東京へ

 もっと長くいることを覚悟していたが、一週間で帰れることになった。

 各支社から続々人が来ていること、自分が施工管理などの現場の経験がないことなどから、長く滞在しなくてもよいという判断になったようだ。

 こちらからもっと居させてくれと言うことでもないので、翌日、2月11日に帰ることにした。

 荷物を持って旅館を出て大阪支社に向かい、一通り挨拶を済ませて家路についた。土曜日でしかも祝日だったが皆が出社していた。

 この日のことはほとんど記憶にない。普通に地下鉄で新大阪に移動し、売店で駅弁とお土産を買い、すぐ発車する「ひかり」の自由席に乗ったと思う。列車は時刻通り発車し、すぐ先の徐行区間を抜け、その後は順調に進んだはずだ。


 ここまでの話で書こうと思いつつつ結局帰りの話まで書けなかったことがある。双眼鏡だ。大阪支社でが支社長が「せっかく買ったのに誰も使っていない」と双眼鏡を指さして嘆いていた。それは対物レンズの口径40mm、倍率は20倍までのズーム双眼鏡だった。大きくて1kg近い重さがあり、皆が敬遠していた。

 星を見るのでなければ、双眼鏡は口径20mm程度で十分で、倍率は8倍前後がちょうどいい。それより拡大しても手振れで見ずらいだけだ。神戸を歩いたとき携帯していた双眼鏡も、私物の8倍×23mmの双眼鏡だった。


 新幹線は、山陽新幹線の新大阪~新神戸間の高架橋が壊滅的な被害を受けた。ただ、不幸中の幸いで乗客の被害はなかった。地震が始発の15分ほど前だったためだ。

 被災した鉄道は復旧が急がれ、新幹線はなんと4月8日に運行が再開された。運輸省(当時)が地震の翌日に「鉄道施設耐震構造検討委員会」を立ち上げ、官民が連携して早期の復旧を目指した。

 高架橋の復旧工事では、レールが載る床版部分の損傷が軽微だったため再利用し、壊れた柱部分だけを再構築した。中破、小破で崩壊しなかった柱は鋼板を巻いて補強した。

 ある程度長い橋では、コンクリートの桁が落下する被害があった。この橋では落ちた桁を架けなおして再使用した。点検して再使用可能ということを技術的に判断したはずだが、この大胆さには驚いた。落ちた桁はこの後事故もなく、今も使われている。先述の床版も同様だ。

 震災の後、他の路線も含めて新幹線の橋は耐震補強が行われ、地震の揺れを検知して列車を止めるUrEDAS(ユレダス)というシステムが導入された。その後2回ほど大地震で脱線事故が起きているが、数名の乗客が負傷した程度の被害に留まっている。


 このときの帰りの新幹線では、上記のようなことはまだ分からなかった。台湾が日本の新幹線システムを採用することも予想できなかった。

 それはそれとして、予定通りの3時間少々の乗車で東京駅に着いた。

 休日なので本社に寄ることもなく、夕方明るいうちに帰宅できた。

 今と違ってスマートフォンでSNSに書き込むとかできなかったため、東京では丸々一週間音信不通になっていた。パソコン通信に久しぶりにアクセスしたら未読の記事やメールが山ほどあった。仕事の他では、自分の時間がずっと止まっていたことを思い知った。

 パソコン通信の書き込みを読んだり、メールの返事を出したりしているうちに、自分の時間がまた動きだした。

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阪神大震災の被災地に仕事で行った話 春沢P @glemaker

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