中編
奥さんの鋭い判断力と並外れた行動力によって、我が家はオスのカラテカをひとり、おうちに迎えることに決まった。
だが、だからといってすぐにカラテカと家族になれるわけではない。まずはトライアルという試験期間を経て、里親とカラテカの相性を確かめないといけないのだ。
トライアルの期間は一週間から二週間。もし、その試験期間でカラテカがそのおうちに馴染めなかったり、里親候補がカラテカと一緒に暮らす能力を満たしていないと判断されれば、おうちに迎え入れることはできないというわけである。
〈息吹〉の方たちふたりがオスのカラテカを連れてうちへやってきた。うちひとりは譲渡会でも丁寧に対応してくれた女性の方だった。カラテカとも数日ぶりの再会だ。
カラテカは僕にも奥さんにも一礼しなかったが、付き添いの方々に続いて粛々と玄関をくぐり、大人しく足を拭いている。初めての家でもじろじろと見回すようなことなしない、礼節をわきまえたいいカラテカだった。
「どうぞ、こちらにお願いします」
僕たちの家には、子供ができたときに子供部屋にする予定だった一室があった。結局そこは、夫婦ふたりの私物を置くだけの部屋となったけれど、友人やお互いの両親が遊びに来たときには寝泊まりの部屋として有効活用されていた。
僕らはそこを片付けて、畳マットを敷き詰め、カラテカが過ごせる一室に仕立て上げていた。
「あら、素敵なお部屋ですねぇ」
今日初対面の〈息吹〉の方が声をあげると、カラテカが遠慮がちに畳マットの部屋に足を踏み入れた。
「どうだろう。気に入ってくれるかな」
カラテカの様子を見守りながら奥さんが僕の耳元でささやいた。カラテカは畳マットの感触を確かめるように、ゆっくり円を描くように歩いている。
「大丈夫。きっと気に入ってくれるよ」
しばらくウロウロした後にカラテカは部屋の中央で正座した。背筋を伸ばして目を瞑り静かに座している。
「うん。落ち着いたみたいです。大丈夫そうですね」
〈息吹〉の方が微笑んだ。
僕と奥さんはそれだけで少しホッとした。これで駄目なら畳マット代も用意している替えの胴着代も一瞬でパーになるし。
「それでは、これから二週間よろしくお願いします。何かありましたら、気兼ねなく何でもご相談下さい」
こうして僕たちの新しい日々が始まった。
「名前、どうしよっか」
その日の晩、早速、僕たちは顔を突き合わせてカラテカの名前を決める夫婦会議を始めた。
「カラテカだから、やっぱりフグ?」
奥さんが言うので僕は思わず笑ってしまった。
「カラテカにフグはベタすぎでしょ。イヌにポチ、ネコにタマ、カラテカにはフグだから」
「男の子だからアユとかサヨリはおかしいよね」
「かといって、カツオやアナゴは論外だよね。あと、サンマも」
厳正なる会議の結果、僕たちが家に迎えたカラテカにはスズキという名前がつけられた。
最初の数日、スズキは緊張しているのか僕たちにも遠慮気味で、畳マットの上でほとんどを正座で過ごした。正拳も打たなければ演舞もせず、屈伸運動や準備体操のような軽い運動を行うだけだった。
「スズキ君。稽古してもいいんだよ? うち、マンションの一階で下の階に人いないから」
奥さんがそう言っても、スズキは遠慮がちに一礼するだけだった。というかやっぱりスズキは奥さんには一礼するらしい。
ご飯は初日からちゃんと食べた。奥さんはアスリート飯をネットで調べて、栄養バランスを考えた献立を用意した。もちろん、僕たちも今日からはそんな体の健康を考えた食事を採ることになる。揚げ物はしばらくおさらばだけれど、最近は胃もたれをするようになっていたから、ちょうどいい機会かもしれない。
一週間もするとスズキも我が家に慣れてきて、畳マットの部屋以外もウロウロするようになった。武道を嗜むものだから体を動かす方が好きなのかと思えば、本棚に収まった本をじっと眺めて、遠慮がちに手に取る様子も見られた。どうやら読書にも興味があるらしい。よく手に取るのは、僕が一時期ハマっていた自己啓発系の書籍だった。スズキは意外にもそっち系だったのか。
畳マットの部屋でも次第に自主トレを行うようになった。朝早い時間から掛け声が聞こえてきて、それが僕たちの目覚まし時計になった。
瞬く間にトライアルの二週間が過ぎた。
再び〈息吹〉の人たちが我が家を訪れ、スズキの様子を確かめた。スズキは来客の間も畳の部屋で正座をして穏やかに過ごしていた。
「午前中に自主トレをしているので、日中この時間帯はいつもあんな感じで過ごしてます」
僕が言うと、〈息吹〉の人たちは安心したように穏やかにうなずいた。
「わかりました。問題なさそうですね」
里親としての能力、そして相性が充分と判断され、僕たちは正式にスズキをおうちに迎えることになった。
「スズキ君。今日から正式にうちの子だよ」
奥さんが優しそうに微笑むと、スズキはこれまでで一番丁寧な一礼を見せた。僕はその一礼に深い敬意の表れを感じ、いまだに一礼を向けられていないことに嫉妬した。
トライアル初日にはどこか緊張した様子を見せていたスズキも、正式におうちに迎えてから数日経った頃には堂々と家の者になっていた。食事のときも遠慮をせずにお代わりの茶碗を差し出すし、練習の合間に僕の蔵書を読むこともあった。
ただ、家に慣れたことで困ったこともあった。
ある日の夜中、静まり返った家で小さな音を耳にとらえて目を覚ましたことがあった。寝ぼけた頭でその音の正体と出所を考え、それがお風呂であり、シャワーの音であることに僕は気づいた。
まさか、お風呂が澄んでもシャワーを出しっぱなしにしていたのかと慌てた僕は、急いで風呂場へ向かった。風呂のドアを開けるとそこにはスズキがいた。なんと彼はシャワーに打たれながら正拳を突いていたのだった。
「スズキ! 滝行だめ!」
「チャタンヤラクーサンクーッ!」
この出来事がきっかけだったのか、スズキはますまず僕には冷たくなった。
対して奥さんにはこれまで以上に美しい所作で一礼をする。僕はついに我慢しきれなくなって奥さんに相談した。
「どうすれば、スズキに一礼してもらえるだろう」
僕もスズキに敬意を払ってもらいたいのだ。
「そうだねぇ。一緒にトレーニングしてみれば?」
翌日、早速、僕は仕事を定時きっかりに切り上げ、人もまばらなスポーツ用品店に駆け込み、トレーニングウェアを一式購入した。
畳の部屋では瞑目したスズキが静かに正座している。
「なぁ、スズキ。夕食の前に少し、正拳の突き方を教えてくれないか?」
無視されるかと思いきや、スズキはゆっくりと目を開けておもむろに立ち上がった。静かに構えを取り、呼吸を整えたかと思った途端、空気を切り裂くような音とともに、すさまじい迫力の正拳が突き出された。
「お、おお」
思わず感嘆の声を漏らしてしまう。そんな僕をスズキは横目で見る。まるでさっさと同じようにやれと急かされているみたいだ。
「ちょ、ちょっと待って! まだ着替えてないから!」
僕は急いでスーツを脱ぎ捨て、購入したてのトレーニングウェアに着替えた。着替えてから値札がついたままになっていたことに気づいた。
スズキがもう一度正拳を突いた。僕は見よう見真似で正拳を突く。すると、スズキが僕の拳や肩や腰に手を当ててその姿勢を正してくれた。目を見ると、もう一度やってみろと言っているように見えて、僕は再び正拳を突いた。
うなずくスズキ。
僕とスズキはそれからしばらくふたりで正拳を突く練習をした。
廊下から奥さんが顔をのぞかせた。
「夕飯よーっ! って、あら、仲良しですね~」
スズキとのトレーニングをはじめて数週間が経ったある日、僕がいつものようにトレーニングウェアを着て畳の部屋へ入ると、黙想をしていたスズキがふっと目を開けて僕に一礼をした。
「ス、スズキ……っ!」
僕は感動に思わず固まってしまった。そんな僕をスズキは厳しい目で見ている。僕は慌てて一礼を返す。礼には礼を。カラテカは礼儀の生き物だ。礼儀を失すれば一生、信頼関係を結ぶことはできない。けれど、こうして礼をし合う仲にさえなれれば、カラテカは一生、礼儀を尽くしてくれるだろう。
「一礼をくれたのね」
そんな様子に、廊下から奥さんが優しい眼差しを向けていた。僕は静かにうなずいた。
朝のトレーニングのために就寝の早いスズキが寝たあと、僕と奥さんはダイニングテーブルで温かいお茶をすすりながらスズキのことについて話をした。
「僕にも一礼してくれるようになった。そろそろかな」
「そうだね。スズキくんには試練かもしれないけど」
おうちに慣れた頃、里親が引き取った保護カラテカに必ずやらなければならないことがある。そう、保護カラテカを
カラテカは本能的に師匠欲求というものを持っている。ある程度のカラテ道を進むと、弟子を取ろうとしてしまうのだ。しかし、家の中に弟子になるカラテカはいない。これがカラテカにとっては大きなストレスになってしまう。
保護カラテカ団体が積極的に野良カラテカを保護するのも、そもそもは、師匠欲求による野良カラテカの増加を防ぐためだ。そのため、保護カラテカを引き取った里親にも、勝手にカラテカに弟子を取らさないようにすることが義務付けられている。
弟子を取らないカラテカ。それが求道者だ。
カラテカの師匠欲求を削ぐために、弟子を取らず己のカラテ道を死ぬまでひたすら追い続ける道を歩ませるのだ。
「厳しいって聞くよね。求道者の修行って」
「でも、弟子をとりたいのに、取れないって辛いよ」
「そうだよね。求道者にするのはスズキのためだもんね」
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