33.初恋という名の呪縛

 私は桜井奈々子。27歳。1人暮らし。社会人になって5年目。部下もいる。1人暮らしにも、仕事にも慣れてきたが、仕事は毎回何かしら新しい学びがある。数学のように明確な答えがないから終わりがない。


 仕事のスケジュールはぎっしりと詰まっていて、余暇を楽しむ余裕はないが、週1回のピラティスは継続していた。そんな中で、不二祐介の訃報を知らせるメールが、中学校時代の同級生から届いた。


 中学生の同級生は、高校時代はかろうじて交流があったが、大学になってからは会うことが無くなり、メールも減った。社会人になってからは、連絡事項以外のメールのやりとりさえ無くなった。振り返れば4人ないし6人の同級生がいて、中学の頃は仲が良かったはずなのだが、地元を離れ共通項が無くなると、自然と疎遠になっていった。


 みな、それぞれ目の前にある人、コトで忙しい。新しい出会いもあるだろうし、社会人になれば、まわりの環境も変化する。当時、どれだけ仲良くても、時間が関係性を薄れさせてしまうのだ。 


 なのに、不二祐介が死んでしまったことで、私だけが過去に引き戻され、15の自分と対面してしまう。同級生たちは、おそらく過去の出来事と現在の出来事は、しっかりと区切られているはずだ。中学校時代の友人たちは、みな、中学時代を思い出として納めているだろう。私だけが、中学に取り残されている。私だけが時が止まっている。


 不二との出来事は、何かのきっかけさえあれば、昨日のことのように思い出せる。彼の唇の冷たささえもリアルに思い出せた。普段は何重もの鎖でぐるぐる巻きにし、不二への思いを心の中の深海に沈めているのだが、ふとしたことで鎖は解き放れ、15の私を浮上させる。


 そんな15の心を引きずる私は、不二の葬式に行かなかったのではなく、行けなかった。不二を痛みつけたあの女たちにも会いたくない。それに同級生たちは、きっと、中学時代のことをリアルには語れないはずだ。忘れてしまっていることも多いだろう。思い出が色褪せることも、ある意味、彼ら彼女らが成長している証の1つだ。


 見た目は年相応になったが、中身はあの当時のままだ。しゃかりきに仕事をするのは、成長していない自分と向き合いたくないからだ。


 だから私は、15の自分自身と彼と決別するために、墓参りに行ったのだ。不二祐介のことを過去の人として、認識しなければ、私はずっと15のまま、成長することができない。


 意を決して出掛けたのに、その墓参りで、彼の従兄、藤本拓海と会ってしまった。背が高く、色白で、美しい顔立ちが不二と重なって見えた。その藤本に「見せたいものがある」と、連れて行かれたのが、不二祐介のアトリエだった。


 そこで私は、15歳の私がピアノ室でピアノを弾いている絵を見た。それだけじゃない。スケッチブックには何枚も何枚も、私の姿が描かれていた。それを知ったとき、私は自分が壊れてしまうのではないかと思った。不二とのことを完全に終わらせるために墓参りに行ったのに、また彼の強い呪いにかけられたような気分だった。



 アトリエに行ってから2カ月が過ぎた。ずっとアトリエのことを考えていた。「絵とスケッチブックをもらってほしい」と、不二の従兄、藤本が懇願するように言った言葉が脳裏から離れない。


 初めて絵の存在を知ったときは、何も考えられなかった。

 不二のことを純粋に好きだった中学生時代。高校も大学も彼に会いたくて声が聞きたくて苦しみ、彼から拒絶されたことに気がついた後は、必死に彼を忘れようともがいてきた。なのに、彼は私のことを忘れていたわけではなく、拒絶していたわけでもなく、慈愛に満ちた絵を描いていた。


 不二はもう、この世界にいない。それを受け入れていない私がいる。

 このままでは本当に私は死ぬまで、不二の呪縛から逃れられない。忘れたふりをすればするほど、不二に心を縛られていく。それがこの10年近くもがいて、やっと理解したことだ。現状を打破する方法を考えなければ、私は一歩も前に進めない。

 

 不二がどこかで生きていてくれれば、ごまかしながら前へ進めたかもしれない。なのに、不二は突然、私のいる世界からいなくなってしまった。


 私は不二の従兄、藤本拓海に電話をかけた。苦しくて、逃れたくて、終わらせたくて。そのためには、あの絵と向き合う必要があると思ったからだ。藤本は1コールで電話に出た。「奈々子ちゃん?」と嬉しそうに弾んだような声で、私の名を呼んだ。私はアトリエに行きたいことを伝えた。

 「OK。迎えに行くよ。」

 藤本は明るく答えてくれた。不二とは電話越しでは話したことがないが、もし彼と電話で話をしたとしたら、こんな感じの声色ではないだろうか・・・。藤本は、背格好、シルエット、目元の雰囲気だけでなく、声も似ているかもしれない。

 「奈々子ちゃん? 奈々子ちゃん?聞こえてる?」

 「あ、はい。ごめんなさい。」

 藤本の呼びかけに我に返り、アトリエに行く日時、待ち合わせ場所を決めた。


 待ち合わせ場所に行くと、すでに藤本は車で迎えに来ていた。移動中は藤本が仕事の話しをしたり、私の仕事に関する質問が飛んできたり、会話をつなげてくれた。そうこうしている間に、見覚えのある街並みに差し掛かり、木々に囲まれた和風の一軒家に到着した。藤本の実家であり、庭には不二のアトリエがある場所。


 玄関の門をくぐり、庭に出ると離れがある。大きなガラスの引き戸を開け、中に入った。以前来たときよりも、片付けられているような気がした。藤本がイーゼルにかかった布を外してくれた。


 2カ月ぶりに私は、中学校時代の私と再会した。


 ピアノ室でグランドピアノを弾いているのは、中学の制服姿の私。絵の中の私が弾いている曲は、おそらくラヴェルだ。私が弾いている姿を、彼は後ろでとても優しい瞳で見守り、聴いていたことがあった。その彼の視点から見た私が描かれている。

 (あの優しい瞳に映っていた光景は、これだったんだ。彼にはこんな風に見えていたんだ・・・)

 そのときの彼の様子を想像すると、じんわりと涙があふれ、頬にこぼれ落ちた。次第に涙の粒を大きくなり、ポロポロ、ポロポロとこぼれた。


 描かれたピアノ室はとても美しく、窓から見える空は夕暮れだった。


 「不二は・・・。不二はどうして。どうして・・・。死んじゃったのぉ」

 私は泣き崩れた。立っていることが限界だった。


 彼と話しがしたい。

 彼に会いたい。

 彼の声が聞きたい。

 彼に抱きしめてほしい。

 彼を抱きしめたい。

 どうして、今、ここにいないの?


 藤本が私に近づき、私の頭を撫でた。それからゆっくりと私を覆うように抱きしめた。そのぬくもりに抱かれながら、子供のようにわんわんと泣きじゃくった。

 

 「自殺じゃないよ。小さな男の子を助けようとして、事故に遭ったんだ。」

 「タスケタ?」

 不二は自殺したのではないか? そんな噂が葬式で流れたらしい。藤本はそれを耳にし、私が苦しんでいるのではないか?と思い、教えてくれたのだろう。


 死んだ原因も私は疑問だった。彼が子供を助けて死ぬなんて・・・。壊れているおもちゃの彼と、その正義が、私にはリンクしなかった。


 「おそらく、奈々子ちゃんのおかげで、不二はだいぶ、人間らしくなっていったのだと思う。」

 涙で化粧が流れ落ちた顔で、彼を見上げた。人間らしくなった?

 「貴方は、不二の正体を知っているの?」

 「正体って。」

 彼はクスっと笑った後、「中身が子供だってことは知ってる」と言った。 

 「私は、壊れたおもちゃのような人だと思っているよ。」

 「お。それ、かなり、的確に彼を表しているかもね。」

  初めて、不二の本性を知っている人間に会えたような気がした。


  さんざん泣いたあと、アトリエで私は藤本が淹れてくれた紅茶を飲んでいた。

 「少しは落ち着いた?」

  私は頷いた。藤本は落ち着きがあり、包容力もありそうだ。同い年に甘えてしまったことが気恥ずかしくなった。

 「藤本さんも紅茶派なんだね。」

 「うん、不二も紅茶好きだったよね。ーーーねぇ、奈々子ちゃん。このアトリエは無くすつもりがないから、絵を受け取る心の準備がまだ出来ていないようなら、見たいときにここに来て、見ればいいよ。」

 そう、藤本は提案をしてくれた。


 このアトリエは、私が描いた未来のイメージと似ていた。窓を眺めると木々があって庭があり、私がピアノを弾き、不二が側で本を読んだり、絵を描く。この絵には不二の姿は描かれていないけど、不二がこの絵の中にいるのが分かる。このアトリエは私の描いた未来のイメージが再現されている。できることなら、この場所で、この絵を眺めたい。

 「この絵は、まだしばらく、この場所に置かせてほしい。」

  そう私はお願いした。


 古くなったスケッチブックを改めて見ると、私が始業式でピアノを弾いたシーンや、わたり廊下を歩いているシーン、図書室で本を読んでいる姿などがあった。

 「ははは、不二は奈々子ちゃんの、ストーカーだったみたいだね。どれだけ愛でているんだか。」

 彼は、感傷的に浸り、油断すると闇落ちしそうになる私を励ますかのように、明るく話す。美しい顔立ちは不二と重なる。でも表情が豊かで、相手への気遣いができるところは、不二にはない藤本の持ち味だ。


 「不二はね、臨時教師を辞めたあと、海外を放浪していたんだけど、在る時、ひょっこりウチに来て。庭にあった離れをアトリエに改築して絵を描いていたんだよ。」

 「そう。私、何度か電話もしたし、メールも送ったんだけど、返事はもらえなかった。最後はメール拒否されたから。それで心が折れた。けど、それでも怯まないで彼を探せば、このアトリエに辿りついたかもしれない。」

 「・・・そっか。でもね、不二が奈々子ちゃんのことを大切に思っていたことは間違いないんだ。」


 「それはね、ここ」と言いながら、藤本は絵の裏側を見せてくれた。そこには「To nanako」と文字が描かれていた。

 「私の名前、知ってたんだ。1度も奈々子なんて呼ばれたことがないのに。」

 そういえば藤本と初めて会ったとき、名前を伝えたつもりはないのに「奈々子ちゃん」と呼んでいた。それもこの絵の裏側を見たからだったのか。


 「不二は、私にひどいことしかしてない。15の私の心を身勝手に束縛して、呪いをかけた。私はこの先、死ぬまで、不二の呪縛から逃れられないかもしれない。やっぱり、この絵はひどい。いなくなった後に私に見せるなんて。ひどいよ、不二。」 

 また涙があふれた。不二は勝手にこの世からいなくなった。なのに、いなくなってからも、私をさらに縛り続ける。


 「不二は無自覚だったと思うけど、奈々子ちゃんを自分のものにしたんだね。ひどい男に翻弄されたね。ついでに言えば、僕もその1人だよ。彼に魅了されたまま、ここから離れられないでいる。」

 優しい瞳がすっと真剣な瞳に変った。よく見ると、藤本の瞳は少し青みがかっている。彼の瞳孔に捉えられると、目を離すことができないほどの引力がある。


 ーーー私はこの目を知っている、と思った。シャープな輪郭、バランスが取れた高い鼻梁と、冷たそうな唇。アイボリーのような透明感のある肌。

 

 「藤本さんは色白だね。」

 「日に焼けても赤くなるだけで、すぐに戻っちゃうんだよね。」

 「背、高いね。」

 「うん。子供の頃から同級生よりも頭ひとつ、出てた」

 「指、綺麗だね。」

  藤本は私の前で両手を広げて見せ、「ありがと」と言った。

 「瞳・・・少し青みがかっているよね?」

 「父親がクォーターだから、影響しているのかな。」

 「似すぎてる。」

 私はまばたきも忘れて、藤本の瞳をじっと見た。少しの間があって、藤本拓海はにっこりと微笑んだ。


 「貴方、私と同い年だったよね?」

 「うん、27だよ。」

 (27歳の藤本拓海が不二の・・・。ないない、それはない。そんなわけない。ありえない。)


 私は自分が考えたことを心の中で全力で否定した。私の胸の内を読み解いたのか、藤本は私の両手を握り、彼の顔に近づけ、甲に唇をあてた。そして上目遣いで私を見て、二拍ほど休んでから朗らかに言った。

 「正解ッ。」

 「え・・・?」

 「僕は不二祐介の息子。」

 藤本は子供のように可愛らしく笑った。私は過去の不二の言葉を辿っていた。確か、彼は12歳のときにいたずらされたと言っていた。そのいたずらで出来た命が藤本ということ・・・? まったく、頭の整理が追い付かなかった。


 「僕は不二の両親の親友の家に預けられて、養子にしてもらったの。だから藤本の姓になった。彼がこの家に来たのは、高2のときだったかな。少しだけこの家で一緒に暮らした。不二は自分の子だとわかっていたみたいだけど、僕は知らなくて。だから当時の僕にとっては、お兄ちゃん的な存在だったかな。それからしばらく会えなくなった。で、不二がここに戻ってきたのが、今から10年前だよ。」

 藤本が17歳のときに、30歳の不二が戻ってきたという。彼は一体どんな人生を送っていたのだろう。15の私に何も彼は教えてくれなかった。


 「なかなか、不二の人生って複雑で面白いでしょ? 産んだ人はどこで何をしているか知らないし、まぁ、知りたくもないけど。」

 あっけらかんと藤本が言う。

 「貴方も、相当複雑だよ。」

 「だね。でも僕は幸せだったよ。藤本家の父も母もいい人たちだし。不二も高校のときは無口なお兄ちゃんだったけど、戻ってきてからの10年間は、絵を教えてもらったり、クラシックの話しをしたり。楽しかったよ。10年といってもときどき海外を放浪してたから、いないときもあったけどね。あのね、奈々子ちゃん。僕もキミと同じで、彼が死んだことは到底、受け入れられていない。」

 また、急に真剣な瞳なった。熱が入っている。

 「で、あの絵の中にいる女の子が僕の初恋の相手。」

 彼は彼は少し曲げられた人差し指で絵を指した。

 「不二のことをずっと好きだった奈々子ちゃんのことも好きなんだよ。だからね。僕と一緒にならない? ひとりでは不二のことを乗り越えられないでしょ。不二のことを知っている同士なら、乗り越えられるよ。」


 ああ、この人も。もしかしたら壊れているかもしれない。

 そして私ははっきりと、気が付いた。

 不二とゼロの距離になったあの日から、私は壊れ続けているんだと。


 「私は・・・」と言いかけたところで、藤本に唇を塞がれた。それはとても懐かしかった。ヒンヤリしていて、柔らかかった。

 「あー、今は何も考えない。答えはすぐ出さないで。ゆっくりでいいの。まずは、紅茶を淹れ直すよ。一緒に飲もう。」

 藤本は立ち上がると、アトリエにそなえられていたキッチンの前に立ち、ケトルに水を入れ湯を沸かす。いくつか棚に並んでいた紅茶の缶から1つを選び、ポットに茶葉を入れた。

 

 今は彼の言う通り、考えるのを辞めよう。不二祐介のことを語り合える、同士ができたのだから。不二のことを私は何も知らない。だから知りたい。不二の話しを誰かと思う存分話しをしたかった。もしかしたら、藤本拓海が、不二の呪いを解くカギを握っているかもしれない。


(END)

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あれを『恋』とは名付けられない。(仮) saku @nanashibook

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