十七歳という価値のある肉塊
石田徹弥
十七歳という価値のある肉塊
「〝ビッグ・シスターはいつでもあなたちを見ています〟」
担任である中年女性は、電信柱のように真っすぐに伸びた背骨を震わせ、クラス全体に響き渡る声を発した。
私を含めた東アジア連合国日本エリア東京第三十一女子高等学校二年B組の全生徒が、乱れの無い動作で立ち上がる。
その均整の取れた動きによって、少女たちの起立から生まれた音はたった一音の点に重なった。このクラスだけではない、全校生徒が一同に、ズレなく音を合わせたのだ。
それはまるで、調律を終えたばかりのピアノの鍵盤を、明日に結婚式を控えた自身が今世界で一番幸せであると疑うことのない若者が、トンっと人差し指で叩いたような、乱れが一切なく、パーフェクトな〝一音〟だった。
その疑いのない、絶対的予定調和に整えられた〝一音〟を聞いて、担任はオーガズムに達した表情を浮かべると同時に、大きく頷いた。
「また明日っ」
担任の号令とコンマ一秒もズレの無いタイミングで、下校のチャイムが鳴った。
私たちはまた一斉に通学鞄を背負うと、クラスから出て行った。それは先ほどとは違って乱雑で、地面に落ちた桜の花びらのように穢れた美しさがあった。
私たちのような十七歳という希少な〈価値のある肉塊〉には、それが最も相応しい。
だがそれを声に出したり、誰かに伝えることはできない。
だから私は誰にも知られないように笑みを浮かべた。
「トワ、帰ろう」
ビクッとして振り返ると、クラスメイトであり親友のミィが私の肩に優しく触れていた。
陶磁器にさらに蝋をゆっくり流しかけたような彼女の白い手の甲が目に入る。
「どうしたの?」
ミィは優しく私に微笑んだ。だから私も微笑み返した。
この微笑の意味がシンクロし、同調し、重なって混ざり合えば、きっと私たちは一つの彫刻になれるというように。
「なんでもないよ。さっ、帰ろ」
私たちはいつものように、いつもの順路で家路をゆく。
二人並んで歩く私たちはその途中、装置(オールアイと呼ばれる世界中に張り巡らされた監視装置)の穴を縫って、マンションとビルの狭間の空間に入り込んだ。
これはミィが何年もかけて見つけた死角で、オールアイが設置されたころには存在しなかった木の枝が。年月を経て伸び、視界を防ぐことになった場所。きっと近いうちに、この自然が生み出したエラーは修正されるはず。
僅かな時間だけ生を受けたエリア。
人一人が体を捻ってようやく通れる狭い間道。日の光もほとんど影響しないこの狭間を、服に汚れが付かないよう、壁に触れないように慎重に進んでいく。
二十歩ほど進んだ先、古びた扉が現れた。
そこは建築物に何らかの理由で発生した〝用途の無い一部〟。それはトマソンと呼ばれるそうで、この扉もそれに該当した。もともとはマンションの通用口だったようだが、隣に迫るようにビルが建ったせいで無用の扉となっていたのだ。
扉を開け中に入る。そこは天井付近に小さな換気窓があるだけの六畳ほどの倉庫で、数個の段ボールが置かれているだけで伽藍洞といっていい。建物内部へ通じるもう一つの扉には鍵がかかっているため、この部屋自体もまた、打ち捨てられた場所であった。
「この部屋は私たちと同じ。統一を全とし強要するこの腐った世界から切り離された、自由という名の
この部屋の存在を初めて私に教えたミィが、嬉しそうに言った言葉だ。
ミィはクラスの中から私という、〈ビッグ・シスター〉を見ていない、見ようとしない者を見つけ出してくれた。
手を差し伸ばし、引き上げてくれた。
「本来、十七歳という〈価値のある肉塊〉が許されるべき自由を、私は取り戻したい。私たちに許された十七歳は、あと数か月しかないのだから」
ミィが取り出したのは、ラベルの無い青緑色の小さな筒状のもので、キャップを開けて捻るとそれがリップクリームであることがわかった。
指定品外の品だ。
初めて見るそれを、私は目を丸くして見つめた。
「どうやって手に入れたの?」
私は震える声で訊いた。
だが私の質問に、ミィは薄っすらと笑みを浮かべただけで答えず、リップクリームで唇を潤した。そして私の頬に手で優しく触れると、そのままミィは私に口づけをした。
彼女の口からは瑞々しさを感じさせる、不思議な甘さを感じた。
こうして私はミィに無理やりに、そして立派に犯罪者にされた。書き換えられ、後戻りができない状態に。
驚きと不安や、それ以外の綯交(ないま)ぜの全てが私の心を包んだ。それまで凪いだ湖面のようであり、透明であっても記憶に残らない量産された人工的だった私の湖は、たった一度の接触でカラフルに染まった。
無限色のそれらは声を持ち、私の叫びのような悲鳴が渦になると、不思議なことに私は生まれて初めての〝幸福〟という代物を胸に抱いていた。
それは恐怖でも嫌悪でもない。ミィの言う通り統率によって象られた肉塊に〝価値〟が生まれ、産声を上げたことへの歓喜だった。
それから私たちは週に一度この部屋に来ては行為に及んだ。
本当は毎日でも集まりたいが、連日となれば当然自由警察への発覚の恐れがある。
だが私はそれ以上に、彼女を近いながらも遠く感じてしまう日々が積み重なることで、この行為の〝価値〟が益々増していくものだと考えていた。
そんな日々が続いた今日、ミィは真面目な表情で私を見た。
「明日誕生日なの」
当然知っている。私だけじゃない、クラスメイトだってそうだ。誰かの誕生日は、クラス全体で一堂に祝いの言葉を述べる必要があるからだ。
「十七歳が終わる」
なぜ十七歳だけが〈価値のある肉塊〉なのかは知らなかったが、ミィが何よりもそのことを大事にしているという事実だけで、私には十分だった。
ミィは初めて悲しそうに視線を落とし、それでも精一杯の笑みを浮かべた。
「だから、トワにお願いがある」
ミィが顔を近づける。彼女の鼻先が、私に触れるほど近くなった。
私は彼女の瞳を見つめた。どこまでも深く、暗く、温く、そして、
何より悲しそうな。
そもそも初めから、私にはミィの頼み事を断る理由は無かった。
私たちは、ミィがどこかから手に入れてきた金髪のウィッグを装着すると、同じく出自不明のガスマスクをかぶって顔を隠した。
さらに別の学校の指定水着に着替えると、手にした発煙筒に着火する。
小さくて細い。けど、あのときのリップクリームよりも何倍も大きい。
肥大化した私達の罪が煙となって溢れだした。
私たちは無言で駆けた。
いや、叫んでいた。言葉ではなく、動物のように、獣のように、口を開け、喉から臓物を撒き散らすようにして、私達は叫んだ。
この叫びは怒りであり、復讐であり、歓喜であり、慈悲でもあった。
私たちの姿を見て悲鳴を上げる人もいれば、怒声を浴びせる者もいる。様子に気付いた自由警察が私達を捕まえるべく、何人も飛び出してきては
私達は駆けて、駆けて、逃げて、逃げた。
どこまでも、どこまでも、どこまでも。
これは終わりなき道だと、十七歳は永遠だと信じられるスピードで。
ミィの誕生日を祝うように、発煙筒から生み出されたピンク色の煙は尾を引き、街を染め上げていった。
ほんの小さな、けど私達の世界では最も偉大で、最も重大な反逆だった。
こうして私達は、この日のために入念に下調べをしていたミィが先頭を走り、完ぺきなルートで逃げ切って、またこの漂流した孤独で自由な部屋に戻ってきた。
汗と煙の汚れでぐちゃぐちゃになった私達はすぐに裸になって、笑いあって抱き合った。
こうしてミィの十七歳という〈価値のある肉塊〉はその時を終えた。
翌日、ミィは自由警察に連行されて107号室に入れられたと知った。
どうやってなのか、誰によってなのかはわからないが、彼女の犯罪は発覚した。
それは火曜の一斉行進の最中であった。進める歩の音が単音となり、もはや記号となった私達。その頭上から〈ビッグ・シスター〉の声が降り注いだ。
『東アジア連合国の快進撃は続き、アメリカ・カナダ連邦の敗戦は間もなくのことであろう。
戦争は平和であり
闘争は反逆である
我々は隷従という名の自由を〈ビッグ・シスター〉から享受される。知は持ってはいけない。知こそが自由を奪う。無知こそが力なのである』
全人類が知りながらも誰もその存在を目にしたことが無い〈ビッグ・シスター〉の、愛情のある言葉が終わると、機械のような女性が前日に捕らえた不自由者を発表した。
次々に何人も呼び上げられる不自由者の名前の中、はっきりと御浜ミィの名前が聞こえた。
彼女の名前が呼び上げられた瞬間に私は不思議な甘さ、あの時の、彼女の口づけの甘さを感じた。だから、間違えることはなかった。
107号室は誰もがその存在を知っている。
だが、だれもその中で何が行われているかはわからない。なぜならあの部屋から帰ってきた者は誰一人としていないのだから。拷問され、仲間の名前を吐かせているのは間違いないだろう。そうすれば楽になる。解放ではなく、死によって。
ミィは気丈だが、女の子だ。十八歳になったばかりの女の子なのだ。すぐに痛みに耐えられずに私の名前を出してしまうのを、誰も責めることなんてできない。
そうすれば次は私はすぐさまに107号室に送られる。
私の父も母も、心の中では悲しんでくれるだろうが、決してそれを表に出すことはない。
オールアイが全てを見ているのだから。
私は眼球だけを動かしてクラスメイト、ひいては全校生徒を視界にいれた。
記号。記号だ。
私たちは今、ひとつの記号と化している。
私は来月誕生日を迎える。
だが拷問に耐えられなかったミィによって私は数日以内に107号室に送られるのは間違いない。
ミィが今まで存在した、存在するべきだった場所には、すでに他のクラスメイトがあてがわれている。
誰もミィのことは口にしない。彼女の存在は、戸籍ごと今日を持って消える。
それがこの世界だ。
〝ビッグ・シスターはいつでもあなたちを見ています〟
それは誰の声でも無く、誰の声でもあった。
誰しもが〈ビッグ・シスター〉なのだから。
戦争は平和であり
闘争は反逆である
私は立ち止まった。
ほんの一瞬、周りのクラスメイトがその彫刻のような顔に驚きの色を表したが、水に触れた絵の具のように、すぐに溶けていった。
すでに私が抜けた穴は誰かにより埋まり、行進は続いている。
記号たちの流れは一人立ち止まったままの私を透明な石のように扱い、避けていく。
耳に聞こえる単音はいつまでも続いた。
私は、ゆっくりと空を見上げた。
目に入る真っ青な空に、昨日のピンク色の煙がわずかに残っているのが見えた。
私は、目を閉じてその光景をいつまでも忘れないようにした。
十七歳という価値のある肉塊 石田徹弥 @tetsuyaishida
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