31.男娼

 私と不二は、美術室の彼の小部屋にある棚を背もたれに、2人して床に座っていた。窓の外はすっかり日が暮れ、明りはテーブルライトだけだった。互いに片方の手はつながれていた。彼の涙は止まっていた。彼は何故、泣いたのかもわからないままだった。


 学校で何をしているのだろう。

 私たちはとても非常識だ。


 あれほど、不二と一緒にいるところを見られたらとどうしようと心配したり、青ざめたりしていたのに、今は、他のことなど何もかもどうでもいい気分になっていた。ある種、ここに来てからの衝撃的な出来事の連続に、心身ともに麻痺していたのかもしれない。


「僕は2歳の頃に両親を事故で失って、それからは色んな家で過ごしていた。12歳のとき、大人の人にいたずらされて、それから10代はずっと男娼みたいな感じだったよ。色んな人間が虫みたいに寄ってきて、ずっと気味が悪かった。そのうちに抵抗する気力もなくなって、何も感じなくなった。それが普通だったから。」

 彼の10代の頃の話しは聞くに堪えないものだった。1人の人間が壊れ、壊れていることにも気が付けない状況。悲劇の映画のストーリーを聞いているようにも思えた。

「周囲の人たちが狂ってる。」

「僕自身は何が狂っているのかも分からなかった。でも、僕に絵を教えてくれた人がいた。顔もわからない僕の両親と、大学時代に親しかった人。綺麗な世界を初めて教えてもらったよ。絵を描くことは、僕が生きていくために必要な手段だった。」

 彼の人生に、彼の味方をする人もいたんだと、私は少しだけほっとした。


「女性に。・・・お願いされたら絶対に断ってくださいね。」

「うん。」

「絶対ですよ。」

「うん。」

 拒めないと言ったさきほどの彼の言葉を思い出し、私は釘を刺した。私の言葉がどれくらい不二に届いているのかは、分からない。


「中学の臨時教師、引き受けたのは何故ですか?」

「その、両親の友人に頼まれたから。あとは・・・僕はほとんど中学校に行ってなかったから、見てみたかった。」

「そうだったんですか。よく窓の外を眺めていましたよね?」

「そうだね。学校という空間を眺めてた。」


「私のピアノに、いつ、気づいたんですか?」

「初めてこの学校に来たときだよ。」

「あ・・・。」と私はつぶやき、思い出していた。不二が挨拶をした始業式の日。音楽の先生が休みとなってしまい、急きょ私が校歌の伴奏をした。

「その後、しばらくしてからキミがひとりでピアノ室に入っていく姿を見て、ピアノが聞こえてきたから。桜井さんのピアノはとても気に入っているよ。」


「これからどうするんですか?」

 私は臨時教師を辞めた後のことが気になっていた。

「たぶん、しばらくは日本を離れる。」

「海外に? 絵を描きに行くんですか?」

「わからない。何も決めていないよ。」


「死なないでくださいね。絶対に。必ず帰ってきてくださいね。」

 私は彼が消えてしまうような気がして、そんな言葉を発した。

 彼は私をしばらく見つめ、再び、私の額に唇を置いてから言った。

「うん、わかった。」

「貴方は・・・。本当に、社会の常識も年齢も何もかも関係ないんですね。」

「まともじゃないのは自覚してるよ。」


「どうして・・・あの風景を見せてくれたんですか?」

「なんとなく。」

「何となく?」

「ただ見せたくなったから。」

「あの場所に人を連れていったのは、私だけですか?」

「キミだけだよ。」


「どうして、泣いたんですか?」

「わからない。キミを見たら、涙が出た。」


 私が欲しい答えではないにしろ、尋ねれば答えてくれる。そんな彼とのやり取りが続く中で、今日で彼とは会えなくなるのでは・・・という不安が膨らんでいった。会話を終わらせたくない。このままずっと彼といたい・・・という気持ちが起こる。


「恋人はいますか?」

「いないよ。これまでも、。」

 ここから先も・・・。先に不二にけん制されてしまった。

「好きという気持ちを伝えたかったんです。」

「うん。僕を好いてくれてありがとう。キミを見ているのはとても幸せ。」

 好きという思いを伝えるだけで、そもそも彼と付き合えるとは思ってなかった。でもこんな展開になることは想像すらできなかった。今の私は、彼をどう取り扱っていいのかわからない。取扱する上で説明書が必要だ。

 それにまだ今日の出来事の全てを消化できたわけではない。怒涛のように押し寄せた1つ1つの事柄が、私にとっては一生分くらいの濃厚な事件だった。今、この瞬間、瞬間も。


「私はっ、わたしは・・・遠い未来を描いていました。私がピアノを弾いて、貴方が私の側でピアノを聴きながら本を読んだり、絵を描いたり。そんな未来を勝手に想像していました。」

 彼は目をつぶり、穏やかな表情で私の話しを聞いていた。普段なら私は言いたいことの半分も話せない。なのに、タガが外れてしまったのか、想いがそのまま言葉に変換された。


「窓からは小さな庭が見えて、ときに窓から陽光が降り注ぎ、とても温かい空間なんです。雨の日もとても優しい空間なんです。」

 彼は私の言葉を噛みしめるように聞き、ゆっくりと目を開け、私に顔を近づけた。そしてとても優しいキスをした。そう、これこそが、本来私がイメージしていたファーストキスだった。


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