【ショートストーリー】絶望の深淵からの呻き、そしてやがて叶えられし祈り

藍埜佑(あいのたすく)

【ショートストーリー】絶望の深淵からの呻き、そしてやがて叶えられし祈り

 沈黙が村を噛み締める。

 暗い空の下、項垂れた女性が石段を登ってゆく。

 女性の名はサラ。

 村ではまるで旧約聖書のヨブ記に登場するヨブの如き存在と囁かれ、今は誰からも忌み嫌われ、避けられる者だ。

 かつて彼女は豊かな田畑と幸せな家族に恵まれていた。

 しかし、ある夜、突然もたらされた炎と雷によって、彼女の全てが奪われた。

 夫と子供たちはこの世を去り、家畜は焼け死に、稲は黒く枯れ果てた。

 人々はこれを天罰とみなし、サラを罪にまみれた存在として忌避した。


 サラはただ独り苦しみの中に残された。


 村のはずれの小さな寺院にたどり着いた彼女は、神木の下で足を止める。

 この木は昔から神が宿るとされ、不幸が訪れた時にはよく願を掛ける場所だった。

 しかし今は誰もおらず、ただ風の音だけが苛立たしく繰り返されるだけだ。

「神様、私は一体どんな罪をおかしたというのですか……」

 サラは呟く。

 彼女の声には怒りも悲しみも宿っていない。

 ただの疲れと諦観が横たわるだけだ。

「全てを失い、孤独だけがこの胸を満たすこの苦悩は、なぜ私にのみ重くのしかかるのですか? なぜ……なぜ私なのですか? なぜ私だけなのですか……!?」

 サラの心にはやがて怒りの炎が灯りつつあった。

 それは一体誰に対してのものなのか。サラ自身にもわからなかった。

 だが確かなことはサラの心は傷つき、天への詰問へと沸々とこみ上げる絶望が彼女の口から力強い言葉となって溢れ出たということだ。

 サラは神木の下で、その幹を叩きながら神に向けて叫びました。

 彼女の言葉は泣き叫ぶ子どものようであった。

 そしてまた失ったものへの痛切な嘆きが含まれていた。

 しかし、そこはただの静かな寺院の境内、風と木々のさざめき以外、応えるものは何もない。

 彼女の声は空しく木霊のように石段に反響し、遠く霞んでいくのみ。

「私には耐えがたいほどの悲しみと痛みがあります! 愛する者がいなくなり、私は絶望の中にいます! 神様、どうか、この苦しみに意味があるのなら、その意味を私に示してください! そうでなければ私は生きていけません……!」

 サラの慟哭のような祈りは、その苦悩の深さを反映していた。

 けれども、彼女がいくら待ち望めども、天からの直接的な答えはなかった。

 運命とはそういうものだ。

 人はいつも明確な答えを求めるが、決してそれは得られない。

 少なくとも、サラの声に形のある返事はなかった。

 そのとき、ひっそりと尼僧が姿を見せた。

 彼女は静かな足取りでサラに近づき、やさしい目をしてじっとサラを見つめた。

「苦しみというものは、神に選ばれし者の証なのですよ」

 尼僧は慈悲深い声で落ち着いて語った。

 サラは少しだけ力を振り絞って尼僧を見上げ、疑問を投げかけた。

「選ばれし者? なんですか、それは!? そんな上っ面の言葉で私は納得しなければならないのですか? 私は神に選ばれるなんてしなくても良かった! ただ、ただ普通につつましく生きたかっただけなのです! あなたにはそんなことも判らないのですか!?」

 尼僧は一瞬目を閉じ、語りかける前に心を整えるように一呼吸置いてから答えました。「あなたの辛抱、あなたが背負った苦しみが、それでも希望を失わずに生きていく勇気。それが、他者の心を動かし、互いに絆を強くする力となるのです」

「私自身が、絶望し、生きていけないのに、何が他人のためですか!」

 サラは声を荒げた。そして尼僧に詰め寄った。

「私の痛みが、どうして他人の心を動かすというのですか!? 私のこの心の痛みは、ただただ、私を傷つけ、絶望させ、死の淵に追いやるだけです! 忌まわしい傷口です!」

 尼僧は静かに彼女の怒りを受け止めた。

 サラの目を真っ直ぐに見つめながら、やわらかな調子で答えた。

「痛みは共感を生み、共感こそが人々を結びつけるのです。あなたの苦悩が、いつの日か誰かの救いになり得る。それはあなたが想像もできない形で現れるかもしれません」

 サラの目には涙が溢れ、声は震えた。

「でも……でも、そんなことは私にとっては何の慰めにもなりません! 私にはもう何も残っていないのです……」

 尼僧はさらに一歩近づき、サラの手をやさしく包んだ。

「残っていませんか? でも、あなたはここに確かに立っている。あなたの内にまだ残っている強さが、あなたをここへ導いたのです。あなたはまだ自らを見失ってはいません」

 サラの表情にわずかな変化が生じた。

「見てください。この木々は風に耐え、この厳しい季節を越えてまた新緑を拓きます。あなたもまた、傷つきながらも毎日を耐え、やがて新しい未来を切り開くことができるはずです。そう、かつての私のように……」

「あなた、のように……?」

 尼僧はサラから手を離した。

 ふたりは対面して座った。

 尼僧の表情は過去を思い出すかのように、一瞬陰りが差し、その後に穏やかな慈愛が戻ってきた。

「そうです、私のように……」

 尼僧の声は震え、彼女は言葉を続けるのに一旦躊躇した。

「若い頃、私にも愛する夫と小さな子供たちがいました……」

 サラはじっと尼僧を見つめていた。

 彼女の眼差しあった怒りや疑念は徐々に薄れ、今はただ深い共感の情が溢れていた。

「ある日、急な病によって私の夫は亡くなりました。そして子供たちも……。わたしは……わたしは悲しみに暮れ、その悲しみが癒えることは決してないと感じていました。そう、今のあなたのように……。私もまた、この世のすべてを失ったように思えたのです」

 尼僧の目からは静かな涙がこぼれ落ちた。

 その涙が、月明かりに照らされた彼女の頬を伝っていくのが見えた。

 サラは無意識のうちに尼僧の手を取っていた。

 心の底から湧き上がる共感という感情が、彼女が持つ痛みと尼僧の痛みが、見えない糸で結ばれていることを物語っていた。

「しかし、時間が経てば経つほど、私は私の苦悩が決して無駄ではないことを学んでいきました。私の経験が、他の苦しむ人々にとっての助けとなることがあります。私はそれを喜びとし、また糧として生きてきました。あなたが感じている痛みも、同じように……」

 サラは尼僧の言葉を聞きながら、自分の涙が止められなかった。

 彼女は、自分だけではなく、他人も同じような苦悩を抱えていることに今更ながら気づいたのだ。

「……そう、他人を救う力になり得るのです」

 尼僧は続けた。

「私は最初その苦しみから逃れるために、ここに来て神の道に入りました。しかし今、私は他の誰かのよりどころになるためにこの地にいます」

 尼僧が話を終えると、沈黙がふたりを包み込んだ。

 サラは深く頷いた。

 辛い経験が、絆と成長、さらには他者への奉仕へと変わることを彼女は理解し始めていた。

 尼僧の話は彼女に深い共感を与え、わずかながらも心の重荷が軽くなったように感じられた。 そしてサラは、静かに言った。

「話していただいて、ありがとうございます……」

 尼僧は穏やかに微笑んだ。

「あなたは決して一人ではありません。私たちは皆、お互いの痛みを分かち合い、助け合うためにここにいるのですから」

 月が雲の切れ間から顔をのぞかせ、神木の下は淡い光に包まれました。

 サラはその光を見上げ、ほのかな温もりを肌で感じながら深い息をついた。

 尼僧の言葉が彼女の心の隅々に染み渡っていきます。

 彼女は静かに立ち上がり、改めて周囲を見渡した。

 かつて自分が信じて疑わなかったものを失ってしまったこの場所。

 でもいま、彼女には何かが違って見えました。

 寺院の石段はただの石ではなく、乗り越えてきた彼女の強さの証。

 草木一本一本が、困難にも耐え抜く命のしぶとさを教えてくれるようでした。

「私たは皆、お互いの痛みを分かち合い、助け合うためにここにいる……」

 尼僧の言葉が繰り返しサラの耳に響きました。

 そっと、彼女は神木に手を触れ、深い感謝の気持ちを込めて囁きました。

「ありがとうございます……」

 サラはもう怯えてはいませんでした。

 彼女の悲しみは、今や新しい始まりのための種となり、深い理解と共感を通して他者を癒す糧へと変わりつつありました。

 心の中で彼女は誓った。

 自分の経験を活かして、誰かの支えになることを。

 彼女はもう一度尼僧を見て微笑み、寺院の門をゆっくりと後にした。

 涼やかな夜風が彼女の髪を撫で、遠く歌うような虫の声が新しい希望の歌を彼女に届けてくれました。

 サラはしっかりと歩を進め、不確かな未来へと向かう勇気を心に抱きながら、新しい朝への第一歩を踏み出した。

 そして、静けさの中、寺院の小さな鐘が遠く、しかしはっきりとした音色で響き渡った。

 それはサラの新たな道の始まりを告げる、祝福の音だった。


(了)

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