第8話

 千代子はゆっくりと早鐘のようになる鼓動を抑えながら、そっと雑踏の中に踏み込んでいく。紗枝が他のみんなに声をかける。もうすぐ花火が始まるから移動しようという紗枝の声。


「――雛子さん」

 心臓が口から飛び出てしまうかと思うほどに千代子は緊張していた。それでももう行動は止められず雛子の服の裾をちょんと引っ張って、「一緒に抜け出しませんか?」と声をかけた。


 痛むほどに高鳴る鼓動。時間がゆっくりと進むような感覚だった。雛子は少し驚いたように振り返り、頬を赤らめて千代子の言葉に頷いた。

 そうして、二人で手を繋いで祭りの喧騒から抜け出していく。花火のスポットなんてわからないけれど、二人きりになれる場所を探して歩く。


 二人は無言だった。それは居心地の悪いものではなくて、恐らくお互いに大きな期待を抱いて胸を高鳴らせていたからだろう。遠ざかる人の群れ。三日月の夜の下に人気のない神社の片隅で向かい合った。


「――もうすぐ花火があがるわね」


 雛子が言った。千代子は頷いて、でも花火の方角なんて見向きもしないで雛子の目を見つめていた。

 またしばらく黙って見つめ合う。薄化粧をした雛子の薄らピンクのルージュをのせた柔らかそうな唇に目が奪われる。


「雛子さん」


 高鳴る気持ちを抑えながら、千代子は雛子の名前を呼んだ。雛子は微笑んで頷く。


「――私の……静けさが好きと言ってくれて、その……ありがとうございます」

「うん」


 短く雛子が頷く。そこにはいつもの大人びた様子の雛子はおらず、どこか緊張した様子の女の子がいた。


 ――あぁ、そうだったんですね。雛子さんも同じだったんですね。


 千代子はそこでようやく気付いた。どうして雛子にとって千代子が特別だったのか。どうして好きという言葉をこんな自分に言ったのかを。


「私たちは似ていたんですね……自分の意見を持たずに愛想笑いと相槌をする私と」

「理想とする人物像を演じる私と」


 雛子が続けるように言葉を紡いだ。


「――千代子に会うまで、それが悪いことのような気がしていたの。自分が自分でないような、そんな気がして苦しくて……。でもあの日、あの図書室であなたと話したとき、私は私のままで心地よく話ができたの」


 雛子にとって、それはとても新鮮なことだった。千代子は他の子と違って自分を色眼鏡で見ずにそれでいて、全てを受け止めてくれるように肯定してくれる。競い合うこともない、嫉妬されることもない、嫌味をいうわけでもない。気が付くと、二人で何気ない会話を交わしていた。自然と微笑みが零れた。

 作り上げられた自分自身を初めて信じられる気がした瞬間だった。


「――千代子。もう一度言うわね。私は……」


 その言葉を遮るように、千代子は紗枝の言葉を思い出しながら口を開いた。


「私は、雛子さんが好きです。その美しい所作、優しい人柄。そのすべてが好きです」


 千代子はもう足元を見なかった。真っすぐと雛子の目を見つめる。


「こんなことを言うと嫌われてしまうかもしれませんが……あなたが他の人と仲良くしているのを見ると苦しい気持ちになります。あなたが他の誰かに微笑んでいるのを見ると……つらくなります」


 そっと雛子が千代子の目元に触れる。泣いて腫れぼったい赤みを帯びた瞼をそっと指でなぞる。


「泣いて……いたのね」


 はい、と千代子は頷いて雛子の目を見つめる。雛子も千代子と同じように目を潤ませ、互いの瞳を見つめ合った。


「私も……千代子が好き」


 花火の音が響いて、辺りが明るく火の色に染まる。それに目もくれず、どちらが言うでもなく、目を閉じた。自分の心臓の音と、花火の弾ける音。人の歓声の小さな隙間に互いの呼吸が聞こえた。

 千代子はかかとを少し上げ、その背に腕を回した。それは互いの花の蜜を吸うような優しい心地であった。


 ――火が遠くで花を彩る。見上げる人々はその美しさに目を奪われ、声を上げる。誰も知らないところで、二人のことを細く曲がった月だけが見下ろしていた。

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花の蜜吸い 佐渡 寛臣 @wanco168

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