後編
次の週末。僕たちは特になにも言わずに、後部座席にスズキを乗せて車を走らせた。まるでドライブに行くような雰囲気を装い、このままカラテカを求道者にしてくれる大きな道場へ向かうのだ。
スズキはなにも知らされていないのだけれど、ずっと緊張したような神妙な面持ちだった。道場修行のために真新しい胴着を用意したのもあって、このドライブがいつもと違う様子であることに、カラテカの直感で気づいているみたいだった。
スズキの緊張が伝わってくる気がして、僕と奥さんの会話も減った。車内に寂しい静けさを保ったまま、車は目的の道場へ辿り着いた。
道場は由緒ある寺院と見紛うばかりの荘厳な和風建築だった。
「ようこそ、おいで下さいました」
事務の人に通された畳の部屋で、まるで逆さまにしても顔になりそうな、白いひげを生やした禿頭のカラテマスターが僕たちを迎えてくれた。
僕と奥さんは正座をして深々と頭を下げた。
「こちらがその保護カラテカですね」
カラテマスターは微笑みすら浮かぶ穏やかな顔でスズキを眺めた。しかし、対するスズキはまるで恐れを抱いているかのような不安げな表情で、じっとカラテマスターを見つめている。僕たちにはわからない武道の空気があるように思えた。
カラテマスターが人差し指を一本立てた。僕は意味がわからず首を傾げた。
「一週間いただきましょう。さすれば必ず、彼は求道者としての生き方に目覚めるでしょう」
一週間。せっかくおうちに慣れてきた頃だというのに、しばらくの間、慣れない道場でスズキは暮らすのだ。奥さんが僕の手を握った。奥さんは一週間の修行の時を過ごすスズキを心配しているのだ。あれだけ深い敬意を抱かれている奥さんだ。無理もない。
いかに修行が厳しくても、なにも死ぬようなことはない。僕は奥さんの手を握り返した。
帰りの車の中では、僕たちはずっとスズキの話をした。一週間の道場生活、過酷な修行。スズキがどう過ごすのか。僕はこのとき気づいた。スズキと出会ってまだ一ヶ月にもならないけれど、スズキはもうすでに僕たちの家族なのだ。
「スズキくん。大丈夫かなぁ」
奥さんは心配すぎて、「保護カラテカ、求道者、修行」と検索して、修行中に命を落としたという話を見つけてしまい、ますます不安になっていた。
「それはごくごく稀なケースでしょ。修行で命を落とすなんてほとんどないって言うから。心配ないって」
不安を抱いた一週間が飛ぶように過ぎ、僕たちはスズキを迎えに再び道場を訪れた。
カラテマスターに連れられてスズキが僕たちの前に姿を現す。僕と奥さんは思わず肩を寄せ合った。たった一週間で、まっさらな胴着がボロ雑巾と化していたのだ。一体、どんな修行をすればこうなってしまうのか。
しかし、スズキ自身は疲弊した様子など皆無で、むしろ、一回り大きくなったような逞しさを帯び、何かを悟り得たような一切の曇りのない澄んだ目をしていた。
「立派でしたよ。スズキは。たっぷり褒めてやって下さい」
カラテマスターがスズキの背中を優しく押した。
「スズキ……」
僕は最初、恐れていた。こんな厳しい修行に出してしまったことで、スズキの心が僕たちから離れていないかを。
しかし、僕と奥さんが歩み寄ると、スズキはそんな心配など無用というように、堂々とした足取りで近づきてきて、力強く一礼をした。
僕たちは三人で抱き合った。
求道者になったスズキはこれまでにも増して、ますまず己のカラテ道を邁進した。その姿に心を打たれた僕も、これまで以上にトレーニングに力が入った。すると、いつの間にか奥さんもトレーニングウェアを一式揃えて、トレーニングに参加するようになった。
「歳を取ったら運動しなくなるからね」
奥さんもその気だ。今では三人で正拳を突く日々である。
栄養バランスを考えた食事と適度な運動。スズキがうちに来てからというもの、我が家の生活は実に健康的なものになった。
お風呂に入る前に鏡の前に立つ。余剰となっていただらしない肉は削げ落ち、皮膚の下にうっすらと張りのある筋肉が浮かび上がっている。体も引き締まったけれど、なんだか気持ちも若返った気がする。
あれだけ嫌だった健康診断が今度はむしろ待ち遠しい。だって、きっといい結果が出るだろうから。
廊下でスズキが僕を見ていた。僕はスズキに一礼をした。ただの挨拶の一礼ではない。これは感謝の一礼だ。うちに来てくれてありがとう、スズキ。弟子を取らないよう求道者にしたけれど、僕はほとんど君の弟子だ。
するとスズキもお手本のような一礼を見せてくれた。僕はそれを、うちに招いてくれてありがとうという意味に取った。
そうあってほしい。いや、きっとそうに違いない。
保護カラテカ 三宅 蘭二朗 @michelangelo
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