第7話


「――どうしたんだい、千代子。今にも泣きそうな顔をして」

「泣きそうな……顔でしたか」


 脳裏に浮かぶ、醜い薄ら笑い。眉を寄せ、唇を噛んだ。紗枝は相変わらず両手を組んだまま頷く。


「あぁ、そういう風に見えたね。――千代子らしくない感じだった」

「――私らしくないですか……。そう……でしょうね」


 千代子が自嘲気味に笑って思う。――私らしいというのはどういうことでしょうか。紗枝にはどういう風に私の姿が映っているのでしょうか。

 もうどのように振る舞うことが自分らしいのかすらわからず、千代子の胸はただ苦しく疼くだけだった。


「何かあったのか? 今の千代子を見ているとこっちがつらくなってくる」


 紗枝が表情を曇らせて、そして心配そうに千代子の手を握った。


「そちらこそらしくない表情をしていますよ」


 ――そう無駄なごまかしをして無理やり微笑む。一層、手を握る力を強める。


「そりゃそうだ。千代子がこんなになっていたら、いつもみたいじゃいられないさ」


 だから、話して。と紗枝は言うように千代子の目を見つめる。茶色の瞳の中に、自分の顔が映りこむのが見えた。


 ――あぁ、確かにこれは今にも泣き出しそうな顔ですね。


 千代子は観念して、ぽつぽつと話を始めた。


「――私は……私は自分ではうまくやっているほうだと思っていたんです」


 一年生の頃の話になる。

 入学してしばらくすると自然とクラスの中ではグループが形成され、そこへそれぞれが組み込まれていく。それは誰かが望んでそうなるわけではなく、千代子もその摂理のようなものに流されるようにグループの中に入っていた。それが幸運なことだと気付いたのはしばらく経ってのことだった。


 千代子のクラスメイトの一人に、誰とも話をしない子が一人いた。無口なその子は登校してから下校するまでの間、誰とも話さずにそそくさと帰っていく。千代子はその子に話しかけることはなかった。話しかける理由もなかったし、いつからかわからないが、話しかけてはいけないような見えない圧力を感じていた。


 それははっきりと誰が言ったわけではなく、どこからともなく小耳に挟むような話で、「あの子は嘘をつく」「あの子は口が悪い」「あの子が苦手」そんなネガティブな言葉が囁かれていた。

 その時から、千代子は一層、気を付けて話をするようになった。嫌われないように相槌を打ち、微笑んで頷き、相手の意見に同意する。思っていることは口に出さずに誤魔化して、そうしていれば、グループから外されることはない。それは気付いてそうなったわけではない。千代子にはその自覚がなく、そう振る舞うようになっていたのだ。

 それを見抜かれて、そう思われていることが堪らなく恥ずかしく苦しいことだった。


「――みんなが言っているんです。誰の言葉にも頷いて……必死でしがみ付いてるようだと。その通りだと思いました。自分がどう思っているかなんて考えもせず肯定し、嫌われないように必死に顔色を窺っていたんだと……そう思うと、私は……」


 とても卑劣な人間なんです。そう言おうとしたときだった。


「いいんじゃないか。そんなこと気にしないで」


 あっけらかんと、紗枝は笑って千代子の頭をそっと撫でた。


「――いいんだよ。誰かのいうことなんて気にしないでさ。私は、そんな千代子を気に入ってるんだよ」


 紗枝が自分の頬を軽く掻く。仄かに紅潮した褐色のほっぺたはにっこりと微笑み、小さな膨らみを作る。


「――だけどそれは取り繕っている私なんです。機嫌を損ねないように……偽物の私なんです」


 きっと、人には本当の自分がある。そう千代子は思う。譲れない自分の主張があって、それがその人そのものを形成しているというのなら、人の顔色を窺う私という人間はそれこそ偽物なのである。


 ――雛子さんが好きなのは、そんな私なのです。


 ぽろりと涙が零れた。泣きたくはなかったのに、どうしようもなく行き場をなくしてしまった感情が溢れるように零れ、ゆっくりと落ちていく。

 千代子の肩が震え、何度もしゃくりあげながら、小さな声で泣く。堪らず、紗枝は千代子の肩を抱きしめ、胸の中に包んだ。


 暖かな紗枝の身体の中で、千代子は泣き続けた。


「――千代子。千代子は何も悪くないよ。千代子は優しいからなんだよ。人の気持ちを考えられる子だから、私は千代子と話をするのは心地がいいんだよ」


 優しい声。紗枝はぽんぽんと子どものように泣く私の背中を撫でる。


「偽物なんかじゃないんだ。千代子は全部受け入れてくれるから、きっとそんな千代子をわかってくれる人はこれからたくさん出てくるよ。そしたら、そんな誰かの言うことなんて気にすることなんてないんだ」


 そう言ってもう一度、強く抱きしめられる。紗枝の言葉が何度も頭の中で繰り返される。それを否定する気持ちと肯定する気持ちが綯い交ぜになって、その心の在り方に答えを出せなかった。けれど哀しみの感情だけはぽろぽろ涙と共に抜け落ちるようで、次第に冷静さを取り戻していった。


「……ありがとうございます」

「落ち着いたかい?」


 そう言うと紗枝がそっと千代子の身体を離して、指先でそっと涙を掬いとった。また懐からハンカチを取り出して自分の涙を拭う。


「――浴衣が濡れてしまいましたね」

「女の涙は勲章だ。ふふふ。これは二人だけの思い出になるね」


 ニカっといつもの爽やかな笑顔を零して紗枝が言う。


「青春――のようなものですね」

「これはそのものだろう。――いいかい、千代子。どう振る舞おうたって構わないんだ。これは兄の受け売りになるんだが、そういう振る舞いは一つの処世術でもある。自分の言いたいことだけを言うのは子どものやることさ」


 世の渡り方というのなら、確かに敵を作らぬように振る舞うことは処世術と言えるのだろうか。


「――私たちはまだ子どもよ」

「子どもが子どもの役割をしなくちゃならないわけじゃないさ。私たちはもうどちらでもない年齢になっていくんだよ。――だけどさっきみたいに自分の気持ちを伝えたいときはしっかりと伝えなきゃいけない。それは千代子がそうしたいときにするんだよ」


 祭囃子が遠くに聞こえる。涼やかな風が千代子と紗枝の間に入り込んで火照った身体を冷やしてくれる。


 ――気持ちを伝えたいとき、私がそうしたいとき。


 そっと後ろを振り返る。屋台のきらびやかな光の中に、友人たちと談笑する雛子の姿が映った。


「――私、もっと雛子さんと話がしたい。雛子さんの……気持ちを聞きたいの」


 紗枝はそっと私の背中を押した。一歩踏み出した足はからんと下駄の音が響いた。

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