保護カラテカ
三宅 蘭二朗
前編
健康診断の結果が出た。正直あまり芳しいとは言えない。おおむね体に異常はなく健康体と言っていいのだが、やはりBMI値は無視できない。僕が肥満?
顔こそ甘さ控えめだけれど、スタイルはいい方で、学生時代は着るものには困らなかったし、何を着てもそれなりに着こなす自信もあった。
そんな僕も三十代を迎えた辺りから、背中、腰の肉に気になり始め、ずっと愛用していたズボンが窮屈に感じることも増えてきた。ゆるやかに丸みを増してきた体に敢えて目を背けてきたのだけれど、四十代に突入してからはそれももう無視できなくなってきた。
極めつけがおうち時間の増加だった。きっかけはウイルス感染症の蔓延。外に出られない分、日本国民の在宅時間を充実させようと各企業なんかが頑張ったおかげで、いまや、充実のおうち時間を過ごせるようになってしまった。
缶アルコール飲料の美味しさ、食品系商品の充実、多種多様な出前サービス。そして、そのお供に動画サイト、ゲームなどの人間を室内で駄目にするあらゆる娯楽コンテンツ。
どうだ。その成果がこの僕の肉体であり、BMI値だ。
風呂で温まった余剰分の腰の肉を摘まんでみる。良く冷えた麦茶を用意してくれた奥さんが、哀れみを湛えた目で僕を見ていた。
半分程飲んだ麦茶のコップをテーブルに置いて椅子に腰を下ろした。よっこらしょという言葉は意識して飲み込む。僕にならうように対面の椅子に腰を下ろした奥さんが、おもむろに口を開いた。
「ちょっと相談があるんだけど」
ダイエットの提案だろうかと僕は覚悟したけれど、奥さんが口にしたのは意外な内容だった。
「保護カラテカをおうちに迎えない?」
僕たち夫婦はありがたいことに今年で結婚十年目を迎えることができた。ふたりとも、どうしても子供が欲しいというタイプではなく、子供はあくまで授かりもの、できたらいいけれどできなくても無理に頑張ったりはしない、というスタンスで十年間やってきた。結果、いまも夫婦ふたりだけで暮らしている。
お互い、好きな仕事に誇りを持って向き合い、十分な収入もあり、お金と手間のかかる子供もいないとなれば、気ままな暮らしを続けられる。
ただそれでも、結婚生活十年ともなれば、幸せの隅っこに物足りないものを感じはじめる頃だった。奥さんは今年で四十になる。お互い口には出さないが、子供はもうほとんど諦めていた。そんな状況で、奥さんなりに僕たちの生活に新しい風を吹き入れたいと考えたのだろう。相談とはその提案だった。
「保護カラテカかぁ」
僕は煙草の煙のように言葉を吐き出して、残りの麦茶を飲み干した。
保護カラテカとは、地域の有志団体によって保護された野良カラテカのことだ。野良カラテカは昔からどこにでもいるけれど、今、年々増加の傾向にあり、ここ最近はメディアでもよく取り上げられている。
野良カラテカが増えた最大の要因は、格闘技への不理解だ。格闘技はそもそも武道やスポーツだったりするのだけれど、昔から野蛮、危ない、教育に悪いなどの偏見を持つ人が一定数存在している。
特に昨今知名度を上げてきた、チンピラまがいの人間たちによる喧嘩じみた新しい格闘技エンターテインメントがそれに拍車をかけた。
勢いを増した一部の過剰とも言える格闘技への反発意見が、格闘技への偏見を助長し、多くの道場を閉鎖に追い込んだ。行き場を失ったカラテカたちは、空き地や河川敷や路地裏などの在野へ下り、雨風に晒されながら正拳を突くことを余儀なくされた。
保護カラテカ団体はそんな巷に増えた野良カラテカを保護し、彼らの新たな人生を提供すべく、カラテカと共に生きようと思う人たちとの橋渡しをしているのだ。
「どうかな?」
考えている僕に奥さんが返答を促した。
奥さんとふたりだけでも毎日が楽しいけれど、カラテカが家にいるのも悪くないかもしれない。
「そうだね。うん。いいかも知れない」
「そう言ってくれると思って、もう保護カラテカ団体は調べてあるんだ」
奥さんは微笑んだ。この人はいつも準備の早い人だ。
数週間後、僕たち夫婦は始めての保護カラテカの譲渡会へと参加した。譲渡会を開催しているのは〈息吹〉という保護団体で、僕たちの住む市内ではもっとも規模が大きく、活発に譲渡会を行っている団体だった。
保護カラテカの里親になるためにはいくらか段階があり、その手始めとなるのが譲渡会への参加だ。譲渡会は保護団体が主催するもので、そこで里親と保護カラテカとが面会をし、第一印象の相性を確かめるのである。
〈息吹〉の譲渡会は、車で十五分ほど走ったところにあるマンションの一室で行われていた。マンションといっても、居住階は三階から上で、一、二階にはコンビニや不動産屋、ダンス教室やパソコン教室などのテナントが入っていた。
譲渡会はそのパソコン教室の隣にあるイベント貸し出し用の一室で行われていて、ドアの脇に「保護カラテカの譲渡会こちら」の立て看板が立てられている。僕はドアノブを掴んでそっとドアを開けた。
「チャタンヤラクーサンクーッ!」
突然、カラテカの鳴き声が聞こえてきて、僕は思わず肩を揺らした。
「どうも、こんにちは~」
それに続いて、入ってすぐのところに立っていた小柄な中年女性が、柔和な微笑みを浮かべながら声をかけてくれた。
「予約していた広瀬ですけど」
盛大に驚いたところをもろに見られたと思って苦笑しつつ、僕は予約の確認をした。女性は手元に置いていた名簿に目を落とし、紙面を指でなぞった。
「広瀬さんですね。はい。お待ちしておりましたー」
「チャタンヤラクーサンクーッ!」
中はだだっ広い正方形の部屋になっていて、部屋の半分には畳マットが敷かれており、その上で数名のカラテカが思い思いに正拳を突いたり、じっと目を瞑って正座していたり、演舞を披露したりしている。
「わー。やっぱり技のキレが違うねー」
奥さんは演舞を披露しているオスのカラテカに目を奪われていた。
「ごゆっくり、カラテカちゃんの様子を見てあげて下さいね」
女性は僕にそう言って、フリータイムを設けてくれた。僕も奥さんに倣って、畳マットの上でおのおの過ごすカラテカの様子を見守った。
カラテカのオスは胴着の上からでもわかる鍛え上げられた肉体を持っていて、逞しくてかっこいい。一方、メスのカラテカはオスほど逞しくはないがしなやかで美しい。
「オスもメスもどっちもいいね」
僕が言うと奥さんもうなずいた。
「オスとメス、どちらの方が一緒に暮らしやすいとかあるんですか?」
一歩下がったところで僕たちの様子を見守っていた係の女性に僕はたずねた。
「そうですねぇ。あまり大差はないと思います。ただ、オスのカラテカちゃんの方が体も大きいですからごはんを食べる量も多いのでちょっと食費はかかるかもしれませんね」
「ごはんは僕たちと同じものでもいいんですか?」
「基本的には同じものを食べますけど、できれば高タンパク低カロリー、そして栄養があるものをバランスよく食べさせてあげて下さい。やっぱりカラテカちゃんもアスリートですのでね」
「同じものを食べれば私たちも健康になりそうだね」
「そうおっしゃる里親さんたちもいますねー」
カラテカと囲む食卓。これまでは夫婦ふたりが顔を突き合わせるだけだった食卓に、もうひとつの存在が加わる。三人で囲む食卓とは一体どんな感じだろう。
いや、食事だけではない。カラテカが家族になることでこれまでの生活に変化が訪れるのだ。
「せっかくなんで聞いておきたいんですけど、食事以外でも特に気を付けなきゃいけないところとかってありますか?」
僕が質問をすると、係の女の人は慣れた様子で質問に答えはじめた。
「基本的にカラテカちゃんはおうちの中でも自由に過ごしますので、特に一緒に演舞をしたり、組手の相手をしてあげたりする必要はありません。もちろん、一緒に型を練習してあげたりするとみんな喜びますけどね」
なるほど。組手の相手ならともかく、型くらいなら運動音痴の僕にでもなんとかなるだろう。
「ただ、そのための畳は必要です。ご自宅に畳のお部屋があれば一番いいんですけど、もしなくても、こういう畳マットが売ってますので、それを敷いて畳のお部屋にすれば大丈夫ですよ」
係の女性はしゃがんで、敷いてある畳マットをポンポンと叩いた。
「あとは替えの胴着ですね。汗をかいちゃうのでやっぱり胴着も洗ってあげなきゃいけないですから、常に複数着の胴着は必要になると思います」
なるほど。里親となるためにまずは買い揃えておかなければいけないものが色々あるみたいだ。
そうやって話をしていると、奥さんが唐突に声を上げた。
「あ! 今、一礼したよ!」
「え? ほんとに?」
一礼はカラテカが敬意を持った相手にだけする挨拶の一種だ。体の正面で腕を交差させ、それを解きながら首を垂れる。もし奥さんの見間違いでなければ、今日ここで初めて顔を合わせたばかりだというのに、奥さんはカラテカに敬意を持たれたということになる。
「ねぇ、この子をおうちに迎えようよ!」
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