと」


 微笑むと、向かいの彼も目を細めて笑う。いかにも優しく円やかになる目元は昔の通りだ。5年前のあの日。雨の降る停留所でも彼は同じ風に笑った。


「俺さぁ、結婚するよ」

「え」

 吐き出した息が白く宙を舞う。紺地の大きな傘をさした浩介は寒そうに肩をすぼめていた。突然の告白に目も口も開いたままの杏子に、彼はぷ、と吹き出す。

「杏子、すごい顔。そんなにびっくりした?」

「だって……付き合ってた?」

「んー。いやぁ、一度だけだからって親にごねられて見合いしたらさ、何かトントン拍子に外堀を埋められた感じ?」

「なにそれ。流されまくり」

「だってぇ」

 子供みたいに唇を突き出して浩介はむくれる。

「杏子はちっとも俺に靡いてくれないし。転職するとか言い出すし」

「は……」

 再びの、なにそれが喉元で張り付く。


「俺、好きだったのになぁ。入社式で隣り合った時からずっと」

「そんなこと一言も」

「言えるぅ? 同期一番の出世株にさぁ。どんどん、どんどんキャリア積んで駆け上がって行くお前に。言える訳ないじゃん」

「だって」

「あ、バス来た。ほら、これ。忘れてくなよ?」

 退職祝いにもらった大きな花束を浩介が差し出す。

 整理のつかない中途半端な顔と気持ちでそれを受け取った杏子に浩介の影が被った。細く円やかな瞳が杏子から遠ざかる。

「元気でな」

 

 さっさとバスに乗り込み、身勝手に手を振って浩介は杏子の人生から降りて行った。

 

 それなのに。どうして今更、偶然出会ったのか。そしてどうして誘われるままに喫茶店に入ってしまったのか。


「で? 今日はどうして一人で映画館なんかにいたわけ?」

「えー。家にいると何か気詰りでさ。子供もいないし、することないし」

「奥さんと一緒に行けばいいのに」

「奥さんねぇ」

 浩介はちらりと左手に視線を落とす。つられて杏子も彼の武骨な左手を見やった。

「……杏子はないね」

「え」

「薬指」


 控えめに伸びて来た浩介の人差し指がトン、と杏子の何もない薬指をつつく。


「結婚してないの?」

 こくり、と頷く。浩介は笑うかと思った。何だよー、といつもの無邪気さで。

 でも彼は笑わなかった。代わりに真剣な面差しで頬杖をつき、ぽつりと漏らす。


「俺、諦めなきゃ良かったな」

「……なにそれ」

 5年越しの言葉がするりと喉から零れた。

 勝手な男。

 勝手に諦めて、勝手に去って、勝手に。杏子の気持ちを一度も聞かないままに。


「あんたは本当に馬鹿ね。本当」

 カップを両手で抱え込む。あの日の染み込む寒さが甦る。

「何も聞かずに、1人決めして。本当に馬鹿」

 カツン、とソーサーにカップを置く。唇を噛み締めて窓の外を見やる杏子の頬を一筋、涙が流れた。

「あたしだって好きだった」

 手の甲で流れる涙を拭って、すん、とわざと鼻をすする。

「……なんてね」


 両手で頬を挟んで、再び澄ました顔でコーヒーを飲む。

「5年も前のことよ。若かったわ」

「杏子」

「今日は会えて楽しかった。元気そうで良かったわ」

 浩介が、ガタンと立ち上がろうとする。杏子は叩きつけるように1000円札を置いて、振り返らずに店を出た。


 外に出てコートを羽織る。

 様々な思いが滾る胸の内に冷たい空気が心地よい。ふ、と息を吐き出して歩き出そうとした杏子の右腕を後ろから来た浩介の手がグッと掴んだ。


「ちょっと!」


 ぐんぐんと歩き出した浩介は何も言わない。

 杏子の腕を掴む浩介の左手に指輪はない。ただ5年間分の指輪の跡が白々しく残っている。


「ごめん、俺もどうしたらいいか分からない」

「は?」

 浩介が振り向く。笑っていない。怖い程のしかめ面だ。

「手が届かないって勝手にしょげてた、拗ねてた。俺が悪い。手を伸ばす努力さえしてなかった」

 

 浩介の両手が必死に杏子の両腕を掴んだ。コートに食い込んでくるその強さに、杏子の中の凝っていた気持ちがぐらりと動く。


 死ねばいいくらいに勝手な男だ。今、この場においてさえも。

 なのに、どうして。


 杏子の手が浩介の左腕を掴み返す。

 手を伸ばす努力をしなかったのは杏子も同じ。浩介の好意に胡坐をかいて、いつかは結ばれるだろうと、高を括っていた。


「ごめん、あたしも悪い」


 微笑んで浩介を見上げる。

 

 今日一日だけでも、この左腕には死んでもらう。

 5年間の軛を放して。今、この時だけは。この男はあたしの物だ。


 浩介の左腕を掴んだ手に一層の力を込めて、杏子は踏み出した。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

愛とも色とも ぱのすけ @panosuke

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ