32.それから。

 不二祐介に告白した翌日から、彼はいなくなった。私はたぶん、彼はもう学校には来ないだろうと、思っていた。彼の部屋は本や画材などは片付けられていて、残ったものは破棄処分を頼んだそうだ。


 私は中学生と成人男性というアンバランスさを気にしていたが、彼にとってそんなことはどうでもいいことだった。彼は世間一般の大人の成人なんかではなかった。経験が乏しい15の私には、彼をどう修正したらいいのかわからず、お手上げだった。今の私では手に負えないのだ。


 卒業式を明日に控えた放課後。職員室に日誌を届けに行き、教室に戻ろうとした際に、階段の踊り場で舞妓とかよ子、香織に出くわした。

「ナナ、不二に抱いてもらった? かよ子は抱いてもらったよ。」

 また、舞妓が私をからかうように言った。

「かよ子も、舞妓もセックスはルビを入力…してないでしょ。」

 淀みない私の言葉に、舞妓たちは一瞬、怯んで見えた。あの壊れたおもちゃのことだ。最後までしていなくても、何かしら彼女たちのお願いを聞いてしまった・・・かもしれない。

「あと、もう、どうでもいいから、とにかく私に関わらないで。」

 それだけ言い残して私は去った。何か後ろで叫んでいたけど、聞き取れなかった。


 卒業式は滞りなく終わった。教室や校門で後輩から花束をもらう人、先生と写真を撮る人、学校のあちらこちらで写真を撮る人、生徒たちは思い出作りに勤しんでいた。私は、美咲、千里、裕子、岡田、西村と一緒に教室にいた。


 名残おしいような、気持ちも生じた。

 美咲はぽろぽろ泣いている。


 私たち6人は、春休みの間に遊びに行く計画を立てた。桜はまだ咲いていないが、ロープウェイに乗っていく植物園に行くことになった。山の上には温泉や食事処もある。私たちの地元から日帰りで遊びに行くにはほどよい観光地だった。中学生らしい、ひとときだった。「ずっとこれからも6人で会いたいね!」と美咲が言ったけど、6人で揃うのはこの卒業日帰り旅行が最初で最後だった。


 春。私は高校生になった。新しいクラスメイトとの出会いがあり、文化祭、体育祭、修学旅行など学校行事をこなし、いつしかまた受験ムードになる。私はエスカレーター式で大学に上がれる高校には行かなかったので、また受験生になった。部活動は3年間、何もしなかった。代わりに生徒会に入り、書記を任された。会議の議事録や、生徒に配布する学内新聞などを手がけた。


 今回は家庭教師を依頼せず、適宜、塾の講習を受けながら、自分で勉強することを選んだ。ちなみに辛辣で嫌味な家庭教師は、医大を卒業し大学の研修員として働いているらしい。


 私は参加しなかったが、高校2年生の終わり頃、中学の同窓会が開かれた。

「ナナ、参加できないの?」

 まわってきたメールに不参加の返事をすると、美咲から電話がかかってきた。

「塾の冬季講習とぶつかっているんだよね。けど、同窓会なんてまだ2年くらいしか経ってないのに、早いね。」

「でも地元だしみんな、会いたいんだよ。」


 近況報告をし合いあい、美咲との電話を終える。

 風の噂で不二はフランスにいるというのを聞いた。臨時教師になった経緯をたどれば、フランスの滞在先がわかるかもしれない。けれど、私は行動が起こせなかった。まだ私は17歳だ。彼は30歳になる年。当たり前だが、私が年を取れば、不二も歳を重ねる。


 彼は絵を描いているだろうか。ちゃんと、女性からのお願いを断れているだろうか。少しはこの世界になじむふりが上達しただろうか。お守りになっているスマホに保存された、彼の携帯電話番号を表示した。電話をしたら、彼は出てくれるのだろうか。


 ピアノはときおり、弾いた。でもラヴェルは弾くのが怖くなってしまった。彼とのことが思い出されて、胸がぎりぎりと痛む。その痛みは耐えがたいものだった。


 高校3年生になったとき、同じクラスの男の子に告白をされた、丁重にお断りをした。まだ男性と付き合う気持ちが起こらない。不二を好きになったときのような、情動が湧きおこらない。このままだと、生涯、異性と付き合うことができないのでは?と思うことがある。私の心はいまだ、不二に捕らわれている。



 いくつかの春を経て、私は大学に受かり、1人暮らしをすることになった。大学までの春休み。私は不二から教えてもらった、美しい夕日が見える場所へ出かけた。大学に行ったらなかなか見られなくなると思ったからだ。


 その夕日に勇気をもらった私は、彼に思い切って電話をすることにした。1度の電話で彼がすぐに出るとは思わなかったけれど、何度かけても彼は電話に出なかった。電話を諦めて、メッセージを送ることにした。

 

 以前、私がひとりで夕日を見に来たときに、ここから見た夕焼けの写真を不二に送ったことがある。そのときは、しばらくしてから返信がもらえた。私は写真を撮影し、不二の携帯にメッセージと写真を送った。

 『お元気ですか?』

 

 本当は大学に受かったこと、1人暮らしをすることや会いたいことを伝えたかった。でもあれこれ書くと返信がもらえないのではないかと、躊躇った。3月は引っ越しや大学の準備で慌ただしく過ぎ、私は大学生になった。


 大学の勉強に、アルバイトに、1人暮らしの生活にと、とても日々は忙しくなった。気に入った活動がなかったため、サークルは入らなかった。代わりにアルバイトは2つこなした。


 1つは家庭教師。もう1つは美術館に併設されたカフェ店員。家庭教師に関しては、自身も教わったことがあるため、過去の家庭教師を反面教師とした。美術館のカフェでのバイトはときおりチケットをいただけるので、展示会を見ることができた。絵の才能はないが、絵を見るのは・・・好きになっていた。


 1カ月前に送った不二へのメッセージに対する返信はない。バイトで疲れて帰ってきた日。勇気を出して、再び不二に電話をかけた。でも呼び出し音が鳴るだけで、誰もでてくれない。

 「桜井さんならいつでもかけていい。」そう、不二は言って、私に電話番号がかかれた付箋を渡したのに。数年前の約束は反故されてしまったのだろうか。

 「嘘つき。」

 私は画面に表示された携帯電話番号に向かって思わずつぶやいた。



 大学にはピアノを弾ける部屋を個人が借りることができた。その部屋はグランドピアノが1台置けるだけで空間が埋まってしまう、防音壁に覆われた部屋だった。ときおり、ピアノ室を借りてピアノを弾いた。けれど、ピアノを弾くときは必ず弾いていたラヴェルが弾けなくなる。弾き始めると、途中から涙があふれて鍵盤に見えなくなるのだ。目をつぶっても弾けるが、自然に手も止まってしまう。


 不二を突然思い出す夜があった。そんなときは朝まで大抵眠ることができなかった。もう一度だけ、メッセージを送ろう。彼に正直に「会いたい。」とメッセージを送信した。

「え? 送れない・・・。」


 携帯電話番号を変えてしまったのか、それともブロックされてしまったのか。私は絶望した。もう、不二は私とは離れたいのだと思った。私とのことは、あの日の美術室の部屋で終わったんだ。小部屋に残っていた彼の私物の処分を誰かに託していたが、私も含まれていたのかもしれない。


 20歳になったとき、「付き合おう」と男性に言われて、頷いた。

 彼は美術館で知り合った27歳の会社員だった。展示会やイベントなどを運営している会社に勤めている。何度かグループで食事をし、いくどか2人で会い、数カ月を経た頃、彼に「付き合わない?」と言われた。彼からのそう言われたとき、20歳なら27歳とも付き合えるのかと、思った。


 彼は長身で日に焼けていた。仕事は多忙だが、趣味のジェットスキーや、スノボなどアクティブにこなし、友人も多かった。私にはない楽しそうな雰囲気に、彼なら未熟者の私を変えてくれるかもしれないと思った。男の人とお付き合いし、恋人を体験する。経験をすれば、何か新しい道が開けるのでは?とも考えた。


 初めて彼とディープキスをしたとき、私は不二の舌を思い出してしまった。頭がくらくらして、何も他のことが考えられなくなり、不二の動きにただ身を任せた日のことを思い出した。鮮明に不二の唇を思い出した日の夜は、なかなか寝付くことが出来なかった。ベッドの上で1人、泣いた。涙が止まらなくなった。


 初めての付き合った彼との夜。私が処女だったことを知り、彼はなぜかとても感動をしていた。「一生、大切にする」といい、「大学を卒業したら結婚しよう」と言った。大学卒業まで彼と喧嘩をすることもなく過ごしたが、就職が決まったときに、私は別れ話を持ち出した。彼とは、長い話し合いをしたうえで、別れた。


 恋人との付き合いと、就職を両立することができないと思ったことが、別れを切り出した理由だった。彼はとてもいい人だった、と思う。あれこれ色々な場所へ連れ出してくれて、綺麗な景色をたくさん見せてくれた。誕生日や付き合った記念日なども忘れずにお祝いしてくれた。



 就職先は電子書籍と、紙の本を作る会社だった。その他の事業として、ノベルティの企画制作販売を行っている。仕事は本当に忙しかった。平日は謀殺され、土日は出張が多々あり、たまの休日は1人暮らしのベッドの上で倒れ込むようにして睡眠をとった。最初に配属された部署はノベルティの企画制作部門で、ここでは営業や企画書制作、プレゼンテーションなどを学んだ。


 3年目に電子書籍の部署に配属された。紙の本の部署とコラボレーションして制作することもあり、紙の場合、電子書籍の場合の2つを学ぶことが出来た。色んな企画を考えて本作りをするので、例え休みの日であっても、アイデアが浮かぶと、スマホやパソコンを広げてメモをすることが多かった。


 同僚からは体が資本なのだから、スポーツジムに通ったほうがいいとせつかれた。ジムに見学に行ったが肌に合わず、週に1回、ピラティス教室に通うことにした。


 就職してから不二のことを思い出す時間が減った。経験が増えていく中で、仕事の質も変化し、責任のある仕事も増えていった。私は仕事に忙殺されたかった。手帳は予定で真っ黒に埋めたかった。


 入社して3年目。明日から3日間、電子と紙の本の出版記念イベントが、ショッピングモールで開催されることになった。ステージ脇にはなぜかグランドピアノが設置されていた。ピアノを眺めていると後輩が「常設されていて、誰でも弾いて良いらしいですよ」と教えてくれた。


 触れる距離にあるグランドピアノを久しぶりに見た。大学1年生のときに手に入れた、中古の電子ピアノはとうの昔に埃がかぶったまま。何年もピアノには触れていなかった。


 ポーンと一指し指で鍵盤を叩く。調律もちゃんとされている。頭の中に音が流れる。ラヴェル、モーツァルト、ドビュッシー、ブラームス、ラフマニノフ、ショパン、リスト。色んな曲を弾いてきた。暗譜は忘れてないのかな。でも今はきっと弾いたところで、まともに指は動かないだろう。


 ほんの少しだけ、きらきら星変奏曲を弾いた。手の位置は自然と覚えているようだった。ただ、手指がくっついてしまったのでは?と思うほど指が動かず、手首も重い。「先輩、弾けるんですか?」と後輩が声をかけてくる。「昔はね」と返し、イベントの準備を再開した。


 サイン会も開催された。作家先生はテレビなどにもよく出演し、先日映画化が決まった作品もあり、人気の先生だった。集客できる作家さんはイベントで重宝される。初めてお会いする先生だったが、サインをする手を見て、胸が高鳴った。本を持ち、長い手指がページをめくる。アイボリーの肌色でとても綺麗な手だった。


 じっと作家さんの手を見つめていたことに気が付き、はぁーとため息をつく。私はイベント会場から離れて小休止した。

 

 不二祐介のことはほとんど思い出さなくなっている。

 けれど・・・。

 何かの拍子に突然、色鮮やかに思い出すときがある。それは今日のように、不二と少し似た要素がある手指を見たときや、不二と背格好が似ている人を見たとき。夕暮れの空を見たとき。不二が淹れた紅茶の味と似ているときだ。


 一度思い出すと、胸が恋い焦がれるように熱くなり、次に失望し、絶望が襲い、悲しみにくれ、言葉に言い表せない寂しさが訪れる。最終的には、胸を掻きむしりたくなるほどの痛みが走り、どうしようもないほど、不二を感じたくなる。

 不二の匂いを思い切り吸い込みたくなり、吐息と唇の冷たさと味わいたくなり、抱きしめてほしくなり、抱きしめたくなった。


 あれを初恋と名付けていいのだろうか。

 もはや、これは呪いに近い。

 不二は、15の私に決して解くことができない呪いをかけたのだ。

 私の心はあの日からずっと解けない呪縛に苦しみ、泣いている。


 わーっと思い切り、お酒の力も借りて今晩は泣こう。泣き尽くしたら忘れよう。

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